第34話「帝都の落日」
ニュースが流れていた。
街頭の大型ビジョン。昼のニュース速報のテロップ。
『元大手企業部長、不正競争防止法違反容疑で逮捕』
映像の中で、黒川が顔を隠しながら歩いていた。コートの襟を立てて、カメラから目を背けていた。隣に石倉がいた。石倉は最初から下を向いていた。
蓮はその映像を、コンビニのガラス越しに見た。
一秒、見た。
それから歩き出した。
【記録:202X年10月8日 12:03】
黒川誠、逮捕。石倉誠、同日逮捕。容疑:不正競争防止法違反、証拠隠滅。
記録した。
ただの過去のデータとして、記録した。
同じ時刻、都内の安アパートでは。
母がテレビを見ていた。
画面の中の黒川を見た。
「……終わった」
独り言だった。誰も聞いていなかった。麻衣はすでにいなかった。三日前に「もう関わらない」と言って出ていった。
アパートのドアに、家賃督促の紙が貼られていた。二ヶ月分の滞納。
母はスマホを手に取った。
蓮の番号を呼び出した。
画面に「この番号からの着信は受け付けておりません」と表示された。
法的接近禁止命令。弁護士から送られてきた書面。もう連絡できない。
母はスマホを置いた。
テレビの中で、アナウンサーが「捜査当局は関係者に対し、さらに――」と話し続けていた。
母は画面を消した。
暗くなった部屋で、一人だった。
麻衣は別の場所で同様の状況にいた。虚偽診断書作成への共謀容疑で、弁護士から「任意同行の可能性がある」と告げられていた。詐欺未遂の証拠は、鑑定室の録音に全て残っていた。
二人をつなぐものは、もうなかった。
共通の獲物も、共通の希望も、全部消えた。
残ったのは、二人の間の古い憎しみだけだった。
【記録照合:蓮の幼少期】
母が笑っていた記憶がある。
蓮が小学校のテストで満点を取った日。母が「すごいじゃない」と言った。その声の周波数を、蓮は今も記録している。
夕飯が唐揚げだった日。運動会で一位になった日。
それらの記憶は、消えない。
上書き不可能なデータとして、頭の中にある。
【処理:完了】
当該記録、アーカイブフォルダに移動済み。参照頻度:ゼロ。更新予定:なし。
蓮は歩き続けた。
過去は過去だ。
今は、前だけにある。
瀬川商事の役員会議室は、緊張していた。
長テーブルに十二人の役員が並んでいた。上座に会長・瀬川義隆が座っていた。陽菜が壇上に立った。
「本日は、帝都物産に対する当社の今後の方針について、ご報告申し上げます」
静粛が続いた。
「帝都物産は二十年にわたり、競合他社への工作活動、架空法人を通じた資金還流、政財界への不正献金を行ってきた事実が確認されました。当社もその被害企業の一つです」
役員の一人が手を挙げた。「証拠は」
「こちらです」
蓮が前に出た。
タブレットを操作した。画面に数字が並んだ。
「三年前、帝都物産が廃棄しようとした内部資料があります。架空法人の口座番号、取引日付、資金の流れ。これが解読コードと合わせることで、帝都物産の不正スキームの全体像になります」
「その資料を、どこで入手したんですか」
「記憶しています」蓮は答えた。「三年前、この資料が廃棄される前に、一度読みました。一言一句、頭の中にあります」
会議室が静かになった。
「全部、記憶の中に」役員の一人が繰り返した。「一人の人間が、把握していい情報量を超えている」
「それだけではありません」
蓮はタブレットを操作した。
「この資料の中に、ただの数字の羅列として記録されていたものがあります。解読コードを通すと、別のリストになります」
画面が切り替わった。
名前と金額が並んでいた。
「政財界への献金リストです。政治家十七名、官僚六名、業界団体四団体。金額の総計は三十二億円。二十年分の記録です」
沈黙。
深い沈黙だった。
陽菜が続けた。「これが公になれば、帝都物産だけではありません。この国の構造が揺れます」
義隆会長が口を開いた。初めてだった。
「……確かなのか」
蓮は義隆を見た。
「俺の記憶が確かである限り、確かです。そして俺の記憶は、一秒も狂いません」
義隆は少し目を閉じた。
それから、頷いた。
「陽菜に全権を委任する。進めなさい」
陽菜が蓮を見た。
小さく、しかし確かに、頷いた。
宣戦布告が、決まった。
帝都物産の本社ビルは、夜でも明るかった。
四十階建て、都心のランドマーク。創業七十二年。売上高四兆二千億円。
その最上階の社長室で、永瀬修三が座っていた。
七十代、細身、白髪。静かな目をした老人だった。怒鳴らない。感情を見せない。だからこそ、恐ろしかった。
三島大輔が立っていた。
「瀬川商事が動きました。役員会で帝都物産への告発を決議したという情報が入っています」
「根拠は」
「篠原蓮という男です。元コンサルタント。完全記憶の能力を持つという話で」
「完全記憶」永瀬は繰り返した。「三年前の資料を、記憶している」
「可能性が高いかと」
永瀬は窓の外を見た。
都心の夜景が広がっていた。自分が二十年かけて作り上げた世界の一部が、そこにあった。
「一人の人間の記憶が、証拠になるのか」
「法的には、証言能力の問題ですが。ただ今回は、書類と照合して一致しているという話で」
「消しなさい」永瀬は静かに言った。「法的に。あるいは、それ以外の方法で」
三島は少し間を置いた。
「……わかりました」
「早く」
三島が頭を下げた。部屋を出た。
永瀬は窓の外を見続けた。
二十年。
それだけの時間をかけて積み上げてきたものが、一人の男の「記憶」で崩れるとは思わなかった。
思わなかったが、永瀬は感情を動かさなかった。
動かす必要はない。
解決すればいい、それだけだ。
夜、蓮は一人で歩いていた。
桐島のオフィスから自宅まで、いつもの帰り道。二十三分のルートだった。
歩きながら、記録が走った。
【記録:202X年10月8日 22:14:05】
後方、黒いセダン。車種、国産高級車。速度、歩行者に合わせて調整中。通常の走行パターンと異なる。ナンバープレート、部分的に汚れているが不自然な汚れ方。偽装の可能性:89%。
蓮は足を止めなかった。
ペースを変えなかった。
ただ、スマホを取り出した。
陽菜に電話した。
二コールで出た。
「蓮さん? こんな時間に」
「陽菜さん」蓮は静かに言った。「始まりました」
電話の向こうで、陽菜が少し息をのんだ。
「後方に車が一台います。帝都物産側の可能性が高い。俺の位置情報を共有します」
「今すぐ桐島さんに連絡します。場所は動かないでください」
「動きません」
「蓮さん」
「はい」
「怖くないですか」
蓮は少し考えた。
後ろのセダンが、ゆっくりと近づいてきていた。
「怖いという感情が来る前に、記録が走ります」
「それは」陽菜の声が、少し低くなった。「今夜は信じます。でも終わったら、ちゃんと怖かったと言ってください」
「……善処します」
電話を持ったまま、蓮は前を向いた。
夜の街が広がっていた。いくつもの光。いくつもの窓。
あなたたちの二十年は。
蓮は静かに思った。
俺の数秒で、終わります。
第34話 了
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