第18話「嘘がつけないレストラン」
看板がなかった。
表通りから一本入った路地の突き当たり。黒いドアだけがある。呼び鈴もない。陽菜がドアをノックすると、音もなく開いた。
「完全紹介制です」
陽菜が言った。説明はそれだけだった。
通されたのは八席だけのダイニング。照明は低く、会話が外に漏れない設計になっている。客は二組だけ。どちらも声を潜めて話していた。
席に着いた瞬間、蓮の記録が走り始めた。
【記録:202X年9月10日 19:03】
室温22.4度。キャンドルの香り、シダーウッドとバニラ。ウェイターの歩幅、74センチ。給仕までの所要歩数、十一歩。
陽菜が蓮を見た。
「記録してますね」
「習慣です」
「ここでは休んでいいですよ」
彼女はそっと、蓮の左手に手を重ねた。
温かかった。
蓮は少し固まった。陽菜はそれを見て、静かに笑った。
「驚きました?」
「少し」
「正直ですね」陽菜はワインリストを開いた。「私、嘘をつく人間が嫌いなんです。あなたは嘘がつけない。だから、話がしやすい」
ワインが運ばれてきた。
【記録:202X年9月10日 19:07】
ブルゴーニュ、202X年産。香り、チェリーとスパイス、微かな土。
蓮は記録しかけて、止めた。
陽菜の手がまだ、かすかに温度を残していた。
「本題を話します」
前菜が運ばれた頃、陽菜が言った。
「あなたの能力を、独占したい」
「独占、ですか」
「瀬川商事の中に、私が潰したい派閥があります。三年かけて内部で不正を積み上げてきた連中です。証拠はある。でも、証拠を証拠として組み立てられる人間がいない」
蓮はワインを置いた。
「それを俺にやれと」
「お願いしたい、と言っています」陽菜は蓮をまっすぐ見た。「報酬は、あなたの前職の年収の三倍。ただし極秘契約です。桐島さんとの関係は続けて構わない。ただ、この案件だけは私との間だけで動いてほしい」
三倍。
蓮は頭の中で計算した。数字は即座に出た。
「条件が一つあります」
「なんですか」
「事実だけで動くこと。俺は感情では動きません」
陽菜は少し口角を上げた。
「それが、あなたに頼む理由です」
メインが運ばれた頃だった。
スマホが振動した。
麻衣からだった。
着信が三回、メッセージが五件。蓮は画面をざっと確認した。
『蓮くん、助けて』
『黒川さんにひどいことされた』
『私、騙されてたの。信じてほしい』
『お願い、電話して』
『蓮くんだけが頼りなの』
陽菜が視線に気づいた。
「元カノさんですか」
「はい」
「出なくていいんですか」
蓮は少し考えた。
「よろしければ、このまま処理しても構いませんか」
陽菜は楽しそうにワインを傾けた。「どうぞ」
蓮は電話をかけた。スピーカーにした。
三コールで麻衣が出た。
『蓮くん、良かった。ねえ、聞いてほしいんだけど、黒川さんが私のこと――』
「水沢さん」
蓮は静かに遮った。
「騙されていた、という言葉を使いましたね」
『そう、だって私も被害者で――』
「202X年4月12日、19時22分」
麻衣の声が止まった。
「黒川部長の車の中で、あなたは言いました。『蓮はただのATM、使えるうちに使わないと』。場所は〇〇パーキング。俺が残業を終えて駐車場を通った時、車の中から聞こえました」
沈黙。
「覚えています。一言一句」
『そ、それは――』
「202X年7月3日、あなたは俺のアイデアを黒川部長にメッセージで送りました。21時17分。内容は翌週の営業会議で使う企画案、全文です。俺が二週間かけて作ったものです」
『待って、それは――』
「今の『騙されていた』という言葉のトーン」
蓮は続けた。
「あなたが浮気を隠していた時と同じピッチです。声帯が緊張すると周波数が上がる。俺には全部、記録があります」
長い沈黙。
陽菜がワインをゆっくり傾けた。楽しむように。鑑賞するように。
『……なんで、そんな』
麻衣の声が、小さくなった。
「事実だからです」蓮は言った。「感情は書き換えられる。でも事実は消えない。水沢さんが何を言っても、俺の記録は変わりません」
電話が、切れた。
静寂が戻った。
陽菜はしばらく何も言わなかった。ただワインを飲んで、キャンドルの炎を見ていた。
それから静かに言った。
「……素敵」
「何がですか」
「あなたの記憶の中では、悪人は一生、有罪のままなのね」
蓮は答えなかった。
「芸術品みたい」陽菜は蓮を見た。「あなたという存在が。感情を持たないデータベースじゃなくて、全てを知った上で、それでも静かでいられる人間。それが、一番怖い」
怖い。
その言葉を、蓮は記録した。
【記録:202X年9月10日 20:14】
瀬川陽菜、「怖い」と発言。声のトーン、柔らかい。表情、笑顔。
怖いと言いながら、近づいてくる人間がいる。
蓮には、その感情の構造が少し理解できなかった。
デザートが運ばれた頃、スマホが鳴った。
桐島からだった。
「はい」
『蓮、落ち着いて聞け』
「何がありましたか」
『お前の母親がオフィスに来てる』
蓮は少し間を置いた。
『それだけじゃない』桐島の声が低くなった。『……麻衣を連れてきてる』
陽菜がこちらを見た。
蓮はスマホを持ったまま、静かに考えた。
母と麻衣。
二人が繋がって動いた。
おそらく今夜の電話の直後に、麻衣が母に連絡したのだろう。
蓮は桐島に言った。
「今から向かいます。十五分で着きます」
電話を切って、陽菜を見た。
「申し訳ありません、中座します」
「構いません」陽菜は微笑んだ。「送ります」
車に乗りながら、蓮は窓の外を見た。
夜の東京が流れていく。
害虫は、まとめて処理した方が効率がいい。
ただ、それだけのことだ。
第18話 了
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