第37話「聖域の綻び、正義の再構築」
朝の九時、帝都物産の株価が寄り付いた。
前日比マイナス七パーセント。
チャートが垂直に落ちた。
ニュースサイトのトップに、昨夜のリーク記事が並んでいた。「死亡記録のある人物が企業コンサルタントを襲撃」「依頼元は大手企業か」。SNSでは帝都物産の名前がトレンドに入っていた。
帝都物産の広報部は朝から電話が鳴り続けていた。
三島は自室のモニターで株価チャートを見ていた。
コーヒーカップを持っていた。
画面の数字が更新されるたびに、指先が白くなった。
マイナス七・四パーセント。
マイナス七・九パーセント。
手が動いた。
コーヒーカップが机の端を滑った。
落ちた。
高価な絨毯に、黒い染みが広がった。
三島は見なかった。画面から目を離せなかった。
「広報から連絡が来ています。コメントをどうするか」部下が言った。
「ノーコメントだ」
「しかし」
「ノーコメントと言え」三島は怒鳴った。「それ以外の言葉を出すな」
部下が出ていった。
三島は染みを見た。
白い絨毯に広がる黒。
帝都物産が、汚れていく。
上階の社長室では、永瀬が窓の外を見ていた。
都心の朝の光が差していた。いつもの朝と変わらない景色だった。
「中条に連絡しなさい」永瀬は静かに言った。「山根を引き取れ。病院に入れて、口を封じる」
秘書が頷いた。
「早く」
それだけだった。
警備会社の拠点に、黒い車が二台止まった。
ナンバープレートは一般の車だった。でもドアから出てきた男たちの立ち姿が、一般人ではなかった。
中条達也が先頭に立った。
五十代、細身、眼鏡。スーツが整っていた。髪も整っていた。全てが計算された「エリート」の外観だった。
「検察です」中条は受付に言った。「山根大作の身柄を引き取りに来ました」
受付が陽菜を呼んだ。
陽菜が出てきた。
「令状をご確認させてください」陽菜は言った。
中条は書類を出した。
陽菜が確認した。形式は整っていた。
「山根は現在、弊社の保護下にあります。任意の協力関係です。強制力はないはずですが」
「令状があります」中条は静かに言った。「これは国家の捜査です。民間人が口を出す領域ではない」
「弁護士を」
「すでに連絡を取っています。しかし令状の効力はその前に発生します」
陽菜が口を開きかけた。
法的な正論だった。止める手段が、今この瞬間にはなかった。
中条が奥に向かった。
山根が座っている部屋まで、あと数歩。
「中条先生」
蓮が言った。
廊下の端に立っていた。
中条が振り返った。
「部外者は黙っていなさい。これは司法の手続きです」
「一つだけ確認させてください」蓮は言った。「201X年に先生が担当された〇〇事件。覚えていらっしゃいますか」
中条の足が止まった。
「何の話ですか」
「被害者の氏名は〇〇さん。当時二十三歳。証拠品はナイフ一本。そのナイフから検出された指紋データが、検察庁のサーバーに提出される前に一度削除されています」
中条の表情が変わった。
「何を根拠に」
「削除時刻は深夜二時十四分です。先生が残業されていた夜です。別の数値に書き換えられ、翌朝提出されました」
廊下が静かになった。
「そのような事実はない」中条は言った。でも声が、一段低くなっていた。
「帝都物産の資料の中に、検察内部への依頼リストがありました。三年前に読みました。そのリストに、先生の名前があります」
中条の額に、光るものが見えた。
「どこで」
「読んだものは全部覚えています。ページ数も、行数も、隣に書いてあった金額も」
中条は動かなかった。
その目から、余裕が消えていた。
エリートの仮面の下に、十年分の恐怖があった。
「法的手続きに従った正当な捜査に対し、妨害する気ですか」中条は言った。声が変わっていた。
「妨害しません」蓮は答えた。「ただ、一つ申し上げます」
蓮は中条を見た。
「先生が今日ここで山根さんを連れ出した場合、この会話の記録は、然るべき場所に提出されます。〇〇事件のデータ改ざんの事実と共に」
「脅しですか」
「事実の確認です」蓮は静かに言った。「法は上書きできます。でも俺の記憶は、上書きできません」
中条はしばらく動かなかった。
廊下の端で、陽菜が見ていた。
中条の部下の一人が、小声で何かを言った。中条が振り返らずに手を上げた。
静止の合図だった。
「……今日は、事実確認に来ただけです」中条は言った。「令状の適用については、再確認が必要なようだ」
書類をしまった。
振り返らずに廊下を歩いた。
部下たちがついていった。
受付を出た。
車に乗った。
去っていった。
廊下が静かになった。
陽菜が蓮の隣に来た。
「……やりましたね」
「事実を述べただけです」
「それが一番効くのよ」陽菜は少し息を吐いた。「中条については、以前から噂があった。でも証拠がなかった」
「証拠は三年前からありました」
陽菜は蓮を見た。
「あの資料、本当に何でも入っているのね」
「帝都物産が廃棄しようとしたものは、全部入っています」
陽菜は少し黙った。
「中条は今頃、永瀬に連絡しているでしょうね。山根を引き取れなかったと」
「そうだと思います」
「永瀬はどう動くと思いますか」
蓮は少し考えた。
「今まで使えていた駒が、一つずつ機能しなくなっています。次は外部ではなく、内部を動かそうとするはずです。帝都物産の中で、まだ動ける人間を使う」
「社内の誰かを」
「はい。ただ」蓮は続けた。「社内の人間も、記録されています」
陽菜は少し笑った。
「あなたと敵対するというのは、本当に割に合わない」
「中条先生も、そう思ったと思います」
二人は廊下を歩いた。
山根の部屋の前を通った。
ドア越しに、何も聞こえなかった。
「山根さんが正規の捜査機関に引き渡されるまで、保護を続けます」陽菜が言った。「汚れていない検察官を経由するルートを今日中に確保します」
「その検察官の名前も、候補がいくつかあります」
陽菜が止まった。
「……今のは事前に調べていたんですか」
「三年前の資料に、中条とは異なる形で動いていた検察官の名前がありました。帝都物産が警戒していた、つまり買収できなかった人間のリストです」
陽菜は少し間を置いた。
「買収できなかった人間のリスト、というのは」
「帝都物産は全員を買収しようとした。でも断った人間がいた。その人間の名前を、警戒対象として記録していました。俺から見れば、その人間こそが信頼できます」
陽菜はしばらく蓮を見た。
「あなたは本当に」陽菜は静かに言った。「敵の記録から、味方を見つけ出す」
「敵が誰を恐れているかは、敵の記録に書いてあります」
陽菜は少し笑った。
それから、ふと蓮の顔を見た。
「昨夜、整理中と言っていた件」
「はい」
「終わりましたか」
蓮は少し間を置いた。
「進行中です」
「進んでいるんですね」
「はい」
陽菜は前を向いた。
でも口元が、わずかに動いた。
【記録:202X年10月9日 10:44】
瀬川陽菜、微笑。持続時間:約3秒。
分類:試行中。
第37話 了
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