第35話「走る凶器、止まらぬ記録」
黒いセダンは、まだついてきていた。
蓮は歩きながら、耳だけで後方を確認した。
エンジン音。低く、重い。排気量からして国産の高級セダンだ。アイドリングより少し高い回転数を保ちながら、歩行者の速度に合わせている。
【記録:202X年10月8日 22:14:33】
エンジン音、周波数解析。排気量推定:3,000cc。車種:国産高級セダン、おそらく〇〇系。現在の速度:時速約6km。歩行者追尾モード。
「陽菜さん」蓮はスマホに向かって言った。「聞こえていますか」
『聞こえています。今、桐島さんに連絡中です。位置情報は受信できています』
「180メートル先の角を右に曲がります。そこに監視カメラがあります」
『監視カメラ?』
「三年前から一度も故障していない、高画質のものです。202X年〇月〇日に設置業者が点検した記録を、業界誌で読みました。撮影範囲は交差点全体をカバーしています」
電話の向こうで、陽菜が息をのんだ。
『……どこまで覚えているんですか』
「読んだものは全部です」
蓮は角を右に曲がった。
路地だった。
街灯が少ない。でも蓮は知っていた。この路地の先に何があるか。突き当たりで左に曲がると広い通りに出る。でも今夜は、そこまで行かなくていい。
セダンがついてきた。
路地に入った瞬間、速度が上がった。
「車が加速しています」蓮は陽菜に告げた。「路地に入って監視カメラがなくなったと判断したと思います。でも」
【記録:22:15:41】
路地左側、二階建て建物の軒下。防犯カメラ。設置業者のステッカーから判断して、高解像度の夜間対応型。対角線撮影範囲、路地の約70%をカバー。
「民間のカメラがあります。映っています」
セダンが止まった。
エンジンが切れた。
ドアが開いた。
降りてきたのは大柄な男だった。百九十センチ近い体格。コートの下で肩が広い。でも歩き方に、わずかな左足への重心移動があった。
【記録:22:16:03】
歩行パターン、照合開始。左足への重心偏移。右膝の古い怪我の痕跡と推定。
蓮は立ち止まった。
男が近づいてきた。
「大人しく来てもらおうか」男が低い声で言った。「君の記憶を少し、整理するだけで済む」
蓮は男を見た。
顔。耳の後ろ。右手の人差し指の第二関節。
【記録照合:202X年データベース参照】
帝都物産の三年前のシュレッダー資料。廃棄させられた書類の中に、社内の「工作部門」の名簿があった。顔写真なし。でも特徴記述があった。
「耳の後ろの瘢痕、左耳下3センチ。右人差し指の変形骨折痕。身長185センチ以上」
全部、目の前の男に一致した。
「山根さん」蓮は静かに言った。
男の足が止まった。
「201X年、帝都物産の物流基地で事故がありました。現場責任者が一名、行方不明。記録上は死亡扱いになっています。……でも今、あなたはここにいる」
男の目が変わった。
恐怖、という感情が、大柄な男の目に現れた。
「なぜ」男の声が低くなった。「なぜ知っている」
「資料に書いてありました。三年前に読みました」
男が一歩、踏み出した。
「黙れ」
「山根さん、左足に体重をかけないでください。この路地の舗装、去年の台風で段差が生じています。二センチの高低差があります。暗いので見えないと思いますが」
男の足が、わずかに止まった。
「あなたの右膝、古い怪我があります。段差でバランスを崩すと、膝に負荷がかかります」
男は動かなかった。
蓮は続けた。
「それと」
「あなたの車」蓮は男の背後のセダンを見た。「オイルが漏れています」
男が振り返った。
セダンの下、アスファルトに黒い染みが広がり始めていた。
「さっき急加速した時、エンジンオイルの圧力が一時的に上がりました。古い車だと、ガスケットが限界を超えることがあります。この車、三年前の〇月に帝都物産の関連会社名義でリコールが出ています。ブレーキフルードラインの腐食。修理記録は確認できていません」
男の顔が変わった。
「つまり」蓮は言った。「サイドブレーキを引いていても、傾斜のある路地では止まりません。あの車が動き出した場合、あなたの立ち位置は危険です」
男が車を見た。
わずかに動いていた。
ゆっくりと、路地の傾斜に沿って、前に進み始めていた。
男が「くそ」と言って車に向かった。
蓮は一歩、左に寄った。
男が車に走り、ドアを開けて乗り込もうとした。その瞬間、左足が路地の段差を踏んだ。
重心が崩れた。
右膝が、コンクリートをつかもうとした。
男がよろけて、車のドアに手をついた。
そこへ、路地の入り口から光が差した。
車が三台、入ってきた。桐島のコネで陽菜が手配した警備会社のチームだった。
「確保してください」陽菜の声がスマホから聞こえた。「全員、映像に映っています」
男が取り押さえられた。
別の二人が車から降りてきたが、すでに警備チームが展開していた。
蓮は壁に背をつけて、その様子を見ていた。
陽菜が通話口に言った。
『蓮さん、無事ですか』
「問題ありません」
『よかった』
一秒の間があった。
『……本当によかった』
今度は違う声だった。業務的な声ではなかった。
蓮は少し、スマホを握り直した。
【記録:202X年10月8日 22:23:17】
瀬川陽菜の声、周波数。通常の業務連絡時と比較して、声帯の緊張が大きく低下。分類:安堵。
男が警備員に連行されながら、蓮を振り返った。
「なぜだ」男は言った。「なぜ全部わかった」
蓮は男を見た。
「あなたの経歴も、この車の欠陥も、路地の段差も」蓮は静かに言った。「三年前から知っていました。ただ、使う機会がなかっただけです」
男は何も言わなかった。
警備員に連れられて、路地を出ていった。
蓮はセダンを見た。
オイルの染みが、アスファルトの上で広がっていた。
【記録:202X年10月8日 22:25:02】
工作員一名、確保。帝都物産との繋がり、証拠として記録済み。
陽菜が言った。
『今から迎えに行きます。動かないでいてください』
「わかりました」
『本当に、怖くなかったんですか』
蓮は少し間を置いた。
「記録が走っている間は、怖いという処理が後回しになります」
『後回しになった後は』
「今は、少し心拍数が高いです」
電話の向こうで、陽菜が小さく笑った。
「記録しておきます」と言いたかったのか、今夜は言わなかった。
【記録:22:25:44】
心拍数:94。
原因:緊張の遅延処理、あるいはその他。
分類:保留。
第35話 了
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