第49話「判決の残響、傍聴しない背中」
テレビが騒がしかった。
どのチャンネルも、同じ映像を流していた。
東京地裁の前。報道陣。傍聴券を求める人の列。
アナウンサーが「本日、帝都物産元会長・永瀬修三被告の初公判が」と話していた。
陽菜がコーヒーを持ってきた。
蓮のデスクに置いた。
「行かなくていいんですか」陽菜が言った。
「どこへですか」
「法廷です。あなたが最も貢献した裁判です」
蓮はコーヒーを手に取った。
「結果は三年前の資料の中に既に書いてあります」
「書いてあった、という意味は」
「証拠が揃っていれば、結果は決まっています。俺が行っても、判決文の文字数が増えるだけです」
陽菜は少し考えた。
「感情的には行きたくないということですか」
「感情的には」蓮はコーヒーを飲んだ。「特に何もありません。行く理由が見当たらないということです」
陽菜は蓮を見た。
「三年前の自分が踏みにじられた場所へ、勝者として乗り込みたい、とは思わないんですか」
蓮は少し間を置いた。
「三年前の自分が望んでいたのは、記録が事実として認められることです。それは高梨検事が実現してくれました。俺が法廷に行くことは、その事実に何も足しません」
陽菜はデスクの前の椅子に座った。
「本当に、怒りはないんですか」
「怒りという感情は、相手に対して何かを求めている時に生じます」蓮は答えた。「俺は今、彼らに何も求めていません」
テレビの中で、裁判長が入廷した。
蓮はテレビを消した。
スマホを手に取った。
高梨から速報が届く設定にしてある。
「仕事をします」蓮は言った。
「今日は休日では」
「陽菜さんがいるなら、休日にします」
陽菜は少し目を丸くした。
「……自分から言うんですか、また」
「言いました」
陽菜は笑った。
コーヒーカップを両手で持って、テレビの消えた画面を見た。
東京地裁、第一法廷。
高梨は傍聴席の端に座っていた。
証人として呼ばれていたが、今日の公判では必要なかった。でも来ていた。
見届けたかった。
十五年前、自分が追いかけていたものの、終わりを。
永瀬が被告席に座っていた。
七十代の老人が、ただの椅子に座っていた。
社長室の革張りの椅子ではなかった。
法廷の、木の椅子だった。
「被告人、永瀬修三に対し」裁判長が読み上げた。「懲役七年を言い渡す」
傍聴席がざわめいた。
高梨はそれを聞いた。
永瀬は顔色を変えなかった。
でも、手が動いた。
膝の上で、わずかに動いた。
それだけだった。
二十年分の権力が、七年という数字に変わった。
別の法廷では、水野が弁護士と並んでいた。
「被告人、水野誠一郎に対し」
水野は裁判長を見ていた。
論理的に考えていた。
控訴すれば。証人を一人切り崩せれば。弁護士が別のルートを見つければ。
「懲役六年を言い渡す」
水野の目が止まった。
考えが、止まった。
初めて、自分の「脳」が通用しなかった。
そう気づいた瞬間、水野は目を閉じた。
「私の完璧な計画が」
呟いた。
隣の弁護士が、聞こえないふりをした。
拘置所の一室。
大河原は壁を見ていた。
判決が出た後、この部屋に戻された。
懲役四年。
壁が、白かった。
何もない壁だった。
何もないから、ずっと考えてしまう。
三年前のことを、大河原は今でも覚えていた。
あの第四会議室。
あの時の篠原の顔。
何も言わなかった。ただ立っていた。段ボールを持って、何も言わなかった。
自分は「記憶力だけの欠陥品」と言った。
あの言葉が、今頃になって戻ってきていた。
あの男は本当に覚えていた。
唾液が三滴飛んだことまで。
大河原は天井を見た。
後悔という言葉が浮かんだ。
でも誰に向けての後悔かが、自分でもわからなかった。
篠原への、なのか。
自分自身への、なのか。
白い壁に、答えは書いていなかった。
桐島コンサルのオフィス。
夕方になっていた。
高梨からのメッセージが、断続的に届いていた。
永瀬、懲役七年。
水野、懲役六年。
大河原、懲役四年。
工藤、懲役五年。
佐久間、執行猶予付き懲役三年(年齢と協力姿勢を考慮)。
黒川、懲役二年執行猶予四年。
石倉、懲役三年。
最後のメッセージに、高梨が一行だけ付け加えていた。
「お疲れ様でした」
蓮はそれを読んだ。
立ち上がった。
ホワイトボードの前に行った。
名前が並んでいた。
永瀬。水野。大河原。工藤。佐久間。黒川。石倉。
それぞれの名前に、マーカーで一本線を引いた。
全員に。
一本ずつ。
線を引き終えた。
ホワイトボードを見た。
全員の名前に、線が入っていた。
三年間、蓮の記録の中で「現在のターゲット」として走り続けていたデータが、全て「完了」に変わった。
その時、スマホに通知が来た。
メールだった。
差出人:田中誠。
件名:「件名なし」。
本文の最初の一行が、プレビューに出た。
「篠原、あの時は本当にすまなかった。俺は」
蓮はプレビューを見た。
一秒、見た。
削除した。
ゴミ箱に移動した。
【記録:202X年〇月〇日 18:34】
田中誠からのメール、削除。理由:読む必要がない。
読む必要がない、というのは怒っているからではなかった。
ただ、もう関係がなかった。
それだけだった。
蓮はホワイトボードを消した。
全部の名前を、消した。
ホワイトボードが、白くなった。
「終わりましたか」
陽菜が後ろにいた。
「はい」蓮は答えた。「三年前の記録、全編の整理を完了しました」
陽菜はホワイトボードの白さを見た。
「どんな気持ちですか」
蓮は少し考えた。
「静かです」
「静か」
「騒がしかった記録が、全部アーカイブに移動しました。今は、静かです」
陽菜は白いホワイトボードを見た。
「次は何を書きますか」
蓮はホワイトボードを見た。
「しばらく、このままにしておきます」
「なぜ」
「白いままにしておく理由を、今初めて考えています」
陽菜は蓮の隣に並んだ。
二人で、白いホワイトボードを見た。
しばらく、黙っていた。
蓮は、頭の中で小さく思った。
言葉にはしなかった。
三年前の自分に、声をかけるとしたら。
お疲れ様でした。
毎日、全部を覚えていてくれて。
ありがとう。
「蓮さん」陽菜が言った。
「はい」
「次の記録は、何から始めますか」
蓮はホワイトボードを見た。
白いままだった。
「陽菜さんから、始めます」
陽菜は少し間を置いた。
「……それは」
「新しいホワイトボードの、最初の一文字として」蓮は答えた。「陽菜さんの名前を書いてもいいですか」
陽菜は蓮を見た。
何も言わなかった。
でも、頷いた。
蓮はマーカーを手に取った。
ホワイトボードの中央に、書いた。
「瀬川陽菜」
新しい記録が、始まった。
第49話 了
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