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「俺だけが全部覚えている~三年分の搾取を、事実だけで清算する~」  作者: ジキルぅ
第二章「静かな助走」

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第29話「駒の使い捨て、あるいは終焉」

 段ボールは、小さかった。

三年間働いた職場を去るのに、段ボール一つで足りた。マグカップ、常備薬、引き出しに入っていた私物。それだけだった。

黒川は受付を通り過ぎた。

誰も声をかけなかった。

視線だけがあった。チラリと向けられて、すぐに外れる視線。関わりたくない、という視線だった。

エレベーターを待つ間、黒川は正面の壁を見た。

会社のロゴが入ったプレートがあった。三年前、篠原が入社した時にも、このプレートはここにあった。

エレベーターが来た。

乗った。

扉が閉まった。

廊下の端で、麻衣が見ていた。

段ボールを抱えた黒川の後ろ姿を。

エレベーターの扉が閉まった後、麻衣は視線を外した。

(黒川さんのせいよ、全部。私は巻き込まれただけ)

そう思った。本気でそう思った。

黒川に誘われた。黒川の指示で動いた。黒川が悪い。

自分は被害者だ。

でも麻衣の足元にも、弁護士からの書類が届いていた。それは見ないふりをした。

自分のデスクに戻った。

パソコンの画面を開いた。

転職サイトを、こっそり開いた。

公園のベンチに、黒川は座っていた。

平日の昼間。サラリーマンが通り過ぎる。弁当を食べている老人がいる。犬を連れた女性がいる。

全員が、自分の世界を生きていた。

黒川だけが、世界の外にいるような感覚だった。

スマホを取り出した。

三島の番号を押した。

コール音が鳴った。一回、二回、三回。

出た。

「はい」

「三島さん、俺です。黒川です。昨日の件で、ちょっと話が――」

「失礼ですが、どちら様でしょうか」

黒川の手が、止まった。

「黒川です。黒川誠です。先週も会ったじゃないですか、銀座で」

「記録によれば、弊社はあなたという個人と取引した事実は一切ありません」

三島の声は、穏やかだった。感情がなかった。まるで別人のようだった。

「何を言ってるんですか。あのデータは、あなたが――」

「迷惑ですので、二度と連絡しないでください。今後は法的対応を検討します」

電話が切れた。

公園の雑踏が、急に大きくなった気がした。

犬の鳴き声。子供の笑い声。自転車のベル。ベンチの向こうを走るトラックのエンジン音。

全部が、耳の中に流れ込んできた。

黒川はスマホを見た。

画面には「通話終了」の文字だけがあった。

もう一度、番号を押した。

「おかけになった番号は、現在使われておりません」

ブロックされていた。

黒川はスマホを膝の上に置いた。

段ボールが、隣のベンチに置いてある。マグカップの取っ手が、箱から少し飛び出していた。

【同時刻・蓮の記録】

帝都物産の裏契約書。三年前のゴミ資料、解読済み。第七条:「本契約の存在が公的機関または第三者に露呈した場合、甲(帝都物産)は乙との一切の関係を否定する権利を有する。乙はこれに異議を申し立てない」。黒川部長、この条項の存在を知らなかった。知る機会も与えられなかった。

使い捨て、という言葉がある。

黒川は三年前、篠原蓮を使い捨てにしようとした。手柄を奪い、評価を奪い、最後は冤罪を着せて消そうとした。

今、黒川は同じことをされていた。

でも黒川には、篠原のような記憶がなかった。

夜になった。

黒川は安い居酒屋のカウンターにいた。段ボールを足元に置いて、焼酎を飲んでいた。

スマホに、見知らぬ番号から着信が来た。

出た。

「黒川さん、ですか」

知らない声だった。でも、どこかで聞いたような声だった。

「誰だ」

「石倉です。瀬川商事の」

黒川は少し間を置いた。

「……なんで俺の番号を」

「田端商事の件で、業界内に話が広まっていまして。私も似たような目に遭いましてね」

石倉の声は、落ち着いていた。でもその落ち着きの下に、何かが煮えていた。

「俺たちは同じ人間に、同じ方法でやられた」石倉が言った。「篠原蓮。あの男に」

黒川は焼酎を置いた。

「会えますか」石倉が続けた。「話したいことがある」

黒川は少し考えた。

断る理由がなかった。

「どこで」

「今夜、新宿で。場所は送ります」

電話が切れた。

黒川はスマホを見た。

篠原蓮。

あの男のせいで、全部なくなった。そう思いたかった。でも頭のどこかで、違うと知っていた。

でも今は、そう思っていたかった。

その夜、蓮は陽菜と桐島のオフィスにいた。

帝都物産の全体像をホワイトボードに整理していた。

二十年分の不正スキーム。十七社の架空法人。四十八億円以上の資金還流。そして、各社に仕込んだ人間の名前。

「黒川が解雇されました」桐島が言った。「田中から連絡がありました」

「知っています」

「石倉も動いているみたいです。業界内で黒川に接触しようとしているという話が入っています」

陽菜が言った。「二人が手を組む可能性があります」

「はい」蓮は答えた。「そうなるだろうと思っていました」

「なぜ」

「追い詰められた人間は、共通の敵を持つことで連帯しようとします。二人とも、今は何も持っていない。でも俺への敵意だけは共有できる」

陽菜は少し考えた。「放置していいですか」

「しばらくは。彼らが動けば、帝都物産との繋がりがさらに明確になります。二人が接触している事実も、記録されていくだけです」

桐島が腕を組んだ。「蓮、お前は怖いな」

「何がですか」

「全部、先が見えてる」

蓮は答えなかった。

先が見えているわけではない。ただ、過去の記録から確率の高い未来を推測しているだけだ。

陽菜が蓮の隣に来た。ホワイトボードの帝都物産の名前を見た。

「次は、ここに正面からぶつかります」

「はい」

「怖くないですか。相手は二十年の実績がある組織です」

蓮は少し考えた。

「彼らはまだ、自分たちが何を失ったか理解していません」

「何を失ったんですか」

「人間としての『信用』という、唯一上書き不可能な記録です」蓮は静かに言った。「データは改ざんできます。ログは書き換えられます。でも、誰かの記憶の中に刻まれた事実は、消せない」

陽菜は蓮を見た。

今夜の陽菜の目には、以前と少し違うものがあった。

芸術品を鑑賞する目ではなかった。

同じ地図を、同じ高さで見ている目だった。

「一緒に終わらせましょう」陽菜が言った。

「はい」蓮は答えた。

その瞬間、蓮は少し違和感を感じた。

頭の中ではなく、胸の少し奥の方に。

【記録:202X年9月17日 23:44】

瀬川陽菜との関係性、更新。分類:運命共同体。

心拍数:82。通常値より7%上昇。原因:不明。

原因不明。

蓮は、その分類を保留にした。

そして桐島のスマホに、田中からメッセージが届いた。

桐島が少し眉をひそめて、蓮に見せた。

『桐島さん、篠原さんに伝えてもらえますか。水沢さんが今日、バイト先でレジのミスを三回してクビになったそうです。本人から愚痴のLINEが届きました。あと、篠原さんのお母さんが家賃を二ヶ月滞納して大家さんともめてるって、共通の知人から聞きました』

蓮はそれを読んだ。

【記録:202X年9月17日 23:51】

水沢麻衣:バイト先解雇。経済的困窮、開始。

母:家賃二ヶ月滞納。住居不安定、開始。

記録した。

感情は動かなかった。

ただ、事実として、世界が動いていた。


第29話 了


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