第6話「退職届」
月曜日の朝、蓮はいつもより三十分早く出社した。
誰もいないオフィスで、蓮は静かに退職届を封筒に入れた。白い封筒、黒いボールペン、縦書きの便箋。形式は完璧だった。
デスクの引き出しにしまって、蓮はパソコンを立ち上げた。
いつも通りの朝だった。
変化が起きたのは、昼過ぎだった。
田端商事から連絡が入った。蓮が作ったプレゼン資料の件だ。担当の鈴木部長から直接、黒川に電話があったらしい。
「篠原」
黒川が珍しく上機嫌な顔で呼んだ。
「田端商事、受注できそうだ。鈴木部長が資料を絶賛してた」
「それは良かったです」
「俺のプレゼン、うまくいったよ。お前の資料のおかげだな」
俺のプレゼン。
蓮は頷いた。「ありがとうございます」と言った。
黒川は満足そうに自分のデスクに戻った。麻衣が「さすが部長ですね」と言った。黒川が笑った。
蓮は画面に視線を戻した。
(二〇〇〇年〇月〇日、十三時二十二分。田端商事案件、受注確定。資料作成者:篠原蓮。プレゼン実施者:黒川部長。評価の帰属先:黒川部長)
記録した。
これが最後になるだろうと、蓮は思った。
就業時間が終わる三十分前、蓮は黒川に声をかけた。
「少しよろしいですか」
会議室に入って、ドアを閉めた。
封筒を両手で差し出した。
「退職届です」
黒川の顔が、一瞬止まった。
「……は?」
「一身上の都合により、来月末をもって退職させていただきます」
「待て待て、急すぎるだろ。何があった」
「特に何もありません。次のステップに進みたいと思いまして」
黒川は封筒を受け取らずに、蓮を見た。
「田端商事の件、終わったばかりだぞ。このタイミングで抜けられたら困る」
「引き継ぎ期間は一ヶ月、丁寧に対応します」
「お前、どこに行くんだ」
「申し訳ありませんが、お答えできません」
黒川の目が細くなった。しばらく沈黙が続いた。
「……考え直せ」
「考えた上での決断です」
蓮は封筒をテーブルの上に置いた。黒川はそれをしばらく見つめてから、渋々手に取った。
「わかった。ただし引き継ぎはしっかりやれ」
「もちろんです」
会議室を出ると、麻衣が廊下に立っていた。たまたまではない顔だった。
「……本当に辞めるの?」
「はい」
「なんで」
「次に行きたいところができたので」
麻衣は何か言おうとして、やめた。蓮は軽く会釈して自分のデスクに戻った。
周囲の視線を感じた。でも誰も声をかけなかった。
蓮は静かにパソコンのシャットダウンボタンを押した。
今日も、普通の一日だった。
第6話 了
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