1:それが日常だった頃
それは遠い遠い、いつかの記憶。
山間にある小さな村。その村の外れにある粗末な物置小屋の陰で、一人の少年がうずくまっていた。ここには滅多に人が来ないので、何か辛い事があった時に、彼はいつもここで膝を抱えて涙を堪えるのだ。
少年の名はクロード。最近になって、村の兵士である父から剣の稽古を受け始めたのだが、中々うまくいかずこの日も悔しい思いをしていた。
「…こんな所で何してるの?」
「!」
そんな彼に、不意に声がかけられた。彼が驚いて顔を上げると、そこに居たのは一人の少女。彼女の名はアイネ。まるで似ていなかったけれど、彼の双子の妹だった。
「な、何でもない」
そう言って顔を背ける彼だったが、彼がここで何をしていたかなど、彼女には初めから分かっていた。彼女は少し考える素振りを見せてから、おもむろに言った。
「…別に辛かったら止めてもいいんじゃない? 魔法の使える人なら他にもいるんだから」
彼女の言う通り。村を守る兵士は必要な仕事だったけれど、必ずしも兵士の息子の彼がならなければいけないものでもなかった。村人みんなが親戚のような小さな村だ。村の中の仕事であれば、子供たちにはある程度の選択の自由があった。
しかし彼は立ち上がると、ややぶっきらぼうに彼女の言葉を否定した。
「別に、嫌な訳じゃない」
辛くないと言えば、嘘になるけれど。自分たちが生まれ育ったこの村を、守りたいという気持ちは本当だった。その中でも特に、生まれる前から一緒だった彼女の事を、彼は己の半身のようにも思っていた。
「…そっか、うん。それじゃあ、諦めたらダメだね」
それは幼い子供を諭すような、純粋な善意から出た言葉だったけれど。しかしそれは彼の心の奥深く、魂にまで刻まれ、彼の行く末を決定付ける事になるのだった。
そして時は流れて現在。
「フッ! フッ!」
クロードは一人前とみなされる十五才を目前にして、物置小屋の陰で膝を抱えていた少年の面影は既になかった。家の前で一心に素振りをする姿は、中々堂に入って頼もしさすら感じさせた。
「………」
一方、家の玄関に座り込み、そんな彼を眺めているアイネ。
クロードが父から剣の稽古を受けるようになったのと同じ頃から、アイネは二人を産んで亡くなった母の代わりに家事全般を引き受けるようになっていたが、昔からおっとりとした性格の彼女は、よくこうしてぼんやりしている事も多かった。
そんな彼女は、生まれた時から整った顔立ちをしていたが、今ではそのままの美しい少女へと成長していた。村の少年たちの目には、そのぼんやりした横顔さえもとても魅力的に映っていた。
「ふーっ…」
素振りを終えるとクロードは、剣を収め深く息を吐いた。
「おつかれさま」
するとアイネもスカートの裾を払いながら立ち上がって、彼に向かってそう労いの声をかけた。彼女にそう言われると、稽古の疲れも充足感に変わる。
「さて、私もそろそろ夕飯の支度をしようかな。…何か食べたい物ある?」
彼女が作る物なら何でも好ましく思っている彼だったが、ここで何も言わないのも悪いだろう。少し考えてから彼はこう言った。
「…肉、とか」
その言葉を聞いて、彼女はおかしそうに笑った。
「ふふっ、そう言うところは、男の子って感じだね」
彼女が笑っているのを見ると、不思議と心が温かくなる。彼の日常は満ち足りていた。
二人がそんな会話をしていると、村の中心をこちらへ駆けて来る人影があった。
「?」
不思議に思って見ていると、それは山へ見回りに行っていた父だった。父は家の前まで走って来るとそこで立ち止まり、ちらりとアイネの方を見てから、すぐにクロードへと向き直って言った。
「悪魔が出た」
その言葉にクロードは緊張の面持ちになったが、アイネの方はどこか上の空だった。
「お前も、もうすぐ一人前だ。…少し早いが、いけるな?」
害獣相手なら何度か実戦を経験した事もあるクロードだが、悪魔の相手は初めてである。今の問いは彼にその力があると、父に認められたという意味でもあった。その事に緊張しながらも、彼は力強く頷いた。
「…うん!」
「よし、ついて来い」
その返事に対して父も、心なしか満足げに見える。そこで彼はアイネを振り返って、同じく力を込めて言った。
「行って来る!」
そう言われた彼女は、何か思うところがある様子だったが、それを口にする事はなくただ激励の言葉を返した。
「…うん、がんばってね」
その言葉に片手を上げて答えると、クロードは父と共に駆け出したのだった。
村の兵士は村に雇われた用心棒のようなもので、村に害となる野生動物を狩ったりもするが、一番の仕事は悪魔の討伐である。
そして悪魔とは、魔界から這い出して来たとされる人類の敵対存在だった。
「あそこだ」
山に入ってからしばらくして、父がそう言うと、その先では村の猟師が片手を上げて合図していた。
兵士と猟師の仕事には似通った部分があり、田舎の小さな村などでは協力して仕事をする事もあった。今回も父が彼を呼びに行く間、悪魔を見張ってくれていたようだ。
「この向こうだ」
猟師の男が指差した草むらの向こうには、ふらふらと宙を漂う灰色の異形がいた。それは下級悪魔と呼ばれるもので、羽根の生えた出来損ないの小人のような姿をしていた。
「下級と言えども、魔法を使うので油断は禁物だが、やれるな?」
父は寡黙で職人気質な人である。危なくなれば助けてくれるだろうが、まずは一人でやってみろという事だろう。
「っ…」
正直に言えば不安はある。けれど、幼い頃に聞いた諦めたらダメだと言うアイネの言葉が、今再び彼の背中を押した。
「…分かった」
そう言うとクロードは剣に手をかけ、草むらから一思いに飛び出した。
一応、虚を突いたつもりだったが、さすがに一息で距離を詰める事は出来なかった。彼の接近に気付いた悪魔は、魔法で火の玉を飛ばして来た。
その昔、魔法は悪魔だけが使えるものだった。しかしその後、人類は魔法を自分たちのものとし、現在では小さな村にも一人は使える者がいるくらいにまで広まっていた。
父はもちろんの事、彼もまたその一人である。
「!」
下級悪魔の魔法は生木を燃やせる程の火力はなかったが、肌に直接当たれば火傷くらいはする。クロードは自らも火の玉を飛ばして、悪魔の魔法を相殺した。
「ハァッ!」
そして手にした剣で思い切り斬りかかったが、その感触は砂袋を叩いたように鈍かった。相手がふらふらと宙に浮いている事もあり、致命傷は与えられなかったようだ。
「くっ…」
その後も幾度か魔法を撃たれて少々苦戦をしたが、諦めずに何度も剣を振り続け、クロードは何とか独力で下級悪魔を倒す事が出来た。
「ふーっ…」
やり切ったと思った瞬間に緊張の糸が切れて、彼はその場へ倒れる様に座り込んでしまった。
「途中ちょっとヒヤヒヤしたが、大したもんじゃないか」
猟師の男がそう声を上げると、その隣の父もクロードに対して労いの声をかけてくれた。
「初めてにしては、上出来だ」
それは父にしてはとても分かり易い、お褒めの言葉だった。
彼の日常は満ち足りていた。この時はまだ。




