第45話「不在の証明、記録の墓守」
「エラーが出ています」
蓮はホワイトボードを見た。
名前が並んでいた。永瀬。水野。大河原。工藤。
そして最後の一枠が、空白だった。
「三年前の資料、全一万四千ページを走査しました。全ての人名を抽出して照合しました。該当する未確認の名前が、一つだけ残るはずです」
「残らなかったんですか」陽菜が言った。
「はい。【エラー:該当する氏名なし】」
桐島が腕を組んだ。「名前がないなら、探しようがないんじゃないか」
「いいえ」蓮はホワイトボードの空白を指した。「パズルのピースが足りない時、その欠けている形を見れば、足りないピースの形がわかります」
「欠けている形、というのは」陽菜が言った。
「不自然な空白です」蓮はホワイトボードにマーカーを走らせた。「三年前の資料に、特定のパターンがあります。ファイル番号が飛んでいる箇所が、三十一カ所。修正液の跡がある箇所が、八百二十二カ所。そして特定の期間だけ、記録の粒度が変わっている箇所が、十七カ所」
「記録の粒度?」
「帝都物産の内部文書は、部署によって記録の詳細さが違います。でも特定の期間だけ、ある部署の記録が異様に薄くなっています。関係者の名前が出てこない。判断の経緯が書かれていない。誰かが、情報を意図的に抜いた形跡です」
陽菜はホワイトボードを見た。
「その誰かが、最後の一人」
「はい」蓮はマーカーを置いた。「名前は記録に存在しません。でも、その人間がいた痕跡は、空白という形で残っています」
同じ時刻、都内の住宅街にある、古い一軒家で。
佐久間は縁側に座っていた。
緑茶を飲んでいた。
七十代手前。小柄で、顔が薄かった。街で会っても、一秒後には忘れるような顔だった。
それが、三十年間の武器だった。
スマホでニュースを確認していた。
永瀬逮捕。水野確保。大河原逮捕。工藤への捜査。
全員が落ちた。
でも自分の名前は、どこにも出てこなかった。
当然だった。
三十年間、名前を残さなかった。書類には署名しなかった。会議には出席しなかった。給与は別ルートで受け取った。帝都物産の社員名簿に、自分の名前はない。
「あの若者の記憶が何だ」佐久間は静かに言った。「覚えているためには、最初に見ていなければならない。私は見せなかった。存在しない人間を、記憶で裁くことはできない」
緑茶を一口飲んだ。
温かかった。
スマホが鳴った。
知らない番号だった。
出た。
「佐久間さんですか」
若い男の声だった。
「人違いです」
「三年前の資料、全一万四千ページのうち、八百二十二カ所の修正跡。その筆跡のパターンを分析しました」
佐久間の手が止まった。
「修正の圧力が均一で、利き手が左であることがわかります。修正液の銘柄は三種類使われていますが、うち二種類は現在では廃盤になったものです。製造終了から逆算すると、購入時期は二十年以上前。長年、同じ文房具を使い続ける習慣のある人間です」
佐久間は動かなかった。
「帝都物産の内部調達リストに、その修正液の購入記録が一件だけあります。購入者の名前は仮名でしたが、購入日と、その日に本社ビルに入館した記録の照合で、候補が三人に絞れました。その三人のうち、左利きは一人だけです」
「……何が言いたい」
「会っていただけますか」
佐久間は庭を見た。
秋の庭だった。
「場所を指定してください」
公園のベンチだった。
人気のない、住宅街の中の小さな公園。
蓮が先に来ていた。
佐久間が来た。
座った。
二人は、しばらく何も言わなかった。
「三年前の資料を読んだというのは本当か」佐久間が言った。
「はい」
「全部」
「全部です。一万四千ページ」
佐久間は公園を見た。
「私の名前は、どこにも出てこなかったはずだ」
「はい。出てきませんでした」
「なら、私を特定できないはずだ」
「特定できました」
佐久間が蓮を見た。
「あなたの名前がないこと自体が、あなたが管理者である証拠です」蓮は答えた。「帝都物産の内部文書には、全ての意思決定に関与者の名前があります。しかし特定の案件だけ、関与者欄が空白か、別の名前で埋められています。その別の名前が、実在しない人物であることは照合済みです」
「……別の名前まで確認したのか」
「全員照合しました。存在しない人名として記録されていた十七名のうち、実在が確認できなかったのは四名。そのうち繰り返し登場するのは一名です」
佐久間は動かなかった。
「その一名が使われる案件のパターンを分析しました。全て、帝都物産にとって最もリスクの高い案件です。外部への情報流出を防ぐ必要があった案件、証拠を物理的に処理した案件、関係者を組織から切り離した案件」
「……よく調べた」
「その一名の仮名が使われた案件と、修正液の跡がある箇所の分布が、完全に一致しています」蓮は続けた。「つまり、仮名を使った人間と、資料を修正した人間は同一です」
佐久間は膝の上に手を置いた。
左手だった。
「三十年間」佐久間は静かに言った。「誰にも気づかれなかった」
「はい」
「永瀬にも、水野にも、本当の意味では知られていなかった。彼らは私を使っていたが、私の全体像は見えていなかった」
「そうだと思います」
「なのに、お前だけが見えた」
蓮は佐久間を見た。
「あなたが三十年かけて消したものは、全て残っていました」
「消したはずだ」
「消そうとした跡が、残っていました」蓮は言った。「修正液を塗ることは、そこに何かがあったという証拠です。ファイル番号を飛ばすことは、そこに何かがあったという証拠です。名前を書かないことは、誰かがそれを意図したという証拠です」
佐久間は少し間を置いた。
「逆説だな」
「はい」蓮は答えた。「存在を消そうとすることが、存在の証明になりました」
公園に風が吹いた。
落ち葉が、ベンチの前を通り過ぎた。
「高梨検事が来ます」蓮は言った。「十分後に」
佐久間は立ち上がろうとした。
「逃げても」蓮は続けた。「あなたの経歴は、空白から全て構築済みです。左利きであること、使っていた文房具、関与した案件の全リスト、仮名の使用パターン。全部、高梨検事に提出しています」
佐久間は立ち上がった。
でも歩かなかった。
再びベンチに座った。
「三十年、誰にも見えなかった」佐久間はもう一度言った。今度は独り言だった。「完璧だと思っていた」
「完璧でした」蓮は静かに言った。「ただ、完璧に消したということ自体が、記録されていました」
佐久間は空を見た。
秋の青い空だった。
「一つ聞いていいか」
「はい」
「お前は怖くないのか。私が何をしてきた人間か、わかっているだろう」
「わかっています」
「それでも」
「記録が走っている間は、怖いという処理が後回しになります」
佐久間は少し笑った。
初めて、表情が動いた。
「そうか」佐久間は言った。「俺と似ているな。感情を後回しにして、仕事だけをしてきた」
蓮は答えなかった。
「違うか」
「似ていません」蓮は静かに言った。「あなたが後回しにしたのは、他人への感情です。俺が後回しにするのは、自分の感情だけです」
佐久間はそれを聞いた。
何も言わなかった。
高梨が公園に入ってきた。
その夜、蓮は桐島のオフィスに戻った。
ホワイトボードの空白を埋めた。
佐久間。
名前が入った。
全員が、揃った。
陽菜がホワイトボードを見た。
「終わりましたね、第三章」
「はい」
「どんな気持ちですか」
蓮は少し考えた。
「記録が整理されました」
「それだけですか」
「今のところは」
陽菜はホワイトボードの名前を見た。
永瀬、水野、大河原、工藤、佐久間。
全員の名前の横に、「確保済み」という文字が入っていた。
「蓮さん」陽菜が言った。
「はい」
「三年前のあなたが、今日のこの瞬間を作ったんです」
蓮は陽菜を見た。
「三年前のあなたが、毎日読んで、覚えて、記録していた。それが全部、今日に繋がっている」
「ただ読んでいただけです」
「それが全てだった」陽菜は言った。「あの頃のあなたに、ありがとうと言いたい」
蓮は少し間を置いた。
【記録:202X年10月15日 21:33】
瀬川陽菜、「ありがとう」と発言。対象:三年前の篠原蓮。
心拍数:91。
分類:整理不能。
処理:保留。
「次があります」蓮は言った。
「わかっています」陽菜は笑った。「でも今夜は、少しだけ」
「少しだけ、何ですか」
陽菜はホワイトボードの名前を指した。
「全員、アーカイブに送りましょう」
蓮はホワイトボードを見た。
消えていく名前たちを、想像した。
「はい」
第45話 了
【第三章「帝都の包囲網」35〜45話 完結】
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