第21話「不在の猛毒」
石倉が出ていった後、部屋は静かだった。
残ったのは、段ボール二箱分の書類と、蓮と、陽菜だけだった。
陽菜はしばらく廊下の方を見ていた。それからゆっくりと蓮の方を向いた。
「あなたが読んだのは、書類だけじゃないわ」
「何を読んだと思いますか」
「あの男の『人生の綻び』そのもの」
陽菜はコートのポケットから、カードを取り出した。白いIDカードだった。
「これを渡します」
「何のカードですか」
「第三営業部のサーバールームと、経理アーカイブへのアクセス権。本来は部長職以上しか持てないものです」
蓮はカードを受け取った。
【記録:202X年9月12日 10:14】
IDカード、16桁。4729-3801-6654-2219。
0.1秒で入った。
カードの表面に、わずかな指紋の跡があった。蓮は角度を変えて光に透かした。
【記録:10:14】
指紋、二種類。一つは陽菜のもの。もう一つ、親指の腹の圧痕が強く、右利きの中年男性のもの。石倉が最後に触れた痕跡と推定。
「このカード、石倉部長も持っていましたね」
陽菜が目を細めた。
「カードから、わかるんですか」
「指紋の痕跡が残っています。親指の圧痕が強い。石倉部長が今日、このカードに触れた可能性があります」
陽菜はしばらく蓮を見た。
それから静かに笑った。
「コピーを取られているかもしれない」
「はい。念のため、アクセス権の変更を管理部門に依頼した方がいいです」
「……もう手を打ちました」陽菜はスマホをポケットにしまった。「あなたが石倉に指摘した瞬間に」
二人は同時に、同じ手を打っていた。
蓮は少し、陽菜を見直した。
場面は変わる。
同じ時刻、前職のオフィス。
田端商事の担当・鈴木部長が来社していた。
応接室のドアの向こうから、声が漏れていた。
「黒川さん、これはどういうことですか」
黒川の声が、弱々しく答えた。「申し訳ありません、確認不足で――」
「確認不足じゃない」鈴木の声が低くなった。「この提案書の数字、半年前のデータです。市場価格が変動しているのに、古い数字で計算している。こんな初歩的なミスは、篠原さんがいた頃は一度もなかった」
廊下で、麻衣が顔面蒼白で立っていた。
「篠原さん、今どこにいるか教えてもらえますか。直接話がしたい」
「そ、それは……」黒川の声が詰まった。「わかりかねます」
「わかりかねる?」鈴木の声が上がった。「うちとの取引を三年間支えてくれた人間の居場所も把握していないんですか」
デスクを叩く音がした。
廊下に漏れた音を、田中が聞いていた。田中は麻衣を見た。麻衣は視線を外した。
応接室の中で、黒川は引き継ぎ資料を開いた。
篠原が作った資料だ。整然と並んだ数字、丁寧な注釈、図表。一見すれば完璧な資料に見える。
でも黒川には、わからなかった。
数字の「意味」が。
なぜこの数字がここにあるのか。なぜこの前提でこの計算をしているのか。資料の背景にある思考の構造が、完全に欠落していた。
有能な人間が見れば一瞬でわかる。でも黒川には、読めなかった。
蓮は意図してそう書いたわけではない。ただ、自分が理解していることを、正確に書いただけだ。
理解していない人間には、正確な記述ほど難解に映る。
その夜、母のスマホが鳴り続けた。
「麻衣ちゃん、出なさいよ、出なさいったら」
七コール目で麻衣が出た。
『なんですか、こんな時間に』
「蓮が三万円しか振り込んでこないのよ。あんた、なんとか言いなさいよ。前は五万だったじゃない」
『私に言われても困ります』
「あんたが蓮と仲良くしてれば、こんなことには――」
『仲良くって』麻衣の声が上がった。『私だって今、会社にいられるかどうかの瀬戸際なんです。黒川さんが社内で追い詰められてて、私まで巻き添えで』
「それはあんたの問題でしょ」
『おばさんが会社に来たりするから余計ひどくなったんです。あの時、蓮のオフィスに押しかけなければ……!』
「私のせいにするの? 蓮を産んで育てた私のせいにするの?」
『育てた話は関係ないでしょ』
「関係ある、大ありよ。あんたは私を利用したのよ、蓮に近づくために」
『利用? おばさんこそ私を使ったじゃないですか。蓮の情報を教えてって最初に言ったのはおばさんでしょ』
沈黙。
二人とも、黙った。
共通の獲物がいなくなった後に残ったのは、互いへの憎しみだけだった。繋いでいた糸が切れて、二人は向き合った。
『もう連絡しないでください』
麻衣が電話を切った。
母は画面を見つめた。それから壁を叩いた。
誰もいない部屋で、声が響いた。
夜の首都高を、車が走っていた。
陽菜の車だった。後部座席に二人。窓の外を夜景が流れていく。
蓮はシートに背を預けながら、頭の中で照合を続けていた。
今日、石倉の書類から記録した数字。経費の流れ、法人名、口座番号の末尾。それを、過去に読んだ公開情報と照合していた。
瀬川商事の有価証券報告書。202X年度版、31ページ。関連会社の一覧。
石倉の経費書類に出てきた実在しない法人名の一つが、その関連会社の旧社名と一字違いだった。
偶然ではない。
蓮はさらに遡った。頭の中で、過去に読んだ全ての資料が高速で展開される。
三年前の業界誌。瀬川商事の特集記事、14ページ。「次世代を担う経営陣」という見出し。写真の中に、現在の取締役会長・瀬川義隆の名前があった。
その隣に、関連会社の設立メンバーとして記載されていた名前。
石倉誠。
【記録:照合完了】
石倉の不正ルートの起点:関連会社経由の資金還流。設立時の共同出資者:瀬川義隆(現会長)。公開情報との照合による推定一致率:94%。
蓮は窓の外を見た。
「一つ、確認していいですか」
「なんですか」
「瀬川商事の会長、瀬川義隆。あなたのお父さんですか」
車内が、静かになった。
陽菜は前を向いたままだった。三秒、何も言わなかった。
「……なぜ、わかったんですか」
「石倉の経費書類に出てきた法人名が、三年前の業界誌に掲載された関連会社の旧社名と一字違いでした。その設立メンバーに、瀬川義隆の名前がありました。公開情報だけで出てきた話です」
陽菜がゆっくりと蓮を見た。
その目が、蓮は少し気になった。
怒りではなかった。悲しみでもなかった。
期待と、恐怖が、混ざっていた。
芸術品を愛でる目だった。でも今夜は、その芸術品の刃が自分に向いているかもしれないと知っている目だった。
「誰にも言われていないのに、見つけたんですね」
「公開情報です。誰でも辿れます」
「辿れない」陽菜は静かに言った。「あなた以外には」
沈黙。
「それでも」陽菜は前を向いた。「やってもらえますか。父が相手でも」
蓮は少し考えた。
「事実があるなら、事実を述べます。相手が誰でも」
陽菜は何も言わなかった。
ただ、窓の外を見た。流れていく夜景を。
その横顔に、複雑な光が当たっていた。
蓮はそれを記録した。
【記録:202X年9月12日 22:41】
瀬川陽菜。表情、判定不能。期待と恐怖の混在。これまでに記録した彼女の表情の中で、唯一、分類できないもの。
感情は風化する。
だが、事実は腐らない。
第21話 了
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