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「俺だけが全部覚えている~三年分の搾取を、事実だけで清算する~」  作者: ジキルぅ
第二章「静かな助走」

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第16話「噂」

前の会社から、また田中が連絡してきた。

今度は電話だった。夜の九時過ぎ、蓮がちょうど読書をしていた時だった。

「篠原さん、ちょっといいですか」

「はい、どうぞ」

「実はですね」田中の声が少し低くなった。「会社でちょっとまずいことになってて」

「まずいこと?」

「黒川部長が、上から目をつけられてるみたいなんです」

蓮は本を閉じた。

「内容は」

「田端商事の件だけじゃなくて、他にも引き継ぎがうまくいってない案件が出てきて。で、上の人が調べ始めたみたいで。過去の案件の実績が、本当に黒川部長のものなのかって」

(二〇〇〇年〇月〇日、二十一時十四分。前職・黒川部長、社内調査開始の情報)

記録した。

「そうですか」

「篠原さん、何か知ってますか。その、部長が手柄を横取りしてたとか」

蓮は少し考えた。

「俺が知っていることは、事実として覚えています」

「え、どういう意味ですか」

「日付、時刻、発言内容、全て記憶しています。誰かが正式に確認したいなら、事実をそのまま話します」

田中が少し息をのんだ気配がした。

「……篠原さんって、本当に全部覚えてるんですか」

「覚えています」

「怖いですね、少し」

「そうですか」

田中は少し笑った。「いい意味でですよ。部長、ちゃんと報いを受けてほしいと思って」

蓮は答えなかった。

報いを受けてほしい。その感情は、蓮の中にはない。ただ事実がある。それだけだ。

「田中さん、大変だと思いますが無理しないでください」

「はい。また連絡します」

電話が切れた。

蓮はスマホを置いて、また本を開いた。

黒川の件が動き始めている。蓮は何も仕掛けていない。ただ静かにいるだけで、向こうが崩れ始めている。

引力型。

そういうことか、と蓮は思った。

週が明けて、坂本から声をかけられた。

「篠原さん、前の会社の話を聞いてもいいですか」

昼休みだった。二人でオフィスに残っていた。

「何を知りたいですか」

「コンサルと普通の会社の違いって、どこだと思いますか。篠原さん、両方経験してるので」

蓮は少し考えた。

「普通の会社は、成果が個人に帰属しにくいです。組織の名前で動くので、誰がやったかが曖昧になる。コンサルは逆で、個人の成果がそのまま見えます」

「篠原さんは、前の会社で成果を取られていたんですか」

直球だった。蓮は坂本を見た。細い目が静かにこちらを見ている。悪意はない。純粋な質問だ。

「取られていました」

「それで辞めたんですか」

「それがきっかけの一つです」

坂本は少し頷いた。「ここでは取られません。桐島さんはそういう人間じゃない」

「知っています」

「それだけ言いたかっただけです」

坂本は立ち上がって、コーヒーメーカーに向かった。

蓮は少し、胸の中が軽くなった気がした。

信用できる場所にいる。

それが今、蓮には一番大切なことだった。

その週の金曜日、桐島に呼ばれた。

「来月、大きな商談がある」

「どこですか」

「瀬川商事」

蓮は少し眉を上げた。業界では知られた中堅企業だ。

「向こうの担当者が、篠原という名前を指名してきた」

「俺を、ですか」

「知り合いか?」

「いいえ」

「マルシン印刷の丸山社長が紹介してくれたらしい。あの提案書が回ったんだろうな」

蓮は静かに考えた。

マルシン印刷の案件が、次の案件を引き寄せた。動いていないのに、動いている。

「担当者の名前は」

「瀬川陽菜。向こうの営業企画部の責任者だ」

蓮は名前を記憶した。

瀬川陽菜。

初めての名前が、頭の中に刻まれた。


第16話 了 


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