第28話「砂上の英雄、泥沼の祝杯」
銀座の個室は、静かだった。
照明が低く、革張りのソファが深い。テーブルに置かれたシャンパンは、一本で黒川の月給に近い値段だった。
帝都物産の担当・三島が、グラスを上げた。
「黒川さん、お疲れ様でした。田端商事、うまくいきましたね」
「ええ、まあ」黒川は笑った。「俺がいれば、このくらいは」
グラスを合わせた。
シャンパンを口に含んだ。
冷たくて、甘くて、気泡が弾けた。
いつもより、少し味が違う気がした。
「実は」三島が言った。「今日お呼びしたのは、お礼だけではないんです」
「次の案件ですか」黒川は上機嫌に言った。「どんどん持ってきてください。俺は」
「瀬川商事の内部資料を持ってきてもらいたい」
黒川の手が止まった。
「……は?」
「今の瀬川商事は、弊社にとって最大の障害です。先方の内部情報、特に営業企画部が進めているプロジェクトの詳細を、次の月末までにいただきたい」
「ちょっと待ってください。俺には瀬川商事とのコネは――」
「黒川さん」三島の目が変わった。「あなたが昨日使ったデータ、どこから来たかご存知ですよね」
黒川は答えなかった。
「そのデータを使った時点で、あなたはもうこちら側です。不正競争防止法違反の共犯として、証拠はすでに我々が持っています。……ご理解いただけますよね」
シャンパンの甘さが、消えた。
口の中に、鉄の味が広がった。
自分が救世主だと思っていた。でも今、椅子に座ったまま動けない自分がいる。
【同時刻・蓮の記録】
帝都物産が過去に同様の手法で破滅させた人間:七名。全員、ハニーポットデータを使用した直後に脅迫。従った者は使い捨て、従わなかった者は証拠を公開され失職。黒川部長、同パターンに完全に嵌まった。
三島がグラスを置いた。
「月末までに。よろしくお願いします」
黒川は頷くしかなかった。
帰り道、夜の銀座を一人で歩きながら、黒川は気づいた。
自分は勝っていなかった。
最初から、負けていた。
翌朝、前職のオフィス。
黒川はいつもより早く出社した。昨夜のことを誰かに相談したかった。でも誰にも言えなかった。
デスクに座って、パソコンを立ち上げた。
そこへ声がかかった。
受付の社員の声だった。
「あの、黒川部長。お客様がいらっしゃっているんですが」
「約束はないぞ」
「瀬川商事の法務部の方と……あと、弁護士の先生が」
黒川の手が止まった。
応接室に通されると、そこに三人がいた。
スーツ姿の弁護士。瀬川商事の法務部員。
そして、陽菜。
「お邪魔します、黒川部長」
陽菜が静かに言った。隣に、タブレットを持った男が立っていた。
蓮だった。
黒川の顔から、血の気が引いた。
「な、なんでお前が――」
「弊社の依頼で動いているコンサルタントです」陽菜が遮った。「本日は法的なご説明のためにお伺いしました」
法務部員がファイルを開いた。
「昨日、黒川部長が田端商事へのプレゼンで使用された資料から、弊社の機密保護コードが検出されました。このコードは弊社の管理サーバーにアクセスした端末のみに付与されるものです。ご説明をお願いできますか」
黒川が立ち上がった。
「違う、これは篠原がやったことだ。あいつが在籍中に社外に情報を流していた。ログを見ればわかる。俺には何も――」
廊下の外に、社員たちが集まり始めていた。
ざわめきが広がった。
隅で、麻衣が顔面蒼白で壁に張り付いていた。
田中が廊下の端で立っていた。
「ログを見ればわかる、とおっしゃいましたね」
蓮が口を開いた。
静かな声だった。感情のない、平坦な声だった。
「では、見ましょう」
蓮がタブレットを操作した。応接室のプロジェクターが起動した。
画面に、二つのログが並んで表示された。
左側:「現在のシステムに記録されているログ」
右側:「深層アクセススタックに記録されているログ」
「左側が、昨夜書き換えられたログです。右側が、書き換え前の真実のログです」
黒川の目が画面に向いた。
「昨夜、二十二時十四分。システム管理者・佐々木さんの端末から、ログへのアクセスがありました。操作内容は、俺の在籍時のアクセス記録の書き換えです」
画面に、秒単位の操作記録が流れた。
「二十二時十四分三十二秒、ログインの記録が削除されています。二十二時十四分四十一秒、別のアクセス記録が上書きされています。この操作は、表層のシステムでは確認できません。しかし深層のアクセススタックには、全ての変更が自動的に記録されます。これはシステムのバグを利用した記録であり、管理者権限では書き換えができません」
黒川が口を開いた。
「そんな記録、誰が――」
「俺が退職前に、発見していました。意図して残したわけではありません。ただ、存在は知っていました」
ざまあ、という言葉が蓮の口から出ることはなかった。
ただ、事実だけが画面に映し出されていた。
廊下の田中の目が、潤んでいた。
『篠原さん……』
声には出なかった。でも唇がそう動いた。
黒川が椅子に崩れ落ちた。
「俺は……俺は篠原に全部押し付ければ……」
声が小さくなった。
麻衣が黒川を見た。黒川が麻衣を見た。
二人は何も言わなかった。
勝ち馬だと思っていた。でもその馬は最初から、奈落に向かっていた。
陽菜が弁護士に目配せをした。弁護士が書類を取り出した。
「黒川部長、本日より法的手続きを開始させていただきます。詳細はこちらをご確認ください」
黒川は書類を受け取らなかった。
ただ、テーブルを見ていた。
蓮はタブレットをしまった。
陽菜を見た。陽菜が小さく頷いた。
蓮は黒川を見た。
「黒川部長」
黒川が顔を上げた。
「記録は、あなたの願望に忖度しません」
それだけだった。
蓮は立ち上がった。
応接室を出た。廊下に社員たちがいた。全員が蓮を見た。
蓮は視線を返さなかった。ただ、歩いた。
エレベーターのボタンを押した。
扉が開いた。
乗り込んだ。
扉が閉まる一瞬、廊下の端に田中の顔が見えた。
田中は頭を下げていた。
蓮は少し、頷いた。
扉が閉まった。
エレベーターが一階に着いた。
自動ドアを抜けると、陽菜が外で待っていた。
「終わりましたね」
「はい」
「どんな気持ちですか」
蓮は少し考えた。
「特にありません」
「本当に?」
「三年分の記録が、今日初めて意味を持ちました。それだけです」
陽菜は蓮を見た。
その目に、複雑な光があった。
「蓮さん」
「はい」
「あなたは怒っていないの? 三年間、搾取されていたのに」
「怒る必要がありません」蓮は答えた。「事実が、全部やってくれました」
陽菜は少し間を置いた。
それから静かに言った。
「次は、帝都物産です」
「はい」
「準備はできていますか」
蓮は前を向いた。
「三年前から、できています」
第28話 了
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