第7話「波紋」
退職届を出した翌日から、オフィスの空気が変わった。
変わったのは蓮ではなく、周囲だった。
同僚たちがちらちらと蓮を見るようになった。昼休みに声をひそめて話しているのが見えた。内容は聞こえなかったが、話題が自分であることはわかった。
麻衣は朝の挨拶の声が少し大きくなった。愛想がいい。こういう時の麻衣の行動パターンを蓮は知っている。何かを探っている時、麻衣は距離を縮めようとする。
黒川は逆に無口になった。蓮に仕事を振る時も、以前より言葉が短い。
(焦っている)
蓮はそう判断した。田端商事の引き継ぎがある。他にも蓮が抱えている案件は複数ある。黒川はそれを誰に回すか、まだ決めていないはずだ。
蓮には関係ない話だった。引き継ぎ資料は既に作り始めている。完璧な資料を、誰が読んでもわかるように。それだけが今の仕事だ。
昼休み、珍しく同僚の田中が話しかけてきた。
「篠原さん、本当に辞めるんすか」
「はい」
「どこ行くんですか、もしかして同業他社?」
「違います」
「え、じゃあ異業種? 思い切りましたね」
田中は悪い人間ではない。ただ噂好きだ。この会話の内容は今日中に社内に広まるだろう。
「転職先は言えません。ごめんなさい」
「そっか、まあそうですよね」田中は少し残念そうにした。「でも正直、篠原さんがいなくなったら困りますよ。黒川部長、絶対パニックになると思う」
蓮は苦笑した。「田中さんがしっかりしてれば大丈夫です」
「無理っすよ」田中は苦笑いした。「俺、篠原さんみたいに記憶力よくないんで」
記憶力。
何気ない一言だった。でも蓮はその言葉を聞いて、初めて気づいたことがあった。
周囲の人間は、蓮の記憶力を「少し良い程度」だと思っている。異常だとは思っていない。蓮が全ての会話と数字を一言一句覚えていることを、誰も知らない。
それはつまり、誰も警戒していないということだ。
夕方、麻衣が蓮のデスクに来た。
「ねえ、少し話せる?」
「何ですか」
「ここじゃなくて、外で」
蓮は少し考えた。断る理由はなかった。
近くのコーヒーショップに入って、向かいに座った麻衣はしばらく何も言わなかった。
「……後悔してる」
「何を」
「別れたこと」
蓮はコーヒーカップを持ったまま、麻衣を見た。
「部長と、上手くいってないんです」
「そうですか」
「蓮くんって、なんで怒らないの」
「怒る理由がないので」
「……普通、怒るじゃん。私のこと」
蓮は少し間を置いた。
「麻衣さん、俺が全部知ってると思いますか」
「え?」
「黒川部長との関係。お母さんとの連絡。俺のアイデアのこと」
麻衣の顔が、少し青ざめた。
「全部、覚えています」蓮は静かに言った。「でも怒らない。怒っても何も変わらないので」
沈黙。
「じゃあ、なんで」
「俺が動くのは、怒りのためじゃないので」
それだけ言って、蓮はコーヒーを飲んだ。麻衣は何も言えなくなっていた。
第7話 了
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