第42話「脳の誤算、記録の網」
桐島が封筒を持ってきた。
「今日だけで十二通。取材依頼が七通、協力要請が三通、あとは個人からの贈り物の送り状が二通。百貨店の商品券らしい」
蓮は資料から目を上げなかった。
「全部お断りしてください」
「そうするけどな」桐島は封筒をテーブルに置いた。「あとこれ、別件だ。お前の母親と、妹と名乗る女性から会社に直接電話が来た。お前に取り次いでほしいと」
蓮は少し間を置いた。
「【アーカイブ:参照権限なし】」
桐島が眉を上げた。「何だそれは」
「その名前のデータは、俺の中では更新が止まっています。転送先もありません」
桐島はしばらく蓮を見た。
「……わかった。そう伝える」
陽菜が桐島の隣で、少しだけ表情を動かした。
嬉しそうではなかった。でも、安心に近い何かだった。
「では仕事に戻りましょう」陽菜は言った。「水野の動向は」
「昨夜から、本社への出社記録がありません」蓮は資料を指した。「三年前の記録に、水野専務が個人的に管理していた物件が一つあります。神奈川県の郊外、登記上は別の法人名義になっていますが、購入時の交渉に水野の名前が出てきます」
「別荘ですか」
「形式上は。実際には、書類の保管場所として使っていたと思います」
陽菜は少し考えた。「今日動く可能性がありますか」
「永瀬が確保されてから三十六時間が経ちます。水野の性格を考えると、これ以上待てないはずです」
「高梨さんに連絡します」
「お願いします」
蓮は資料に戻った。
水野誠一郎の名前が、また出てきた。
同じ時刻、都内のマンションの一室で。
水野は電話を切った。
帝都物産の顧問弁護士からだった。「永瀬は全面的に黙秘しています。ただ、捜索令状が拡大される可能性がある」という内容だった。
水野はスーツを着た。
ネクタイを締めた。
鏡の中の自分を見た。
三十年だ。
三十年、この会社のために動いてきた。
永瀬は「顔」だった。でも実際に全てを設計したのは自分だった。資金ルート、工作の手順、証拠の管理方法。全部、自分が考えた。
永瀬が捕まったのは、あの男が甘かったからだ。
「記憶能力」などという子供騙しに、動揺したからだ。
水野は違う。
証拠を物理的に消せば、あの若者の「記憶」などただの証言に過ぎない。証拠のない証言は、法廷では無力だ。
焼却業者に連絡していた。今日の午後、郊外の別荘で落ち合う手筈になっていた。
水野は鏡を見た。
エリートの顔だった。
三十年、そうであり続けた顔だった。
「記憶能力で俺を追い詰められると思っているなら」水野は静かに言った。「笑わせる」
神奈川の郊外。
山の中腹に、一軒の建物があった。
登記上は「山野商事」名義の保養施設。実際には水野が個人的に管理してきた場所だった。
最寄り駅から車で三十分。周囲に民家はない。
水野は専用の焼却業者、二人を連れてきていた。
「中に入れますか」業者の一人が言った。
「問題ない」水野は鍵を取り出した。
ドアを開けた。
照明がついた。
「こんにちは、水野専務」
蓮が椅子に座っていた。
テーブルの上にコーヒーカップがあった。飲みかけだった。
高梨が壁際に立っていた。
水野の後ろから、別の捜査官が入ってきた。
業者の二人が、すでに別の捜査官に挟まれていた。
「な」水野が言った。「なぜここが」
「三年前の資料に、この物件の所在地がありました」蓮は答えた。「正確には、土地の取得交渉の記録の中に、物件の住所と水野さんの名前が並んで記載されていました」
「それだけで、ここが俺の隠し場所だとわかるはずがない」
「他に二つ、確認情報がありました。一つは登記の経路。もう一つは」蓮は立ち上がった。「水野さん、三番目の引き出し、ご確認ください」
水野は動かなかった。
「奥にボイスレコーダーがあります。電池が切れています。三年前の六月、あなたが最後に録音した日から、一度も交換されていない」
水野の顔が変わった。
「なぜ」
「三年前の資料に、あなたが購入したボイスレコーダーの型番と使用電池の記録がありました。あの型の電池寿命は約三年です。今月が、ちょうど交換時期です」
水野は引き出しを見た。
動けなかった。
高梨が前に出た。
「水野誠一郎さん、令状があります」
水野は振り返った。
逃げ場がなかった。
後ろに捜査官。前に高梨。横に蓮。
「あなたは」水野は蓮を見た。「何者だ」
「篠原蓮です」
「何者か聞いている」
「記録する者です」蓮は答えた。「それ以上でも、それ以下でもありません」
水野の顔が歪んだ。
「証拠を焼けば勝てると思っていた」蓮は続けた。「でも水野さん、一つ誤算がありました」
「何だ」
「この別荘の火災報知器」蓮は天井を見た。「三年前、あなたが業者に頼んで感度を下げさせましたね。証拠を焼く際に、警報が外部に届かないように」
水野は天井を見た。
「そのおかげで、俺たちが一時間ここで待っていても、外部にアラートが行きませんでした。静かに準備できました」
水野はゆっくりと、壁に手をついた。
「あなたの知恵は全て」蓮は静かに言った。「三年前の俺が、読了済みです」
水野の膝が、折れた。
文字通り、床に向かって沈んでいった。
高梨が頷いた。
「確保してください」
捜査官が動いた。
帰りの車の中で、蓮は窓の外を見た。
神奈川の山道が続いていた。
陽菜が隣に座っていた。
「水野さんの反応、どうでしたか」
「想定通りでした」
「後悔していましたか」
蓮は少し考えた。
「後悔ではなく、驚きに見えました。自分が完璧だと思っていたことへの驚きです」
陽菜は窓の外を見た。
「三十年、組織のトップとして動いてきた人間が、三年前のシュレッダー資料に全部入っていた」
「はい」
「あなたって、本当に」陽菜は静かに言った。「三年前の自分すら、味方にしてしまう」
蓮は少し間を置いた。
「三年前の自分は、ただ読んでいただけです。ただ覚えていただけです」
「それが全てだったのよ」陽菜は蓮を見た。「あの頃のあなたが一生懸命だったから、今のあなたが強い」
蓮は答えなかった。
窓の外に、山の木々が流れていった。
【記録:202X年10月12日 16:44】
水野誠一郎、確保。帝都物産、実務責任者の身柄確保完了。
残存ターゲット:調査中。
「次は誰ですか」陽菜が言った。
「水野さんの証言次第ですが」蓮はタブレットを開いた。「押収した資料の中に、まだ名前が出てきていない人間が三人います」
「三人」
「一人ずつです」蓮は画面を見た。「彼らが組織という鎧を脱ぐまで」
陽菜は少し笑った。
「急がないんですね」
「急ぐ必要がありません」蓮は答えた。「逃げ場は、もうありません」
車が山道を下っていった。
夕方の光が、窓から差し込んできた。
蓮はタブレットの画面を見続けていた。
次の名前を、探しながら。
第42話 了
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