第10話「退場」
最終出社日は、普通の金曜日だった。
天気は晴れ。気温は十七度。蓮は朝七時に起きて、シャワーを浴びて、いつもと同じ時間に家を出た。
特別な感慨はなかった。ただ、今日で終わるという静かな事実があるだけだった。
デスクの荷物はほとんどなかった。
三年間働いた割に、私物が少ない。写真一枚、趣味のものゼロ、観葉植物もない。そのことに今日初めて気づいた。
ここは最初から、自分の場所ではなかったのかもしれない。
引き継ぎ資料は全て完成している。担当案件の引き継ぎも全て終えた。後任への説明も済んでいる。やるべきことは全て、完璧にやった。
午前中は通常業務をこなした。午後、黒川に挨拶に行った。
「お世話になりました」
「……ああ」黒川は少し気まずそうだった。「まあ、向こうでも頑張れ」
「ありがとうございます」
それだけだった。
麻衣にも挨拶した。
「お世話になりました」
麻衣は少し泣きそうな顔をした。「蓮くん、本当に行っちゃうんだね」
「はい」
「……元気でね」
「麻衣さんも」
それだけだった。
十八時。
蓮は立ち上がって、デスクを最後に一度見た。空になったデスク。何も残っていない。
「お世話になりました」
頭を下げた。何人かが「お疲れ様でした」と返した。田中が「寂しくなりますよ」と言った。蓮は「ありがとう」と言った。
エレベーターのボタンを押した。
扉が閉まる瞬間、蓮はオフィスを最後に見た。
黒川がデスクで書類を見ている。麻衣がパソコンの画面を見ている。いつもの光景だった。
扉が閉まった。
蓮は正面を向いた。
怒りはなかった。未練もなかった。あるのは静かな確信だけだった。
俺はここで三年間、全てを覚えた。一言一句、一円単位、一分単位で。
それは誰にも奪えない。
エレベーターが一階に着いた。自動ドアを抜けると、夜風が顔に当たった。
蓮は歩き出した。
振り返らなかった。
第10話 了 /【第一章・完】
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