第48話「最後の叫び、断絶の境界」
安宿の部屋は狭かった。
六畳。窓が一つ。カーテンが薄くて、外の光が透けた。
テレビが点いていた。
ニュースだった。
画面に、蓮の顔が映った。
帝都物産の記者会見の映像の後に、「捜査に協力した民間人」として、蓮の名前が出てきた。
久子はそれを見た。
「あの子が」久子は言った。
麻衣がベッドに座っていた。
「お兄ちゃん、すごいことになってるじゃない」
「私の子よ」久子は言った。「私が育てたのよ、あの子を」
麻衣は久子を見た。
「育てたって言えるの、本当に」
「何が言いたいの」
「お金、使いすぎたのはおばさんでしょ」麻衣は言った。「私は少しもらっただけよ」
「少し? あんたが毎月」
「おばさんだって服を買って、旅行して」
「うるさい」
二人の声が重なった。
テレビの中で、蓮が画面から消えた。
別のニュースに変わった。
久子は画面を見た。
「あの子が謝れば」久子は言った。「また元に戻れるわ。私は親なんだから」
麻衣は窓を見た。
外が暗くなっていた。
「連絡先、もう変えられてる」
「直接会えばいい」久子は立ち上がった。「あの事務所がどこにあるか、ニュースで出てた。行けば会える」
麻衣は少し間を置いた。
「……行く」
理由が違った。
久子は「取り戻したい」と思っていた。
麻衣は「お金が必要」だと思っていた。
でも行く、という結論は同じだった。
翌日の昼前、蓮と陽菜は桐島コンサルの近くを歩いていた。
二日目の休日だった。
昨日の美術館の話を、歩きながらしていた。
「あの絵の、青い部分が気になっています」蓮が言った。
「気になるというのは」
「なぜ青なのか、ではなく。青を見た時に何かが動いた、という感覚があって、それが何なのか今も分析中です」
陽菜は少し笑った。「それが感情です」
「感情は、分析できないんですか」
「できますよ。でも分析している間に、次の感情が来ます」
蓮は少し考えた。
「効率が悪い」
「人間はそういうものです」
そこで、陽菜の足が止まった。
蓮も止まった。
前方に、二人の女性がいた。
久子と、麻衣だった。
三ヶ月前と、見た目が変わっていた。
久子のコートが古くなっていた。麻衣の化粧が薄かった。二人とも、目が赤かった。
「蓮」久子が言った。
陽菜が蓮の前に出ようとした。
蓮は陽菜の腕に触れた。
「大丈夫です」
蓮は前に出た。
久子が近づいてきた。
「蓮、会いたかったわ。お母さんよ」久子は言った。「ずっと心配してたのよ。あの時は状況が悪くて、色々あったけど、でも今は全部終わったんでしょ。また」
「お兄ちゃん」麻衣が言った。泣いていた。「私、借金取りに追われてるの。部屋も出ないといけなくて。少しでいいから、助けてもらえないかな」
久子がその場に膝をついた。
土下座だった。
「ごめんなさい。お母さんが悪かった。でも家族でしょ。助けてちょうだい」
麻衣も膝をついた。
「お兄ちゃん、お願い」
通行人が止まった。
見ていた。
蓮は二人を見た。
「【記録再生:202X年〇月〇日】」
蓮は静かに言った。
「久子さんの発言。『あんたの給料なんか、私が育てた分に比べたら安すぎる。当然でしょ』。この発言の時刻は夜の二十二時十七分です。俺が残業から帰った直後です」
久子が顔を上げた。
「【記録:202X年〇月〇日】」蓮は続けた。「俺の口座から、承諾なく引き出された金額、合計で四十二万円。引き出し者、久子さんと確認済みです。ATMの防犯カメラ映像、保存されています」
「そんなの、昔のことで」
「【記録:202X年〇月〇日】」蓮は続けた。「麻衣さんの発言。録音済みです。『蓮くんのお金なんか、どうせ余ってるんだからいいじゃない。私の方が使い道があるんだから』。続けて、俺のカードを無断で使用した記録、同日三件、合計八万四千円。領収書は全て保存されています」
麻衣が泣き声を上げた。
「そんなつもりじゃ」
「【記録:202X年〇月〇日 23:44】」蓮は続けた。「久子さんの発言。『産まなければよかった』。十四回目の発言です。通算記録数、十四。最初の発言は俺が十一歳の時です」
久子が止まった。
通行人の視線が、集まっていた。
「あなたたちは家族ではありません」蓮は言った。
久子が「違う」と言いかけた。
「俺の記録において」蓮は続けた。「あなたたちは、三年前に清算済みの負債です。返済も、利子も、全て記録しています。差し引きで、俺はあなたたちに何も負っていません」
久子が「蓮、お母さんの話を」と言った。
「【記録終了】」
蓮は二人を見た。
「高梨検事に連絡済みです。以後の接触は、つきまとい行為として法的に対処されます」
路地の入り口から、警察官が二人、歩いてきた。
久子が立ち上がろうとした。
「待って、蓮、待ちなさい」
「さようなら」
蓮は言った。
それだけだった。
振り返らずに、歩き出した。
陽菜が隣に来た。
二人で歩いた。
後ろから、久子の声が聞こえた。
「蓮、蓮! お母さんよ!」
遠くなった。
警察官の声が聞こえた。
さらに遠くなった。
陽菜は何も言わなかった。
蓮も言わなかった。
しばらく歩いた。
角を曲がった。
声が聞こえなくなった。
「大丈夫ですか」陽菜が言った。
「はい」
「本当に?」
蓮は少し考えた。
「幼少期に、楽しかった記憶があります。母と公園に行った記憶。唐揚げを作ってもらった記憶。それは本物です。消えていません」
陽菜は蓮を見た。
「でも」蓮は続けた。「その記録は、アーカイブに移動済みです。参照する必要がなくなりました」
「悲しくないですか」
蓮は少し間を置いた。
「悲しいという感情が来る前に」蓮は言いかけた。
「記録が走る、でしょう」陽菜が続けた。
「今回は少し違います」
「違う?」
「記録より先に、別の何かが来ました」蓮は前を向いた。「何かは、まだ分類できていません」
陽菜は蓮の横顔を見た。
何も言わなかった。
ただ、歩調を合わせた。
少しだけ、蓮の隣に近づいた。
「行きましょう」蓮が言った。「今日のランチの記録の方が、重要です」
陽菜は少し目を見開いた。
「……今、冗談を言いましたか」
「いいえ」
「でも今日の分の記録の方が重要、というのは」
「事実です。今日の記録は、あなたと一緒にいる記録です。三年前の記録より、優先度が高い」
陽菜は少し間を置いた。
それから笑った。
「じゃあ、おいしいお店を選びます」
「お願いします」
二人は歩き続けた。
後ろには戻らなかった。
【記録:202X年〇月〇日 12:19】
久子・麻衣との接触、完了。対応:記録の再生。法的処置の確認。
分類:清算完了。アーカイブ済み。
今後の参照予定:なし。
次の記録は。
蓮は少し前を見た。
陽菜が歩いていた。
「どんなものが食べたいですか」陽菜が言った。
「陽菜さんが好きなものを」
「私が好きなもの、覚えていますか」
「全部覚えています」
陽菜は笑った。
「じゃあ、任せます」
次の記録が、始まった。
第48話 了
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