第44話「影のフィクサー、沈黙の壁」
帝都物産の会議室に、工藤が入ってきた。
七十代に近い年齢だった。細身で、姿勢が良かった。スーツが体に沿っていた。
無駄がない人間だった。
永瀬とも違う。水野とも違う。大河原とは全く違う。
「弁護士の工藤です」工藤は言った。「先生と呼んでもらわなくて構いません。仕事の話だけしましょう」
残った役員二人が、工藤を見た。
「永瀬さんも水野さんも、素人です」工藤は続けた。「感情で動いた。だから捕まった。感情は証拠になる。感情で動いた人間の記録は、残ります」
「では、どうすればいい」
「篠原蓮の証言能力を否定します」工藤はテーブルに座った。「彼の記憶が完璧であることを前提にしてはいけない。完璧すぎる記憶は、医学的に病理として定義できます。精神鑑定による証言能力の否定、これが最も確実なルートです」
「それは以前にも試みて」
「失敗しましたね」工藤は遮った。「使う医師が悪かった。私のルートで動けば、別の結果になります」
工藤は窓の外を見た。
「もう一つ方法があります」工藤は続けた。「記憶が完璧なら、その記憶に存在しないはずのデータを混入させる。彼が自分の記憶に疑問を持ち始めれば、証言の信頼性は自壊します」
役員の一人が「可能なのか」と言った。
「やってみなければわかりません」工藤は答えた。「ただ、試みる価値はある」
翌日、蓮のスマホに着信があった。
知らない番号だった。
「篠原蓮さんですか」
「そうですが」
「工藤といいます。弁護士です。一度お会いしたい」
蓮は少し考えた。
「目的は何ですか」
「あなたの記憶能力について、専門的な観点からお話ししたいことがあります。悪い話ではありません」
【記録:照合開始】
工藤という弁護士。三年前の資料に、その名前があったかどうか。
あった。
企業不祥事の解決に関与した人物として、複数回出てきていた。
「わかりました」蓮は言った。「場所と時間を指定してください」
カフェは静かだった。
平日の昼前。客が少ない。
工藤が先に来ていた。コーヒーの前に座って、本を読んでいた。
蓮が向かいに座った。
「ありがとうございます」工藤は本を閉じた。「単刀直入に話します。あなたの記憶能力は本物だと思っています」
「ありがとうございます」
「ただ」工藤は続けた。「完璧な記憶には、一つだけ弱点がある」
蓮は工藤を見た。
「情報量です」工藤は静かに言った。「あなたは読んだもの、聞いたもの、見たもの、全てを記録している。では、その記録の中に間違った情報が入っていたら、どうなりますか」
蓮は答えなかった。
「三年前の資料、あなたはその内容を正確に覚えている。でも、その資料自体が正確だったと、どうやって確認しますか。資料を作成した人間が、意図的に一部を書き換えていたとしたら」
工藤はコーヒーを飲んだ。
「例えば、帝都物産の内部文書の中に、実際には存在しない取引記録が混入していた場合。あなたはそれを記憶している。法廷で証言する。でも実際には、その記録は偽造だった。あなたの記憶が完璧であればあるほど、偽の記録は完璧に偽造されます」
蓮は工藤を見た。
工藤の目が、蓮を観察していた。どう反応するかを、計算している目だった。
「三年前の資料に」工藤は続けた。「あなたが今、証拠として使っているデータ。それを作成した人間が、意図的に一つだけ違う数字を入れていたとしたら」
蓮の頭の中で、何かが走った。
照合を開始した。
三年前の資料、全データ。
照合先、現実の裏付けデータ。
一致を確認していく。
一件、二件、三件。
百件、二百件。
【記録:202X年10月14日 11:44】
処理が、止まらなかった。
全件を、一度に照合しようとした。
三年分の全データが、同時に動いた。
【警告:検索クエリ過負荷。処理速度低下中】
蓮の視界が、わずかに揺れた。
カフェの景色が、一瞬だけ重なった。
今のカフェと、三年前のオフィスが。
「どうですか」工藤が言った。「少し考え込みましたね」
蓮は工藤を見た。
工藤が微かに口角を上げていた。
「完璧な記憶は、完璧な疑念にも弱い」工藤は静かに言った。「全てを記録しているからこそ、一つの不安が全てに波及する」
蓮の頭の中で、データが乱れていた。
照合が止まらない。全件を同時に確認しようとする処理が、走り続けていた。
「蓮さん」
声がした。
陽菜だった。
いつの間にか、隣の席に来ていた。
「記録じゃない」陽菜は静かに言った。「今のあなたを見て」
蓮は陽菜を見た。
陽菜の目があった。
今この瞬間の、陽菜の目。
記録ではない。今、ここにある目。
【記録:強制停止】
全件照合が、止まった。
蓮は息を吐いた。
カフェが、カフェだけになった。
「ありがとうございます」蓮は言った。
陽菜は何も言わなかった。
ただ、蓮の手の甲に、自分の手を一瞬だけ置いた。
それだけだった。
工藤が二人を見ていた。
「有能なサポートですね」工藤は言った。
「彼女は俺の記録には入っていません」蓮は工藤を見た。「今の情報だけで判断できる、数少ない対象です」
工藤の目が細くなった。
「なるほど」
「工藤さん」蓮は続けた。「俺の記録に疑念を植えようとしたことは理解しました。でも一つだけ確認させてください」
「どうぞ」
「二十年前の〇〇失踪事件。工藤さんが関与して解決した案件です」
工藤の目が変わった。
一瞬だった。でも蓮には記録された。
「その事件で、本来提出されるべき物的証拠が一点、消えています。消えた経緯が、三年前の資料の片隅に残っていました」
「三年前の資料に、二十年前の事件が」
「はい。帝都物産が工藤さんに支払った報酬の明細書の中に、案件名として記録されていました。その案件名から、俺は事件を特定しました」
工藤は動かなかった。
「消えた証拠の保管場所の候補が、その資料の中に一行だけ書いてありました。地名だけです。でも、地名と事件名と工藤さんの名前が同じ行に入っていた」
工藤のコーヒーカップが、テーブルの上で止まった。
「その情報は」工藤の声が変わった。「どこまで」
「高梨検事に、今朝の時点で共有しました」
工藤は動かなかった。
二秒、三秒、四秒。
「……二十年」工藤は静かに言った。「二十年、誰にも知られていなかった」
「三年前の資料に、入っていました」蓮は答えた。「それだけです」
工藤はカップを置いた。
立ち上がろうとした。
でも足が動かなかった。
そのまま、椅子に沈んだ。
フィクサーの仮面が、静かに剥がれた。
その下にあったのは、二十年分の恐怖を抱えた、ただの老人だった。
カフェを出た。
外は秋の光が明るかった。
陽菜が並んで歩いた。
「大丈夫ですか」
「はい」
「さっき、少し揺れましたね」
「全件照合を同時に走らせようとしました。過負荷になりました」
「それは」陽菜は少し間を置いた。「珍しいんですか」
「初めてです」
陽菜は前を向いて歩いた。
「あなたが人間でよかった」
「どういう意味ですか」
「機械なら、あのまま壊れていたかもしれない」陽菜は言った。「でも、私の声で止まった」
蓮は少し考えた。
「なぜ止まったのかは、まだ分析中です」
「分析しなくていいです」陽菜は言った。「ただ、止まった。それだけでいい」
蓮は歩きながら、記録した。
【記録:202X年10月14日 12:17】
瀬川陽菜の声で、過負荷処理が停止した。
メカニズム:不明。
分類:不明。
優先度:最高。
「次は何が残っていますか」陽菜が言った。
「残存ターゲット、あと一人です」
「誰ですか」
「三年前の資料に、最後まで名前が出てこなかった人間です」蓮は答えた。「出てこなかった理由が、今わかりました」
「理由は」
「その人間だけが、資料の作成を管理する立場にあったからです。自分の名前を、全ての書類から消していた」
陽菜が止まった。
「……自分を消せる人間がいたんですか」
「一人だけ。でも」蓮は続けた。「消せなかったものが一つあります」
「何ですか」
「消そうとした痕跡そのものです」
第44話 了
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