第71話「ゼロの朝、あるいは最初の余白」
朝六時。
蓮はノートを開いた。
昨夜のページだった。
陽菜の横顔のスケッチがあった。
その隣の余白に、万年筆を持った。
小さく書いた。
「0」
一文字だけ書いた。
眺めた。
三週間前、「21」から始まった数字が、今日「0」になった。
減っていく数字を見続けた三週間だった。
今日から、増えていく数字を見る。
蓮はノートを閉じた。
スマホが鳴った。
高梨からのメッセージだった。
「準備はいいか」
蓮は返信した。
「はい」
「では行ってくる」
「気をつけてください」
「お前が心配することか」
短い会話だった。
でも、十分だった。
蓮はコートを着た。
駅のホームは朝の光だった。
陽菜と桐島が来ていた。
高梨がホームに立っていた。
荷物は少なかった。
キャリーバッグ一つ。
「来なくていいと言っただろう」高梨は言った。
「来てしまいました」桐島が言った。「二度目だが、性に合わんな、黙って見送るのは」
高梨は笑った。
改札に向かいながら、陽菜に言った。
「こいつを、頼む」
「はい」陽菜は言った。「お任せください」
高梨は蓮の前に来た。
「もう過去を向いて歩くな」高梨は言った。「お前はもう、十分に記録した。これからは前を向いて記録しろ」
「はい」
「陽菜さんのことを、ちゃんと記録しろよ。书類より先に」
蓮は少し間を置いた。
「しています。最優先フォルダに」
高梨は手を差し出した。
蓮は握った。
しっかりした手だった。
「元気でいろ」
「高梨さんも」
高梨が改札を通った。
ホームに降りた。
列車が来た。
乗った。
扉が閉まった。
列車が動いた。
窓越しに、高梨が見えた。
こちらを向いていた。
軽く頷いた。
列車が加速した。
遠くなった。
見えなくなった。
汽笛が鳴った。
蓮はホームに立っていた。
記録しようとした。
止めた。
今日は記録しなくていい、と思った。
記録ではなく、記憶にしようと思った。
高梨の背中が遠くなっていく感触を、ただ感じていた。
陽菜が隣に来た。
肩が、わずかに触れた。
それだけだった。
それで十分だった。
【記録:202X年3月23日 07:14】
高梨誠一、出発。
これより新章。
カウントダウン:0。
事務所に戻った。
桐島が資料を持って立っていた。
分厚かった。
「初仕事だ」桐島はテーブルに置いた。「昨日、連絡が来た。〇〇県の〇〇市から。市内の古い記録のデジタル化と、散逸した家系図の復元を頼みたいそうだ」
蓮は資料を手に取った。
開いた。
「期間は半年。報酬は悪くない」桐島は続けた。「帝都物産とかオムニ・データとか、そういう話じゃない。ただの、地味で膨大な仕事だ」
「いいですね」蓮は言った。
桐島が少し驚いた顔をした。
「いいですね、って言ったか今」
「言いました」
「お前が仕事に対してそういう反応をするのは初めて見たぞ」
「未来のための記録です」蓮は資料を見ながら言った。「過去の不正を掘り起こすのではなく、失われた記録を未来に繋ぐ仕事です。脳の使い方が、違います」
「違うのか」
「温かい方向で使えます」
桐島はしばらく蓮を見た。
「……陽菜さんの影響だな、明らかに」
「そうかもしれません」
陽菜がコーヒーを持ってきた。
「何の話ですか」
「お前が蓮を人間にした、という話だ」桐島は言った。
「もともと人間でしたよ」陽菜は答えた。「ただ、少し不器用なだけで」
桐島が笑った。
蓮は資料に戻った。
資料を広げた。
古い文書の写真があった。
明治時代の戸籍。
消えかけた文字。
判読できない部分がある。
でも、前後の文脈から推測できる。
蓮は読み始めた。
一ページ、二ページ。
古い言葉遣い。手書きの文字。インクが薄れた部分。
記録が走った。
照合が始まった。
類似する文字パターン。当時の地名の変遷。苗字の分布。
楽しかった。
過去のデータを敵のために使っていた三年間とは、感触が違った。
同じ記憶の使い方なのに、まるで別のことをしているようだった。
「蓮さん」
陽菜が言った。
「はい」
「さっきから、私のことをよく見ていませんか」
蓮は陽菜を見た。
「見ていましたか」
「見ていました。三回」
「何回か数えていたんですか」
「あなたが私を見るから、つい数えてしまいました」陽菜は少し笑った。「何を記録していたんですか」
蓮は少し考えた。
「新しい記録の最優先事項を確認していました」
陽菜は少し止まった。
「最優先事項」
「はい」
「私が最優先事項なんですか」
「最優先フォルダに保存されています」
陽菜はデスクの上のコーヒーカップを持った。
少し顔を隠すように飲んだ。
「……それは」陽菜は言った。「仕事中に言うことではないですね」
「仕事中でも最優先です」
「蓮さん」
「はい」
「少し、今日は黙って仕事をしてください」
「わかりました」
でも蓮は、陽菜がカップで顔を隠した時の表情を記録した。
【記録:陽菜の顔。コーヒーカップの向こう。耳が少し赤い。光の加減かもしれないが、おそらく違う】
分類を考えた。
「幸福」以外の言葉を探した。
まだ、ぴったりの言葉が見つからなかった。
でも今日は、それでよかった。
言葉が追いつかないものを、今の蓮は怖くなかった。
「記録を始めます」蓮は言った。
「はい」陽菜は答えた。
資料に向かった。
隣に陽菜がいた。
キーボードの音がした。
陽菜が入力を始めた。
蓮も続いた。
二人の処理が、同じリズムになった。
窓から光が差していた。
春の光だった。
三週間前の夜とは、光の色が違った。
重さが違った。
柔らかかった。
【記録:202X年3月23日 10:44】
新会社「Margin Notes」、本格始動。
初案件:〇〇市・歴史アーカイブ復元。
陽菜の輝度、平常比上昇中。
本日の最優先記録:隣の人間。
キーボードの音が続いた。
陽菜が資料を一枚めくった。
「蓮さん、この文字、読めますか」
「読めます」
「どんな字ですか」
「『つなぐ』という字の、古い書き方です」
陽菜は少し間を置いた。
「いい字ですね」
「はい」
「私たちの仕事に似ています」
蓮は少し考えた。
「そうですね」
二人はまた、仕事に戻った。
春の光の中で、記録が続いた。
新しい記録が、積み上がっていった。
第71話 了
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