第15話「母からの手紙」
転職から一ヶ月半が経った頃、母から手紙が届いた。
LINEでも電話でもなく、手紙。封筒の文字は母の筆跡だった。
蓮はしばらくそれを手に持ったまま、テーブルに置いた。夕飯を食べてから開けた。
便箋が三枚入っていた。
最初の一枚は近況報告だった。体調のこと、近所の話、テレビで見た話。
二枚目から、本題になった。
『蓮へ。仕送りのこと、もう少し考えてくれないかしら。三万円では正直厳しくて、毎月末が怖い。年金が入っても、家賃と光熱費と食費でほとんど消えてしまって、医療費が出ないの』
蓮は頭の中で数字を整理した。
母の年金受給額は月およそ十一万円。これは以前、通帳を見せてもらった時に記憶した数字だ。二〇〇〇年〇月〇日、金額は十一万三千四百円。母が住む地域の1LDKの家賃相場は六万円前後。光熱費が平均一万五千円。食費が二万円とすれば、合計およそ九万五千円。年金だけで賄える計算だ。
ただし母は昨年、家賃七万八千円の物件に引っ越していた。理由は「前のマンションがうるさかったから」。その選択が今の不足を生んでいる。
蓮が毎月送っていた五万円は、純粋な不足分の補填ではなかった。母の「より良い暮らし」を支える上乗せ分だった。
三万円に減らした今も、年金と合わせれば十四万円になる。生活できないはずがない。
ただそれを母に言っても、「冷たい」で終わる。蓮はそれを何度も経験していた。
三枚目の最後にこう書いてあった。
『麻衣ちゃんが心配してくれていたのに、あなたがひどい別れ方をしたって聞いて悲しかった。あの子はいい子だったのに。お母さんはあなたの幸せを願っているから、こんなことを書いています』
麻衣が母に連絡を続けていた。
別れてから一ヶ月以上経って、まだ連絡を取っている。
(二〇〇〇年〇月〇日。母からの手紙。麻衣との連絡継続を確認)
記録した。感情は動かなかった。ただ、事実として記録した。
蓮は便箋を封筒に戻して、引き出しにしまった。
返事は書かなかった。
翌週、蓮は時間を作って母に電話した。
「手紙、読みました」
『あら、珍しい。ちゃんと読んでくれたの』
「読みました。仕送りの件ですが、来月も三万円です」
沈黙。
『なんで。手紙に書いたでしょ、医療費も出ないって』
「お母さんの年金が月十一万三千四百円あります。今の家賃が七万八千円。光熱費と食費を合わせれば年金だけでほぼ賄える計算です。三万円の仕送りを足せば月十四万円になります」
『そんな細かい計算、いつしたの』
「前に通帳を見せてもらった時に覚えました」
沈黙。今度は少し長い。
『……覚えてるの、そんなこと』
「覚えています」
母はしばらく黙っていた。蓮が数字を正確に把握していると気づいた時の沈黙だった。感情で押すことができなくなった時の、あの間だ。
『でも今の家は気に入ってるし、引っ越せないわよ』
「引っ越せとは言っていません。三万円の仕送りで生活できるはずだと言っています」
『できないのよ、実際』
「何にいくらかかっているか、一度整理してみてください。一緒に考えます」
『蓮に家計を見られたくないわよ』
「では俺には判断できません。三万円でお願いします」
また沈黙。
それから母は声のトーンを変えた。
『麻衣ちゃんとのこと、本当にいいの? あの子、あなたのことまだ』
「麻衣さんの話は関係ありません」
『そんなこと言って、あの子が心配してくれてるのに』
「お母さん、一つお願いがあります」
『なに』
「麻衣さんと連絡を取ることは止めません。ただ俺の情報を伝えるのはやめてください」
『大げさね』
「お願いします」
沈黙。
『わかったわよ』
低い声だった。納得ではなく、一時的な折れだとわかった。でも今はそれでいい。
「ありがとうございます。仕送りは来月も三万円、月末に振り込みます。では」
電話を切った。
蓮はスマホをテーブルに置いて、少し天井を見た。
怒りはなかった。ただ静かな疲労感があった。数字で話しても、感情で返してくる。それに対してまた数字で返す。消耗する会話だったが、これが正しいやり方だと蓮は思っていた。
感情に引きずられれば、また元に戻る。
数字だけが、蓮を守る。
マルシン印刷の案件が正式に受注になったのは、その翌日だった。
桐島から「取れた」とだけLINEが来た。
蓮は「ありがとうございます」と返した。
小さな一歩だったが、確かな一歩だった。
第15話 了
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