第20話「見えない監査役」
朝、目が覚めた瞬間に気づいた。
静かだ。
頭の中が、静かだった。
これまでは常に何かが占有していた。母からの次の電話、麻衣の次の行動、黒川の次の横取り。ノイズが常に走っていた。処理能力の一部が、常に「防衛」に割かれていた。
それが、ない。
蓮はベッドの上で天井を見た。
【記録:202X年9月12日 06:14】
室温21.8度。外の車の通過音、三秒間隔。コーヒーメーカーの予約完了音、06:15に設定済み。
全てが鮮明だった。
いつもより解像度が高い気がした。自分のためだけに、記録が走っている。それがこんなに心地よいとは、思っていなかった。
コーヒーを飲みながらニュースをつけた。経済指標の数字が流れた。全部、入った。
今日から、新しい場所に入る。
蓮はカップを置いて、立ち上がった。
瀬川商事の本社ビルは、丸の内にあった。
二十二階建て、エントランスは大理石張り。受付に三人、警備員が二人。蓮は歩きながら記録した。
【記録:202X年9月12日 09:02】
エントランス、照明の照度、通常オフィスビルの1.3倍。「格」を見せるための過剰投資。
陽菜が隣を歩いた。
「緊張していますか」
「していません」
「正直ですね」
エレベーターで十四階へ。営業企画部のフロアに出た瞬間、蓮の記録が加速した。
廊下を歩きながら、視界に入る全てをログに落とす。
【記録:09:08】
廊下右側、三番目のデスク。社員、タイピング速度が周囲より約15%遅い。視線が画面左下に集中。数字の入力時のみ、一瞬手が止まる。改ざんの可能性。
【記録:09:08】
給湯室前、二名が会話。声量が周囲の60%。内容不明だが、蓮が通過した瞬間に停止。情報管理への過敏反応。
【記録:09:09】
シュレッダー、この時間帯に稼働中。通常、業務開始直後にシュレッダーを使う理由は限られる。
【記録:09:09】
窓際のデスク、引き出しが一センチ開いたまま。中身は書類の束。ファイリングされていない、つまり「公式の記録に残したくない」書類の可能性。
歩いただけで、ビルが透けていく感覚だった。
陽菜が小声で言った。「何が見えていますか」
「全部」
陽菜が笑った。声を出さない笑い方だった。
応接室に通されると、先客がいた。
五十代、がっしりした体格。高そうなスーツが似合っていない。腕時計は派手だが傷がある。蓮は一秒で記録した。
「石倉部長です」陽菜が紹介した。「第三営業部、部長です」
石倉は蓮をちらりと見た。品定めする目だった。値踏みして、すぐに値段をつけた目だった。
「陽菜ちゃんの、お知り合い?」
「外部アドバイザーです」陽菜が言った。「営業企画の改善をお願いしています」
「ふうん」石倉は興味を失ったように視線を外した。「外部アドバイザー、ね。最近多いよな、そういうの。コンサルごっこ」
蓮は何も言わなかった。
石倉は立ち上がりながら、部屋の隅に積まれた段ボールを顎で指した。
「せっかく来たなら仕事してもらおうか。これ、経費精算の書類。仕分けだけやっといて。うちは遊び場じゃないんでね」
段ボール二箱分の書類だった。
陽菜が口を開きかけた。蓮が手で制した。
「わかりました」
石倉が少し驚いた顔をした。反論すると思っていたのだろう。
「まあ、せいぜい頑張って」
石倉が部屋を出た。
陽菜が蓮を見た。「よかったんですか」
「はい」蓮は段ボールに手を伸ばした。「むしろ好都合です」
書類の仕分けを始めた。
一枚、一枚、手に取る。日付、金額、店名、担当者名。全て、頭に入る。
十分が経った。
【記録:09:31】
112ページ。タクシー領収書。202X年7月7日、19時33分。車両番号〇〇。金額2,800円。担当:石倉誠。
【記録:09:32】
114ページ。タクシー領収書。202X年7月7日、19時33分。車両番号〇〇。金額2,800円。担当:石倉誠。
同一。
車両番号、時刻、金額。完全に一致する領収書が二枚ある。
蓮は二枚を並べた。微妙に印刷のインクの濃度が違う。片方は複製だ。
さらにページを繰る。
【記録:09:41】
接待費、202X年8月〜9月。計十四件。金額の合計、1,247,000円。しかし書類に記載された接待先の社名、三件が実在しない法人名。
【記録:09:44】
交通費精算、石倉部長名義。昨日分。「外回り、14:00〜17:00」の記録あり。
蓮は昨日の記憶を参照した。
【記録:202X年9月11日 14:22】
瀬川商事、十四階喫煙所。石倉部長の声。「あのプロジェクト、もう少し引っ張れるか」という発言。空気清浄機の稼働音。
時刻が一致する。
外回りの記録と、社内喫煙所にいた事実が、一致しない。
三十分後、石倉が戻ってきた。
上機嫌な顔だった。外部アドバイザーが大人しく書類仕分けをしているのが、愉快なのだろう。
「どうだ、終わったか」
「終わりました」
「早いな。まあ、仕分けだけだからな」
石倉が書類の山に手を伸ばした。その瞬間、蓮が言った。
「石倉部長」
「なんだ」
蓮は顔を上げなかった。手元の書類に視線を落としたまま、静かに言った。
「112ページと114ページ、タクシーの領収書が重複しています。同一車両、同一時刻、同一金額」
石倉の動きが止まった。
「片方は偽造ですね。インクの濃度が0.3ミリほど違います」
沈黙。
「それから」蓮は続けた。「昨日の午後2時から5時、外回りと記録されていますが」
蓮は顔を上げた。石倉を見た。
「その時刻、社内の喫煙所にいましたね。空気清浄機の稼働ログと、今あなたの上着に残っている煙草の匂いの記憶が一致します。銘柄はショートホープ。昨日もそれを吸っていました」
石倉の顔から、血の気が引いた。
「さらに、接待費の領収書に記載された法人名、三件が実在しない会社名です。設立登記を確認しましたが、いずれも記録がありません」
「お前、それをどこで――」
「書類に書いてありました」蓮は静かに言った。「全部、ここにあります」
廊下の影に、陽菜がいた。
腕を組んで、壁に背を預けて、部屋の中を見ていた。
口角が、上がっていた。
愉しんでいる目だった。芸術を鑑賞する目だった。
石倉が応接室から出てきた。蓮を見なかった。足早に廊下を歩いていった。
陽菜が蓮の隣に来た。
「三十分でここまでやるとは思いませんでした」
「書類に全部書いてありました」蓮は繰り返した。「俺は読んだだけです」
「謙遜しないでください」陽菜は窓の外を見た。「あなたが読んで、初めて意味を持つ書類です」
蓮は窓の外を見た。
丸の内のビル群が見えた。いくつもの窓。いくつもの部屋。いくつもの書類。
このビルは、嘘でできている。
そして俺は、忘れることができない。
「まだ奥がありますよ」陽菜が言った。声が静かだった。でも目の奥に、何かが灯っていた。「石倉の上にも、繋がっている。もっと大きな嘘が」
「わかっています」
「怖くないですか」
蓮は少し考えた。
「怖いと感じる前に、記録が走ります」
陽菜は笑った。
今日一番の、本物の笑顔だった。
第20話 了
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