第17話「事実という名の暴力」
瀬川陽菜は、最初から品定めをしていた。
桐島のオフィスに入ってきた瞬間から、その目が蓮を測っていた。値踏み、というより解析。優秀な人間が初対面の相手に向ける、あの冷たい視線だ。
二十八歳。瀬川商事の営業企画部責任者。
名刺を受け取りながら、蓮は記録した。
握手の力加減、視線の高さ、呼吸のリズム。全部、入った。
「篠原さん、ですね」
「はい」
「マルシン印刷の丸山さんから聞きました。随分と優秀だと」
「過分な評価です」
陽菜は少し口角を上げた。笑顔ではない。試している顔だ。
「では早速ですが」
彼女は資料を取り出した。
「弊社の現状をご説明します。少し複雑な状況なので、メモを取られた方が」
「結構です」
陽菜の目が、わずかに細くなった。
説明が始まった。
物流コスト、在庫管理、取引先との契約条件、来期の売上目標。次々と数字が並ぶ。
蓮はただ、聞いていた。
メモを取らない。頷きも最小限。ただ、全てを記録していた。
【記録:202X年9月3日 14:07】
瀬川陽菜、在庫数を「月平均2,840個」と発言。
【記録:202X年9月3日 14:09】
視線が右上に移動。二回。
【記録:202X年9月3日 14:11】
声のトーンが0.5オクターブ低下。物流コストの説明に入った瞬間。
【記録:202X年9月3日 14:12】
物流コストを「月間420万円」と発言。
蓮の頭の中で、数字が自動的に照合された。
在庫数2,840個、物流コスト月420万円。
合わない。
陽菜の説明が一段落した。
「ご質問はありますか」
「一つだけ」
蓮は静かに言った。
「3分12秒前、在庫数を月平均2,840個とおっしゃいました」
陽菜が少し眉を上げた。
「先ほどの物流コスト、月420万円という数字と計算が合いません」
「……どういう意味ですか」
「御社の昨年度決算短信、14ページ3行目に物流単価が記載されています。1個あたり978円。2,840個であれば月間コストは約277万円になります。420万円との差額は143万円。この乖離の説明が、今の資料にはありません」
沈黙。
陽菜はわずかに目を見開いた。それだけだった。表情を動かさないように訓練された人間の、限界ギリギリの反応。
「……決算短信を、読んでいたんですか」
「事前に」
「いつ」
「昨日の22時14分から23時02分の間に」
陽菜はしばらく蓮を見た。
何かが、彼女の中で動いた。
氷が、ひびを入れるような音がした気がした。
「その差額の件は」陽菜はゆっくり言った。「社内でも把握できていない数字です」
「そうだと思いました」
「なぜ」
「説明の時、その部分だけ視線が右上に逃げました。二回」
陽菜が息を止めた。
一秒。二秒。
それから、静かに笑った。
今度は本物の笑顔だった。品定めが終わった顔だった。
「篠原さん」
「はい」
「あなた、本物ですね」
商談が終わり、桐島が席を外した。
二人になった瞬間、蓮のスマホが振動した。
田中からの着信だった。
「少し失礼します」
蓮は電話に出た。田中の声は珍しく動揺していた。
「篠原さん、大変なことになってて」
「何がありましたか」
「黒川部長が、得意先への提出資料を紛失したみたいで。それで篠原さんが隠したとか言い出して」
スピーカーの向こうから、黒川の怒号が漏れた。
「あの野郎、辞める前に資料を持ち出したんだろ。じゃなきゃ説明がつかない。篠原に連絡しろ、今すぐ」
蓮は少し間を置いた。
「田中さん、黒川部長に伝えてください」
「え、は、はい」
「202X年2月17日、午後3時44分。黒川部長は第二会議室で、俺が作成した田端商事向けの旧提案資料を『古いものはゴミだ、シュレッダーにかけろ』と指示しました。実行したのは田中さんです」
沈黙。
「シュレッダーの作動音は午後3時51分。俺はその場にいました。記録しています」
田中の息をのむ気配がした。
「……全部、覚えてるんですか」
「覚えています」
電話口の向こうで、黒川の怒号が止まった。
「以上です。では」
電話を切った。
静かになったオフィスで、蓮はスマホをポケットにしまった。
視線を感じた。
陽菜が、こちらを見ていた。
商談中の冷たい目とは違う。熱を持った、真剣な目だった。
「今の」
「はい」
「全部、本当に覚えているんですか。日付も、時刻も」
「覚えています」
陽菜はしばらく蓮を見た。それから静かに言った。
「お願いがあります」
「なんでしょう」
「あなたの記憶に、私の名前を深く刻んでおいてください」
蓮は少し黙った。
「……仕事以外でも」
陽菜は視線を外さなかった。
蓮は答えなかった。ただ、記録した。
【記録:202X年9月3日 15:33】
瀬川陽菜。声のトーン、平常より低い。視線、逸らさず。
感情は書き換えられる。
だが、事実は消えない。
第17話 了
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