第5話「最後の残業」
田端商事のプレゼン資料が完成したのは、木曜日の夜だった。
我ながら、よくできていると思った。田端商事の担当・鈴木部長の好みに合わせたレイアウト。最初の三分で結論を提示する構成。数字の裏付けが全ページに入っている。蓮が過去の商談で見聞きした全ての情報を盛り込んだ資料だった。
これで受注できなければ、相手側に問題がある。
翌朝、黒川に提出した。
部長はパラパラとめくって「まあまあだな」と言った。
まあまあ。
蓮は「ありがとうございます」と答えた。
問題が起きたのは、金曜日の夕方だった。
「篠原、今夜残れるか。月次レポートの修正を手伝ってほしい」
黒川が声をかけてきたのは、十七時五十分だった。定時の十分前だ。
月次レポートの修正。それは本来、黒川自身がやるべき仕事だった。毎月蓮が事実上作成して、黒川が自分の名前で提出している。それも三年分、全て覚えている。
「今日は難しいです」
黒川の目が細くなった。
「難しい? お前、予定でもあるのか」
「はい」
「どんな予定だ」
蓮は黒川をまっすぐ見た。
「私的な用事です」
沈黙が流れた。周囲の社員が少し手を止めた気配がした。蓮が残業を断ったことは、おそらく三年間で一度もなかった。
「……使えないな」
黒川は小さく吐き捨てて、自分のデスクに戻った。
麻衣がこちらをちらりと見た。心配そうな顔だった。蓮は気づかないふりをして、デスクを片付けた。
十八時ちょうどに席を立った。
エレベーターのボタンを押しながら、蓮は静かに息を吐いた。怒りはなかった。ただ、一つ確認できたことがあった。
断れる。
それだけだ。人間は、断れる。
桐島のオフィスは、恵比寿の雑居ビルの四階にあった。
インターホンを押すと桐島本人が出てきた。
「来たか。上がれ」
小さなオフィスだった。デスクが四つ、ホワイトボードが一枚、小さな応接スペース。でも整理されていて、無駄がなかった。
「返事を聞かせてほしい」
蓮は椅子に座って、桐島を見た。
「行きます」
桐島は少し笑った。「いつから来られる?」
「来月頭に退職届を出します。引き継ぎ期間が一ヶ月とすると、再来月からになります」
「わかった」桐島は手を伸ばした。「よろしく頼む」
握手した。桐島の手は大きくて、温かかった。
「一つだけ聞いていいですか」
「なんだ」
「俺を誘ったのは、なぜですか。もっと実績のある人間は他にいるはずです」
桐島は少し考えてから答えた。
「お前が黒川の下で三年間、一度も手を抜かなかったからだ」
蓮は黙った。
「誰も見てないと思ってるとこで、一番頑張ってる奴が一番信用できる。俺はずっとそう思ってる」
見ていた人間がいた。
蓮は初めて、少し胸が熱くなった。
「ありがとうございます」
「礼はいらん。結果で返せ」
「はい」
オフィスを出て、夜の恵比寿を歩きながら蓮はスマホを取り出した。転職サイトにアクセスして、ステータスを「転職活動終了」に変えた。
空を見上げた。夜風が少し冷たかった。
来月、退職届を出す。
静かに、ただそれだけを思った。
第5話 了
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