第38話「逆襲のホワイトリスト、組織の瓦解」
地方検察庁の支部は、本庁から離れた場所にあった。
古いビルの四階。エレベーターが一基しかない。廊下の蛍光灯が一本、切れかけていた。
高梨の部屋は、その廊下の突き当たりにあった。
名前のプレートが古かった。プレートの端が、わずかに浮いていた。
陽菜がノックした。
「どうぞ」
声は低かった。でも張りがあった。
入ると、机の上に書類が積まれていた。窓から外が見えた。本庁の方角だった。
高梨が顔を上げた。
五十代、がっしりした体格。顔に刻まれた線が深かった。疲れているのに、目だけが違った。まだ燃えている目だった。
「瀬川商事の瀬川です」陽菜が言った。「ご連絡した件で」
「聞いています」高梨は書類を置いた。「帝都物産の件でしょう。……正義ごっこは、もう飽きましたよ」
冷笑だった。でも本気で冷めた目ではなかった。傷ついた目だった。
「十五年前に追いかけた。証拠も揃えた。でも上から止められた。それだけです。今さら」
「一つだけ聞かせてください」蓮が言った。
高梨が蓮を見た。
「201X年、あなたが捜査を断念させられた件。当時の検事正が受け取った賄賂の額、日付、口座名義」
高梨の目が動いた。
「その検事正の個人口座に、帝都物産の系列法人から振り込まれた金額は合計で二千三百万円。振込日は九回に分けて、202X年〇月から〇月の間です。口座名義は本人名義ではなく、妻の旧姓を使った口座です」
高梨が立ち上がった。
「……なぜ知っている」
「三年前に読んだ資料の中にありました。当時は意味がわかりませんでした。今は全部繋がっています」
高梨は蓮を見た。
机を回って、蓮の前に来た。
「本当に、全部あるのか」
「はい。ページ数で言えば、三年前の資料のうち関連するものが八十四ページ分あります。口頭で再現できます。全て」
高梨はしばらく蓮を見た。
蓮は目を逸らさなかった。
高梨が手を伸ばした。
蓮の肩を、一度だけ叩いた。
「……わかった」
声が変わっていた。
さっきまでの冷笑はなかった。十五年前の目が、戻っていた。
同じ時刻、帝都物産の社長室では。
永瀬が窓の外を見ていた。
三島が立っていた。
「中条を動かせなかった」永瀬は言った。「山根の身柄も取れなかった。株価は二日で十二パーセント下落した」
「次の手を考えています。別のルートで」
「別のルート」永瀬は繰り返した。感情のない声だった。「三島さん、あなたはこれまで何年うちで動いてきましたか」
「……十八年です」
「そうですか」永瀬は振り返った。「ご苦労様でした」
三島の顔が白くなった。
「会長」
「引き継ぎの資料を作ってください。後任には私から話します」
「待ってください、まだできることがあります。山根の家族を」
「山根の家族はすでに保護されています」永瀬は静かに言った。「あなたが動く前に、相手が動いていた」
三島は答えられなかった。
「あなたはもう、この件に関わらないでください」
永瀬は視線を窓に戻した。
「……それだけですか」三島は絞り出した。「十八年、全部捨てろということですか」
永瀬は答えなかった。
答えないことが、答えだった。
三島は部屋を出た。
廊下を歩いた。
自分の足音が聞こえた。
エレベーターのボタンを押した。
待ちながら、壁を見た。
壁に、帝都物産の創業七十二周年を記念したパネルがあった。「誠実と信頼」という文字が入っていた。
三島はそれを見た。
笑えなかった。
エレベーターが来た。
乗った。
下降した。
桐島コンサルに、着信が来たのは夕方だった。
番号は知らなかった。でもエリアコードから、帝都物産の本社に近い場所からかかっていることがわかった。
蓮が出た。
「篠原さんですか」
男の声だった。
「そうですが」
「三島です。帝都物産の」
蓮は答えなかった。
「話を聞いてほしい。俺は捨てられた。全部、あの会社に与えてきた。でも今日、切られた。十八年で、それだけだ」
「何を伝えたいですか」
「取引がしたい。俺が知っていることを全部話す。代わりに、俺の罪を軽くしてほしい」
蓮は少し考えた。
「内部情報の提供を求めているということですか」
「そうだ。永瀬の本当の狙い、帝都物産の最後の隠し資産の場所、政界への工作ルート。全部知っている」
「わかりました」
「取引、できますか」
「俺には約束はできません」蓮は答えた。「ただ、高梨検事に繋ぐことはできます。彼に話してください」
沈黙。
「高梨……あの男が動いているのか」
「はい」
また沈黙。
「……わかった」三島は言った。「繋いでくれ」
電話が終わった。
蓮はスマホを置いた。
【記録:202X年10月9日 17:44】
三島大輔、内部告発の意思あり。高梨検事に接続予定。帝都物産、内側からの崩壊が始まった。
陽菜がコーヒーを持ってきた。
「三島さんから?」
「はい」
「何を言っていましたか」
「取引を求めてきました。内部情報と引き換えに、罪の軽減を求めています」
陽菜は少し考えた。「高梨さんに話をつなぐということでいいですか」
「はい。彼が判断すべき話です」
陽菜はコーヒーを蓮の横に置いた。
「三島さんも、同じ道を歩みましたね。黒川さんと同じように」
「同じです」蓮は答えた。「組織に全部与えて、最後に捨てられる」
「あなたは違った」
「俺は最初から、組織に全部与えていたわけではありません」
陽菜は少し蓮を見た。
「そうね」静かに言った。「あなたは記憶だけは、誰にも渡さなかった」
翌日の午前、高梨検事が拠点に来た。
山根が別室から連れてこられた。
高梨は山根を見た。山根は高梨を見た。
「久しぶりだな、山根」高梨は言った。
山根が目を細めた。「……知っているのか」
「お前のことは十五年前から知っていた。ただ、証拠がなかった」高梨は蓮を見た。「今は、ある」
蓮と高梨の目が合った。
「君の記憶、本当に間違いはないんだな」
「一文字も狂いません」
高梨は少し間を置いた。
それから頷いた。
深い頷きだった。
「わかった。行くぞ、山根」
山根が立ち上がった。
廊下を歩いていく二人の背中を、蓮は見た。
【記録:202X年10月10日 09:22】
山根大作、高梨検事へ引き渡し完了。帝都物産への正式捜査、開始予定。
蓮はモニターに向かった。
画面に、一枚の写真を表示した。
永瀬修三。七十代、白髪、細身。静かな目。
その写真の上に、一行のテキストを入力した。
【記録:最終ターゲット】
画面を見た。
組織は嘘をつく。
法も、時に嘘をつく。
でも記録された事実は、裏切らない。
一文字も、一秒も。
第38話 了
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