第16話「噂」
前の会社から、また田中が連絡してきた。
今度は電話だった。夜の九時過ぎ、蓮がちょうど読書をしていた時だった。
「篠原さん、ちょっといいですか」
「はい、どうぞ」
「実はですね」田中の声が少し低くなった。「会社でちょっとまずいことになってて」
「まずいこと?」
「黒川部長が、上から目をつけられてるみたいなんです」
蓮は本を閉じた。
「内容は」
「田端商事の件だけじゃなくて、他にも引き継ぎがうまくいってない案件が出てきて。で、上の人が調べ始めたみたいで。過去の案件の実績が、本当に黒川部長のものなのかって」
(二〇〇〇年〇月〇日、二十一時十四分。前職・黒川部長、社内調査開始の情報)
記録した。
「そうですか」
「篠原さん、何か知ってますか。その、部長が手柄を横取りしてたとか」
蓮は少し考えた。
「俺が知っていることは、事実として覚えています」
「え、どういう意味ですか」
「日付、時刻、発言内容、全て記憶しています。誰かが正式に確認したいなら、事実をそのまま話します」
田中が少し息をのんだ気配がした。
「……篠原さんって、本当に全部覚えてるんですか」
「覚えています」
「怖いですね、少し」
「そうですか」
田中は少し笑った。「いい意味でですよ。部長、ちゃんと報いを受けてほしいと思って」
蓮は答えなかった。
報いを受けてほしい。その感情は、蓮の中にはない。ただ事実がある。それだけだ。
「田中さん、大変だと思いますが無理しないでください」
「はい。また連絡します」
電話が切れた。
蓮はスマホを置いて、また本を開いた。
黒川の件が動き始めている。蓮は何も仕掛けていない。ただ静かにいるだけで、向こうが崩れ始めている。
引力型。
そういうことか、と蓮は思った。
週が明けて、坂本から声をかけられた。
「篠原さん、前の会社の話を聞いてもいいですか」
昼休みだった。二人でオフィスに残っていた。
「何を知りたいですか」
「コンサルと普通の会社の違いって、どこだと思いますか。篠原さん、両方経験してるので」
蓮は少し考えた。
「普通の会社は、成果が個人に帰属しにくいです。組織の名前で動くので、誰がやったかが曖昧になる。コンサルは逆で、個人の成果がそのまま見えます」
「篠原さんは、前の会社で成果を取られていたんですか」
直球だった。蓮は坂本を見た。細い目が静かにこちらを見ている。悪意はない。純粋な質問だ。
「取られていました」
「それで辞めたんですか」
「それがきっかけの一つです」
坂本は少し頷いた。「ここでは取られません。桐島さんはそういう人間じゃない」
「知っています」
「それだけ言いたかっただけです」
坂本は立ち上がって、コーヒーメーカーに向かった。
蓮は少し、胸の中が軽くなった気がした。
信用できる場所にいる。
それが今、蓮には一番大切なことだった。
その週の金曜日、桐島に呼ばれた。
「来月、大きな商談がある」
「どこですか」
「瀬川商事」
蓮は少し眉を上げた。業界では知られた中堅企業だ。
「向こうの担当者が、篠原という名前を指名してきた」
「俺を、ですか」
「知り合いか?」
「いいえ」
「マルシン印刷の丸山社長が紹介してくれたらしい。あの提案書が回ったんだろうな」
蓮は静かに考えた。
マルシン印刷の案件が、次の案件を引き寄せた。動いていないのに、動いている。
「担当者の名前は」
「瀬川陽菜。向こうの営業企画部の責任者だ」
蓮は名前を記憶した。
瀬川陽菜。
初めての名前が、頭の中に刻まれた。
第16話 了
この作品が少しでも気になったら、★評価とブックマークをいただけると励みになります。次回更新の力になります。引き続きよろしくお願いします。




