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「俺だけが全部覚えている~三年分の搾取を、事実だけで清算する~」  作者: ジキルぅ
第四章「記録の向こう側」

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第46話「帝国の落日、名前のない祝杯」

テレビの画面に、作業員が映っていた。

高所作業車が、帝都物産本社ビルの壁に近づいていた。

青と白のロゴマーク。創業七十二年。

それが、外されていた。

ボルトを外す作業員の手が映った。ロゴの端が浮いた。それからゆっくりと、壁から離れた。

クレーンが下ろした。

地上に置かれた瞬間、カメラが寄った。

巨大なロゴが、地面に横たわっていた。

蓮はそれをテレビで見た。

【検索クエリ:帝都物産】

結果が変わった。

三年前から積み上げてきた「敵」という分類が、更新された。

【分類:過去の遺物。参照頻度:低下中】

蓮はリモコンを置いた。

テレビの中では、高梨が記者会見をしていた。

「今回の捜査において、民間の協力者の存在が不可欠でした」高梨は言った。「その方の記憶が、二十年にわたる不正の壁を穿ちました」

名前は出なかった。

でも記者たちは全員、わかっていた。

翌朝のネットには「篠原蓮」という名前が、また溢れた。

田中は、三社目の面接から帰ってきた。

電車の中で、スマホを見た。

また、不採用の連絡が来ていた。

三社とも、同じだった。

面接の終盤で「帝都物産の出身ですね」という確認が入った。そこから空気が変わった。

一社目は「また連絡します」と言って、連絡が来なかった。

二社目は「当社が求めるカルチャーと合わない可能性がある」という文面だった。

三社目は今日、面接官が途中で席を外して、戻ってこなかった。

田中は電車の窓を見た。

景色が流れていた。

三年前のことを思った。

篠原が解雇された日。田中は何も言わなかった。言えなかった。言わなかった。

どちらが正確かは、もう自分でもわからなかった。

スマホに、古い同期からメッセージが来た。

「お前、篠原と仲良かったよな。今どうしてるか知ってるか」

田中は少し考えた。

返信しなかった。

電車が駅についた。

降りた。

ホームを歩いた。

篠原蓮という名前を、田中は今も毎日どこかで見た。ニュースで、ネットで、人の会話で。

自分がかつて働いていた会社を潰した男の名前を。

自分がかつて黙って見送った男の名前を。

改札を出た。

【同時刻・蓮の記録】

田中誠の名前、検索クエリに入力。

検索結果:なし。

田中誠は、蓮の日常の検索対象ではなくなっていた。

過去の記録には残っている。でも今の蓮が、毎日走らせる照合リストに、その名前はもうなかった。

住む世界が、完全に分かれた。

夕方、桐島が紙袋を持ってオフィスに入ってきた。

「珍しいものを持ってきた」桐島は紙袋をテーブルに置いた。「知人のワイナリーから取り寄せた。十年物だ」

蓮はデスクから顔を上げた。

「お祝いということですか」

「帝都物産のロゴが外れたのを、ニュースで見た」桐島は椅子に座った。「これで一区切りだろ」

「区切りです」

「だから飲め」

「ありがとうございます」蓮は立ち上がった。「俺はコーヒーにします」

桐島が「お前は本当に」と言いかけて、止まった。

陽菜が奥から入ってきた。

紙袋を持っていた。

「ちょうどよかった」陽菜は言った。「私も持ってきたものがある」

桐島の紙袋と、陽菜の紙袋が並んだ。

陽菜の袋の中から出てきたのは、小さな紙の封筒だった。

「焙煎所の豆です。今日、取り寄せました」

蓮は封筒を見た。

「どこの焙煎所ですか」

「都内の小さなところ。オーナーがこだわりの人で、豆の産地と焙煎の日付が全部手書きになっています」陽菜は封筒を蓮に渡した。「あなたが好きそうだと思って」

蓮は封筒を受け取った。

「コーヒーを淹れてもいいですか」

「それが目的です」

コーヒーミルで豆を挽いた。

豆が砕ける音が、オフィスに響いた。

お湯を沸かした。

ドリッパーを置いた。

ゆっくりと、注いだ。

湯気が立った。

液体が、カップに落ちた。

蓮はカップを二つ用意した。

一つを陽菜の前に置いた。

一つを自分の前に置いた。

座った。

カップを持った。

飲んだ。

【記録:202X年〇月〇日、〇〇社のブレンド。苦味指数〇、酸味指数〇……】

照合を始めようとした。

止まった。

「どうですか」陽菜が聞いた。

蓮はカップを見た。

「三年前の記録にある、どのコーヒーとも一致しません」

陽菜は少し笑った。「そうでしょうね」

「なぜ一致しないのか、考えていました」

「理由がわかりましたか」

「今、わかりました」蓮はカップを持ったまま言った。「三年前の俺は、コーヒーを飲みながら、別のことを考えていました。記録していました。だからコーヒーの記憶は、常に別の記録と混在しています」

「今は」

「今は、コーヒーだけを飲んでいます」

陽菜はカップを両手で持った。

「それは」陽菜は静かに言った。「記録していないということですか」

「記録はしています」蓮は答えた。「ただ、今は記録より味の方に、処理が向いています」

「初めてですか」

「初めてです」

陽菜はカップを一口飲んだ。

「おいしいですか」

蓮は少し間を置いた。

「……はい」

「それがわかれば十分です」陽菜は言った。「私があなたのために選んだものだから」

桐島が遠くで「お前らワインは飲まないのか」と言った。

誰も答えなかった。

夜が深くなった。

桐島が「先に帰る」と言って出ていった。

オフィスに、蓮と陽菜だけになった。

デスクのライトだけが点いていた。

「一つ、確認してもいいですか」陽菜が言った。

「なんですか」

「今、蓮さんは何を記録していますか」

蓮は少し考えた。

「このオフィスの、今の静けさを記録しています。デスクのライトの色。コーヒーカップの残り。窓の外の夜の音」

「私は」

「陽菜さんのことも記録しています」

「どんな風に」

蓮は陽菜を見た。

「三年前の記録と、今の陽菜さんを、同時に参照しています」

「三年前の私は、どんな記録ですか」

「初めて会った日、陽菜さんは俺の記憶を『芸術品』と呼びました」蓮は答えた。「今は、そう呼ばれていません」

「今はどう呼ばれると思いますか」

「わかりません」蓮は少し間を置いた。「ただ、今の方が正確な記録だという感覚があります」

陽菜はカップを置いた。

「芸術品より、正確な記録の方がいいんですか」

「芸術品は、鑑賞するものです」蓮は静かに言った。「正確な記録は、共有するものです」

陽菜は蓮を見た。

しばらく、何も言わなかった。

それから、小さく息を吐いた。

「蓮さん」

「はい」

「その言葉、記録しておいてください」

「しました」

陽菜はカップをデスクに置いた。

立ち上がった。

コートを手に取った。

「おやすみなさい」

「おやすみなさい」

陽菜がドアに向かった。

ドアの前で、一度だけ振り返った。

蓮を見た。

何も言わなかった。

でもその顔が、何かを言っていた。

ドアが閉まった。

蓮はコーヒーカップを見た。

冷めていた。

でも飲んだ。

【記録:202X年〇月〇日 22:47】

今夜のコーヒーの味。

三年前の記録に、一致するものなし。

分類:新規。

優先度:高。

蓮はわずかに、口角を動かした。

笑顔と呼ぶには小さすぎた。

でも、確かに動いた。


第46話 了


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