第19話「12,453,000円の清算」
オフィスに入った瞬間、声が聞こえた。
「いい加減にしてください、お客様――」
受付の中村が困り果てた顔で立っている。その前に、二人がいた。
母と、麻衣。
母は肩掛けバッグを抱えて、目が据わっていた。麻衣は目を赤くして、ハンカチを握っていた。
「蓮。」
母が蓮を見た瞬間、声を荒らげた。
「なんなの、この会社。息子に会わせろって言ってるのに」
蓮は答える前に、隣の陽菜を見た。
陽菜は何も言わなかった。ただ、部屋を見渡した。それだけで、空気が変わった。
母が陽菜を見た。
黒いドレスコート、細いヒール、乱れのない髪。瀬川商事の営業企画部責任者の顔。値札のつかない格というものが、確かにあった。
母が何か言おうとして、止まった。
陽菜が静かに言った。
「彼に、ご用ですか」
低く、穏やかな声だった。
怒鳴っていない。凄んでいない。ただ、それだけで場が凍りついた。
桐島が応接スペースに全員を通した。
「蓮、すまん。止められなくて」
「いえ」
母がソファに座りながら、陽菜を見た。
「あんた、誰。蓮の新しい女?」
「取引先です」陽菜は答えた。笑顔だった。温度のない笑顔だった。「続けてください、お母さん」
お母さん、という言葉が棘になった。母が口を開きかけて、また閉じた。
麻衣が前に出た。
「蓮くん、話を聞いてほしいの。黒川さんに言われるまま動いてただけで、私は何も――」
「水沢さん」
蓮が遮った。
「今日、何時に母に連絡しましたか」
麻衣が固まった。
「俺に電話をした直後です。21時34分の着信の後、21時36分に母に連絡した。内容は『蓮に冷たくされた、一緒にオフィスに行って説得してほしい』。違いますか」
麻衣の顔が青くなった。
「なぜわかるんですか」
「あなたが追い詰められた時、必ず第三者を巻き込む。過去に十一回、同じパターンがあります。全て記録しています」
陽菜が静かにソファに腰を下ろした。観劇するように、足を組んだ。
母が立ち上がった。
「蓮、いい加減にしなさい。親に向かってなんて態度をとるの。私がどれだけ苦労してあなたを育てたか」
「2,142日間」
蓮は静かに言った。
「あなたは俺に『感謝しろ』と言いました。記録している限り、平均して一日一回以上です」
母が口を開けた。
「これまで送金した総額は、12,453,000円です」
数字が、部屋に落ちた。
「あなたが俺の養育にかけた推定費用を計算しました。公的統計の養育費平均と、俺が記憶している実際の支出額を照合した結果、推定費用は約4,400,000円。仕送り総額はその2.8倍に相当します。利息を含めても、債務は既に消滅しています」
母が「そんな計算」と言いかけた。
「202X年8月、23,000円。パチンコ店の領収書。俺が実家に帰った時、テーブルに置いてありました。」
母の顔が変わった。
「202X年11月、47,000円。ブランドのバッグ。翌月、仕送りが足りないと電話がありました。202X年3月、81,000円。旅行代金。行き先は温泉、同行者は近所の友人と聞きました」
「や、やめなさい」
「全部、日付と金額があります」
母の目が揺れた。
「お金の問題じゃないでしょ。親子なんだから」
「そう言うと思っていました」蓮は続けた。「では数字の話はやめます。別の話をします」
「202X年6月17日、午後11時」
蓮の声は変わらない。静かで、平坦だった。
「俺が就職活動で三社連続で落ちた夜、電話をしました。あなたは『どうせあんたには無理だったのよ』と言いました。通話時間は四分三十二秒です」
母が黙った。
「202X年9月3日、午前二時」
「俺が過労で倒れて救急搬送された夜、連絡しました。あなたの第一声は『今月の仕送りはいつ来るの』でした。」
「そ、それは――」
「覚えています。全部」
沈黙。
母が、絞り出すように言った。
「……あんたなんか、産まなければよかった」
部屋の温度が下がった気がした。
中村が息をのんだ。桐島が眉をひそめた。陽菜の目が細くなった。
蓮は少し間を置いた。
【記録:202X年9月11日 21:47】
母、「産まなければよかった」と発言。
「その言葉は」蓮は静かに言った。「通算十四回目です。最初は俺が九歳の時、202X年〇月〇日でした。想定内なので、私の心拍数に変化はありません」
母が、崩れた。
声が出なかった。言葉が出なかった。十四回という数字が、全ての感情論を飲み込んだ。
麻衣が立ち上がった。
「蓮くん、お母さんがかわいそうじゃない。もう少し――」
「水沢さん」
陽菜が立った。
静かだった。怒鳴らなかった。ただ、立っただけだった。
「見苦しいわ」
陽菜は麻衣を見た。
「彼の記憶を、これ以上汚さないで」
麻衣が言葉を失った。
陽菜が桐島を見た。「お願いできますか」
桐島が頷いて、立ち上がった。「お二人とも、お引き取りください」
母が何か言おうとした。麻衣が「待って」と言った。
でも桐島は動じなかった。中村が扉を開けた。
二人が廊下に出た。エレベーターのボタンが押される音がした。
怒鳴り声が聞こえた。麻衣の泣き声が聞こえた。
扉が閉まった。
静かになった。
しばらく誰も何も言わなかった。
中村が「すみません、お茶を」と言って奥に引っ込んだ。桐島が窓を開けた。夜風が入ってきた。
陽菜がソファに座り直して、蓮を見た。
「心拍数、本当に変わらなかったんですか」
「はい」
「嘘くさい」
「記録があります」
陽菜は少し笑った。今夜何度目かの、本物の笑顔だった。
「蓮さん」
「はい」
「掃除は終わりましたね」
蓮は窓の外を見た。エレベーターの前で響いていた声は、もう聞こえなかった。
「終わりました」
「では」陽菜は立ち上がった。コートの裾を整えて、蓮を見た。「次は私たちの『狩り』の時間です」
瀬川商事。三年分の不正。
蓮は頷いた。
事実は、ここにある。
全部、頭の中に。
第19話 了
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