第36話「幽霊の告発、帝都の亀裂」
警備会社の拠点は、都内の目立たないビルの地下にあった。
窓のない部屋。蛍光灯だけが明るい。
山根が椅子に座っていた。手首を拘束されていた。大柄な体が、小さな椅子の上で静止していた。
蓮が向かいに座った。
陽菜が隣に立った。
山根は蓮を見なかった。壁を見ていた。
「何を聞いても無駄だ」山根が言った。「俺は存在しない人間なんだからな。公式には三年前に死んでいる。法的に、俺は誰でもない」
「そうですね」蓮は答えた。「公式には」
山根が少し動いた。
「東京都〇〇区の〇〇病院」蓮は続けた。「201X年一月十九日。担当医、佐藤誠司。死亡原因は急性心不全。享年四十一歳」
山根の目が、微かに動いた。
「佐藤医師は現在、帝都物産の系列企業の顧問契約を結んでいます。月額四十万円。契約開始日は、山根さんの死亡診断書の発行から十二日後です」
壁を見ていた山根の目が、蓮に向いた。
「山根さんの奥様は、現在も〇〇区在住です。毎月二十五日、〇〇駅前のATMで現金を引き出しています。架空口座を経由した帝都物産からの送金、一回あたり五十万円。三年間、一度も欠かしていません」
山根の顎が、わずかに動いた。
「お子さんは二人。上のお子さんは今年、私立中学に入学されています。学費は年間百二十万円。奥様のパート収入では説明がつかない金額です」
山根が初めて、椅子の上で身じろぎした。
「……なぜ、そこまで」
「三年前に読んだ資料に、あなたの家族の情報がありました。当時は意味がわかりませんでした。今は意味がわかります」
山根は少し間を置いた。
「化け物め」
低い声だった。
「俺を存在しないことにした連中への言葉としては、俺よりあなたたちの方が適切です」蓮は静かに言った。「俺はただ、読んだものを覚えているだけです」
隣の部屋で、陽菜が電話をしていた。
蓮が戻ると、通話を終えたところだった。
「法務チームに指示しました」陽菜は言った。「彼を警察に引き渡す前に、動いておくことがあります」
「メディアですか」
「一社だけ。信頼できるところに」陽菜はタブレットを開いた。「タイトルはこうします。『死亡記録のある人物が企業コンサルタントを襲撃。依頼元は大手企業か』」
「帝都物産の名前は出しませんか」
「今は出しません。疑問形にしておく。読者が調べる。帝都物産の株価がどう動くか」陽菜は少し口角を上げた。「その動き方自体が、証拠になる」
蓮は陽菜を見た。
記録が走った。
【記録:202X年10月9日 01:14】
瀬川陽菜、戦略立案。手順:情報開示→市場反応→反応を証拠として活用。論理的かつ冷徹。完成度が高い。
「一つ確認です」蓮は言った。「山根さんの家族への保護は」
陽菜が蓮を見た。
「……先に考えていたんですか」
「帝都物産が山根さんの失敗を知れば、次に動くのは家族への脅迫です。居場所は把握しています。先手を打てます」
陽菜は少し黙った。
「あなたは」陽菜は静かに言った。「攻撃と防御を同時に考えている」
「敵が次に何をするかは、過去のパターンから推測できます」
「手配します」陽菜はスマホを取り出した。「今夜中に、家族の安全を確保します」
蓮は頷いた。
【記録:01:17】
山根の家族、保護準備中。帝都物産の次の手、先読み済み。
陽菜が電話をかけながら、蓮の方を見た。
一瞬だった。
でもその目に、信頼という言葉以上の何かがあった。
同じ夜、帝都物産の本社では。
三島の手が震えていた。
永瀬からの電話が終わった直後だった。
電話口で永瀬は静かだった。怒鳴らなかった。でも静かであることが、最も恐ろしかった。
「山根が捕まった。なぜだ」
それだけだった。
三島は説明しようとした。でも説明できなかった。
山根は失敗しない人間だった。十年以上、帝都物産のために動いてきた。表の世界から消えた後も、裏で動き続けた。そういう人間だった。
それが捕まった。
「篠原蓮という男が」三島は答えた。「山根の車の欠陥を、その場で指摘したようです。リコール情報を覚えていて」
電話の向こうで沈黙があった。
「……リコール情報を」永瀬が繰り返した。
「はい。三年前のものを」
また沈黙。
「次は失敗しません」三島は続けた。「山根の家族を抑えれば、口を割らせることもできます。居場所は把握しています」
「急ぎなさい」永瀬は言った。「夜明けまでに」
電話が切れた。
三島はスマホを持ったまま、窓の外を見た。
都心の夜景。帝都物産のロゴが、向かいのビルに光っていた。
山根の家族の住所を、部下に送った。
「今夜中に動け。穏便に。とにかく黙らせろ」
送信した。
三島は額に手を当てた。
まだ挽回できる。まだ間に合う。そう思いたかった。
でもその三十分後。
三島の部下から連絡が来た。
「山根の妻の自宅に向かったところ、すでに警備会社の車が二台、前に止まっていました。中に入れません」
三島は画面を見た。
「……誰が手配した」
「不明です。ただ、警備会社のユニフォームに見覚えがあります。桐島グループ系列の会社です」
三島は立ち上がった。
桐島グループ。蓮のいるコンサル会社の系列。
先手を打たれていた。
山根が捕まった時点で、すでに家族の保護まで動いていた。
「何時間前から準備していたんだ」
「わかりません」
三島はスマホを握りしめた。
リコール情報を覚えていた男が、家族の保護まで先読みしていた。
篠原蓮。
この男は、どこまで「先」を見ているのか。
夜明け前の拠点で、蓮はコーヒーを飲んでいた。
陽菜が隣に座った。
「山根さんの家族、保護できました」
「ありがとうございます」
「帝都物産の人間が来たようですが、間に合いました」
「わかっていました」
陽菜が蓮を見た。「間に合うと思っていたんですか」
「三島さんが動くとすれば、永瀬会長に報告してから指示を受けてからです。その時間差で、三十分から一時間は確保できると計算していました」
陽菜はコーヒーカップを持ったまま、少し笑った。
「蓮さん」
「はい」
「怖くないんですか、本当に」
蓮は少し考えた。
「敵が何をしてくるかが予測できている時は、記録の方が早く走ります。怖いという処理が追いつかない」
「追いつく時は」
「今みたいな時です」
陽菜が蓮を見た。
「今は怖いんですか」
「今は違います」蓮はコーヒーを一口飲んだ。「今は、記録が走っていない」
陽菜は少し黙った。
それから静かに言った。「記録が走っていない時は、何を感じていますか」
蓮は窓の外を見た。
夜明けが始まっていた。東の空が、わずかに明るくなっていた。
「整理中です」
陽菜は答えなかった。
ただ、少し肩の力が抜けた気がした。
【記録:202X年10月9日 04:41】
あなたたちが隠した過去は、全て俺の未来への武器になります。
そして今夜、また一つ。
武器が増えた。
第36話 了
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