第47話「記録外の休日、計算不能な色彩」
「お前、最後に休んだのはいつだ」
桐島が言った。
蓮はデスクから顔を上げた。
「三年前の〇月〇日です。インフルエンザで、三日間」
桐島が額に手を当てた。
「それが最後か」
「はい」
「仕事以外で外に出たのは」
「移動の時です」
「目的地のない外出は」
蓮は少し考えた。
「記録にありません」
桐島は椅子を引いて、蓮の前に座った。
「今週は何もするな。帝都物産の案件は高梨が引き継いだ。残りの書類仕事は俺がやる。お前は数日、何もしなくていい」
「何もしない、というのは」
「文字通りの意味だ」
蓮はデスクの上の資料を見た。
「三年前の資料の再整理が」
「要らない」
「帝都物産の関連企業のリストが」
「要らない」
蓮は少し間を置いた。
「何をすれば」
陽菜が奥から出てきた。
「私が決めます」陽菜は言った。「今日は外に出ましょう」
「どこへ」
「決めていません。歩きながら決めます」
蓮は陽菜を見た。
陽菜は既にコートを着ていた。
「資料は」
「置いていきます」陽菜はデスクの上の資料を、そのままにした。「鍵は桐島さんに預けます」
桐島が「行ってこい」と手を振った。
外は秋だった。
光が斜めに差していた。
街を歩いた。
最初の十分は問題なかった。
でも公園に入った瞬間から、蓮の頭が動き始めた。
【記録:通行人A。男性、三十代前後。青いダウンジャケット。歩行速度から推定、急いでいる。目的地、公園の北側出口か】
【記録:通行人B。女性、二十代。犬を連れている。犬種、ミニチュアシュナウザー。毛並みから判断してトリミングから三週間前後】
【記録:ベンチ、右から二番目。塗装の剥がれ方から設置から七年以上経過。メーカーのプレートが錆びている】
【記録:公園の木、銀杏。落葉が始まっているが、全体の三十パーセント程度。ピークは十日後と推定】
止まらなかった。
視界に入るものが、全部処理対象になった。
子供の笑い声。自転車のベル。誰かのスマホの通知音。
全部が入ってくる。全部が記録になる。
【処理負荷:増加中】
蓮の足が、少し重くなった。
「蓮さん」
陽菜が立ち止まった。
蓮の顔を見た。
「顔色が悪い」
「少し」蓮は答えた。「情報量が多いです」
「記録しようとしているんですか、全部」
「自動的に走ります」
陽菜は少し考えた。
それから、蓮の視界の前に、自分の手をかざした。
手のひらが、視界の中央に来た。
「シャッターを切るのをやめて」陽菜は言った。
「やめ方が」
「全部を記録しようとしない。一つだけ選んで。他は捨てていい」
「捨てる、というのは」
「見なかったことにする。今この瞬間、あなたが記録しなかったものは、なくていいものです」
蓮は陽菜の手を見た。
手のひらだけを見た。
他を、止めた。
【処理負荷:低下中】
ゆっくりと、頭が軽くなった。
「できますか」陽菜が聞いた。
「……できます」
陽菜は手を下ろした。
「じゃあ、歩きましょう」
美術館に入った。
陽菜が選んだ場所だった。
「ここなら情報量が制御しやすいかもしれない」陽菜は言った。「動くものが少ないから」
確かに静かだった。
展示室に入った。
絵が並んでいた。
蓮は最初の一枚の前で立った。
【記録:作品番号〇〇。作者〇〇。制作年……】
「それじゃなくて」陽菜が言った。「どう見えますか」
「どう、というのは」
「好きですか、嫌いですか」
蓮はもう一度絵を見た。
分析ではなく、ただ見た。
「……色が、多い」
「多い絵ですね」陽菜は言った。「嬉しそうな色と、寂しそうな色が混ざっています」
「そういう見方をするんですか」
「人によります」
蓮はもう一度見た。
「嬉しそうな色と、寂しそうな色が、混ざっている」蓮は繰り返した。「俺には、その区別の方法が」
「感じるだけでいいです。わからなくても」
蓮は絵の前に立ち続けた。
わからなかった。
でも、見ていた。
夕方になった。
公園のベンチに座った。
光が傾いていた。木の影が長くなっていた。
「疲れましたか」陽菜が聞いた。
「いつもと違う疲れ方です」
「記録の疲れではなく、感じることの疲れ」
「そうかもしれません」
陽菜は前を向いていた。
夕暮れの公園を見ていた。
蓮は陽菜を見た。
さっき陽菜が言ったことを、試してみることにした。
一つだけ選ぶ。他は捨てる。
公園を歩く人を、捨てた。
木の影を、捨てた。
遠くの車の音を、捨てた。
陽菜だけを、残した。
【記録開始:202X年〇月〇日 17:23】
夕光が、陽菜の横顔に当たっていた。
髪が少し揺れた。風があった。
その風が、コーヒーの香りとは違う、何か甘い匂いを持ってきた。陽菜の髪の匂いだった。三年前の記録に、一度もない匂いだった。
目尻に、小さな線が見えた。
笑った時にできる線だった。
今は笑っていないのに、その線はそこにあった。
よく笑ってきた人間の顔だ、と思った。
コートの素材。細かい織目。光の当たり方で色が変わる。
手が、膝の上に置かれていた。
少し冷えているだろう、と思った。
「何を見ているんですか」陽菜が言った。
「陽菜さんを記録しています」
陽菜が蓮を見た。
「私だけを?」
「はい。他は全部、捨てました」
陽菜は少し目を細めた。
「どうでしたか」
蓮は少し考えた。
「今日の記録は、陽菜さん一人で容量の半分を使いました」
陽菜が笑った。
目尻の線が、深くなった。
「あら、光栄だわ」
「これは」蓮は続けた。「俺の記録の中で、一人の人物にこれほどの容量を割いたのは、初めてです」
「それは嬉しいことですか」
「わかりません。でも」蓮はベンチの前を見た。「悪くないという感覚があります」
陽菜はしばらく何も言わなかった。
風が吹いた。
落ち葉が、二人の前を通り過ぎた。
帰り道、蓮は歩きながら考えた。
三年前の自分が、今の自分を見たら何と言うか。
三年前の自分は、毎日記録していた。意味があるのかわからないまま、ただ覚えていた。全部を、欠けなく。
今の自分は、陽菜の髪の匂いのために、公園中の情報を捨てた。
非効率だった。
三年前の自分なら、そう判断しただろう。
でも。
蓮は少し考えた。
三年前の自分が「欠陥品」と呼ばれていたなら。
今の自分は。
「何を考えているんですか」陽菜が隣で言った。
「三年前の自分が今の俺を見たら、何と言うか考えていました」
「どう思いますか」
蓮は少し間を置いた。
「幸せな欠陥品と呼ぶかもしれません」
陽菜は歩きながら、蓮を見た。
「欠陥品は余分です」
「では」
「幸せな人、でいいんじゃないですか」
蓮は前を向いた。
夕暮れの街が続いていた。
【記録:202X年〇月〇日 18:41】
休日。陽菜と歩いた。美術館。公園。夕暮れのベンチ。
陽菜の髪の匂い。目尻の線。コートの織目。
分類:記録外。
記録外、という分類が、今まで一度もなかった。
でも今日は、それが一番しっくりきた。
「明日も休んでいいですか」蓮は言った。
陽菜が少し目を見開いた。
「……自分から言うんですか」
「陽菜さんが来てくれるなら」
陽菜は前を向いた。
でも口元が、動いていた。
「来ます」
第47話 了
この作品が少しでも気になったら、★評価とブックマークをいただけると励みになります。次回更新の力になります。引き続きよろしくお願いします。




