第26話「診断と宣告」
母の家は、カーテンが閉め切られていた。
昼間なのに薄暗い部屋。テレビが低い音で流れている。ソファに母が横たわっていた。顔色が悪い。目の下にクマがある。
やつれている。
ように見えた。
「蓮、来てくれたの」
か細い声だった。
麻衣が台所から出てきた。エプロンをしていた。手にタオルを持っていた。
「蓮くん、良かった。おばさん、ずっと体調が悪くて。私、心配で毎日来てたの」
二人の視線が、一瞬だけ交差した。
【記録:202X年9月16日 17:02:14】
母と麻衣、視線交差。持続時間:0.05秒。その後、二人とも即座に蓮へ視線を向ける。事前に示し合わせた行動パターン。
蓮は部屋に入った。
上着を脱がずに、椅子に座った。
部屋の中を、ゆっくりと見回した。
【記録:17:02:31】
テレビ台の左端、観葉植物の鉢。不自然な角度。内部に録音機器の可能性。
【記録:17:02:33】
カーテンレールの右端、小型カメラの反射光。
【記録:17:02:35】
ソファ横のサイドテーブル、雑誌の下。形状から判断して録音機器の可能性、高。
合計三箇所。
二人は準備していた。
蓮は表情を変えなかった。
「お茶、飲む?」麻衣が言った。
「結構です」
「そんな他人行儀に」母が起き上がった。声が少し元気になった。「久しぶりに会ったのに」
「体調が悪いんでしょう。横になっていてください」
母は少し詰まった。また横になった。
麻衣がソファの隣に座った。蓮の方を向いた。
「ねえ、蓮くん。最近どう? 仕事、大丈夫?」
「問題ありません」
「なんか、すごく忙しそうで。無理してない?」
「していません」
「でも」麻衣は少し声を落とした。「最近、数字ばかり見てておかしくなってない? 前から思ってたんだけど、蓮くんって記憶のこと、ちょっと普通じゃないじゃない。それって、精神的に負担じゃないの?」
蓮は麻衣を見た。
「おかしくはありません」
「でも」母が割り込んだ。「お母さんも心配してるのよ。あなた、私のことも本当は恨んでるんでしょ? だから連絡もしてこないし、仕送りも減らすし」
「恨んでいません」
「じゃあなんで」
「感情の話をしたいなら、先に数字の話をします」
母が眉をひそめた。
「数字?」
「はい」
蓮はゆっくりと息を吐いた。
「202X年4月、22,000円」
「母さんの口座に振り込んだ後、俺の財布から現金がなくなっていました。翌日、母さんの部屋に新しい化粧品が増えていた。ブランドのもの。値段は覚えています」
「そんな昔のこと――」
「202X年8月、12万円」
蓮は続けた。
「俺が帰省していた三日間で、俺のキャッシュカードが一度使われています。ATMの利用記録、202X年8月14日、午後二時十七分。引き出し額、十二万円。俺はその時間、友人と外出していました」
母の顔が変わった。
「麻衣さん」蓮は視線を移した。「202X年11月、あなたは俺が貯めていた旅行用の封筒から三万円を抜きました。俺の部屋で二人でいた夜です。翌週、あなたは新しいバッグを持っていた」
麻衣の顔が青くなった。
「な、何を言ってるの」
「事実を言っています」
「そんなの覚えてるわけないでしょ!」
母が叫んだ。
蓮は静かに答えた。
「俺は一秒も忘れていません」
部屋が、静かになった。
テレビの音だけが、低く流れていた。
「202X年から202X年の三年間で、母さんに支払った仕送りの総額は五百四十六万円。そのうち、明らかに生活費以外に使われた金額の推定は九十三万四千円。日付と用途の記録、全てあります」
母が何か言おうとした。声が出なかった。
「麻衣さん。あなたが俺から直接あるいは間接的に得た利益の総額は、金銭だけで四十一万二千円。俺のアイデアを黒川部長に横流しすることで得た昇進・待遇改善の利益は、別途計算中です」
麻衣が立ち上がった。
「なんでそんなこと言うの。私たちのこと、本当に恨んでるんじゃない」
「恨んでいません。記録しているだけです」
蓮はスマホを取り出した。
画面を操作した。
【記録:202X年9月16日 17:19】
ジャミング開始。室内の録音機器三点、電波遮断完了。自分の記録デバイス、クラウド転送開始。
母が首を振った。「何してるの」
「あなたたちが仕掛けた録音機器を止めました」
二人の顔が、同時に固まった。
「室内に三箇所。テレビ台の左、カーテンレールの右端、サイドテーブルの雑誌の下。入室した瞬間に確認しました」
「……なんで」麻衣の声が掠れた。「なんでわかるの」
「反射光と配置の不自然さです。記録しています」
「でも」母が立ち上がった。「あんたがおかしいって証明するために必要で――」
「今日の会話は、全て俺のデバイスで録音されています。クラウドに転送済みです」
母が止まった。
「あなたたちが後見人制度の申請のために集めていた『偽の診断データ』。そのために今日、俺を呼んだ。その計画を話し合った通話記録を、俺はすでに入手しています」
麻衣がソファに崩れ落ちた。
「今日の会話の内容は、詐欺罪および名誉毀損の証拠として成立します。用意していた診断書は、虚偽診断書作成罪の対象になりえます」
「そんな、そんなつもりじゃ――」
「つもりの話はしていません。事実の話をしています」
ドアが開いた。
桐島が入ってきた。隣に、スーツ姿の男性がいた。
「陽菜さんが手配した弁護士さんです」桐島が言った。「今日の件、法的な手続きはここから先はこちらの方に」
弁護士が名刺を差し出した。
母が名刺を見た。麻衣が壁に手をついた。
蓮は立ち上がった。
上着を手に取った。
麻衣が気づいた。立ち上がろうとした。蓮に向かって手を伸ばした。
「蓮くん、待って、話を――」
蓮は麻衣の手を見た。
一秒、見た。
汚れ物を見る目ではなかった。感情のない目だった。記録する目だった。
【記録:202X年9月16日 17:24】
水沢麻衣、接触を試みる。
蓮は一歩、横にずれた。
麻衣の手が、空を切った。
「さようなら、お母さん」
母が蓮を見た。何か言おうとした。
「さようなら、麻衣さん」
蓮はドアに向かった。
振り返らなかった。
外に出ると、夕方の空気が冷たかった。
陽菜の車が、道の端に停まっていた。
助手席の窓が開いた。
「掃除は終わりましたか」
「はい」蓮は答えた。「データは全て揃いました」
「二人の様子は」
「想定通りです」
陽菜は少し間を置いた。
「辛くなかったですか」
蓮は助手席のドアを開けながら、少し考えた。
「辛いという感情が来る前に、記録が走ります」
「それは」陽菜は静かに言った。「辛いということかもしれない」
蓮は座席に座った。ドアを閉めた。
窓の外に、母の家が見えた。カーテンの閉まった窓。
【記録:202X年9月16日 17:27】
旧世界との接触、完全終了。更新予定:なし。
車が動き出した。
母の家が、後ろに遠ざかっていった。
蓮は前を向いた。
次がある。
まだ、終わっていない。
第26話 了
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