第4話「母という檻」
月末が来るたびに、蓮の胃は少し重くなる。
理由はわかっている。母からの電話だ。毎月二十八日、前後一日の誤差で必ずかかってくる。時刻はだいたい夜の八時から九時の間。蓮はそれを三年分、全て覚えていた。
スマホが鳴ったのは、夜八時十七分だった。
「もしもし」
『蓮、今月の振り込みまだよね?』
挨拶はない。いつものことだ。
「今日振り込みます」
『助かるわ。あ、できれば少し増やしてもらえない? 先月エアコンが壊れて修理代がかかって』
蓮は少し間を置いた。
「今月は今まで通りの額で」
『え、なんで? 蓮は若いんだから稼げるでしょ。お母さんはもう働けないんだから』
母が働けない理由を、蓮は知っている。体が悪いわけではない。職場の人間関係が嫌になって辞めた仕事が、三年間で四つ。本人は「環境が悪かった」と言う。蓮はその全ての経緯を、電話で聞かされた全ての言葉を、一言一句覚えていた。
「エアコンの修理代の領収書、送ってもらえますか」
『……なんで? 信用してないの?』
「確認したいだけです」
沈黙。
それから母は声のトーンを変えた。泣き声に近い、柔らかい声に。
『蓮、お母さんがどれだけ苦労してあなたを育てたか、わかってる? 女手一つで、本当に大変だったのよ。なのにそんな冷たいこと言うの?』
(二〇〇〇年〇月〇日、午後九時三分。同じセリフ。二〇〇〇年〇月〇日、午後八時四十一分。ほぼ同じセリフ)
蓮の頭の中で記録が走る。このセリフは過去に何度聞いたか、数えたことがある。三十一回だ。
「わかっています」と蓮は答えた。「今月は今まで通りの額を振り込みます。増額は難しいです」
『もういい』
電話が切れた。
蓮はスマホを置いて、振込アプリを開いた。いつもの金額を、いつもの口座に送金した。
それから少し考えた。
来月から、減らす。
三万円。それが蓮の出した結論だった。感情ではなく、数字で考えた結果だ。自分の手取り、生活費、投資に回す額、桐島の会社に移った後の想定収入。全てを計算した上での三万円だった。
来月、伝える。
静かに、数字で。
翌日の昼休み、麻衣が蓮のデスクに来た。
「ねえ、最近ご飯行ってないね」
別れてから初めての、プライベートに踏み込む一言だった。
「そうですね」
「なんか、元気なさそうだから心配で」
蓮は麻衣の顔を見た。心配しているように見えた。表情は柔らかく、声も優しかった。
でも蓮は覚えていた。
二〇〇〇年〇月〇日、午後六時。蓮が残業で疲弊していた夜、麻衣が「大変だったね」と言いながらスマホで別の男とメッセージのやり取りをしていたことを。画面がちらりと見えた。名前は「黒川さん」だった。
「ありがとうございます。大丈夫です」
「……そっか」
麻衣は少し寂しそうな顔をして、自分のデスクに戻った。
蓮はパソコンの画面に視線を戻した。田端商事のプレゼン資料の続きを作る。完璧な資料を。誰がどう見ても文句のつけようがない資料を。
それが今、蓮にできる最善だった。
夜、蓮は投資の勉強を二時間した。
インデックス投資の基礎、個別株のリスク、税制優遇の仕組み。読んだ内容は全て頭に入る。一度読めば忘れない。それが蓮の記憶だった。
口座の残高を確認した。少しずつだが増えている。
桐島の会社に移れば最初の半年は収入が下がるかもしれない。でも一年後、二年後の数字を蓮は頭の中で計算していた。桐島の会社の成長率、業界の動向、自分が持ち込める案件の見込み。
数字は、嘘をつかない。
蓮は電気を消してベッドに入った。
明日も普通に出社する。普通に働く。普通に笑う。
でも頭の中では、静かに準備が続いている。
第4話 了
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