Ⅴ 王座の夜と、物語の朝
翌日の王宮は、朝から落ち着かなかった。
廊下を歩く兵士の靴音が、普段より一歩ごとに深刻さを増し、使用人たちの気配はいつもより薄かった。
まるで、王宮そのものが息を潜めて事態の推移を見守っているようだ。
そして、白大理石の広間。
そこで、弟と私の対面が行われることになった。
弟──プトレマイオス十三世は、完全に青ざめていた。
あの色は、市場で売れ残ったナイルの魚と同じ色だ。
“美味しそうじゃない青”とでも言えばいいだろうか。
「姉上……ずるい……ローマに……ローマに媚びて……!」
「媚びてないよ」
「媚びてる!!」
「媚びてないよ」
「じゃあ何なんだ!」
「面白いから」
「軽い!!」
『軽いなぁ……あいかわらず君の理由ってホッケの身みたいにふわふわしてる……』
弟はわなわなと唇を震わせていた。
ローマの威圧も、カエサルの存在も、政治の現実も、きっとすべてが許せなかったのだろう。
でも、それはもうどうしようもなかった。
カエサルがゆっくりと前に出た。
あの赤いマントがひらりと揺れただけで、広間の空気が凍りついた。
「エジプトの王座は、両者の共同統治とする。だが──クレオパトラの追放は無効。プトレマイオスよ、お前は己の軽率さを省みることだ」
「……!」
弟の側近たちがざわめく。
ローマ兵たちは静かに手を剣へ伸ばす。
その緊張の中で、私はバステトを抱き上げた。
彼の毛が少し逆立っていて、珍しく緊張しているのがわかる。
『これは……歴史の分岐点ってやつだな……』
「そうだね」
『君、ほんとに大丈夫か?』
「大丈夫じゃないよ。でも……進むしかないでしょ」
カエサルが一歩、さらに前へ出た。
弟は、もう何も言えなかった。
喉の奥が小さくひゅっと鳴り、肩が震え、そしてついに──玉座の前で膝をついた。
その音は、広間の石の床に、静かに、深く吸い込まれた。
こうして、私は《公式に》王宮へ戻った。
五度目の追放からの帰還としては最速記録かもしれない。
弟の不満はぜんぜん晴れていないだろうけれど、政治というものは、感情より先に現実を飲み込むものなのだ。
夜。
バルコニーから見下ろすアレクサンドリアは、これまでとは違う意味を持って見えた。
昼とは別人のように静かで、風は街の秘密をそっと撫でるように吹いている。
遠くの海には、ローマ軍の松明が点々と揺れ、まるで星が漂っているみたいだった。
私は手すりに寄りかかり、深呼吸した。
「バステト」
『ん?』
「人生って、予想外だねぇ」
『まあ、な。君が予想外を呼ぶんだけどな』
「でも悪くないよ」
『悪くはないけど、落ち着かないぞ』
「落ち着いたら、私じゃないよ」
『言うと思った』
バステトがしぶしぶ尻尾を揺らす。
その尻尾が私の指にコツンと当たった。
それだけで、なんだか胸の奥が温まるのだから不思議だ。
そこへ、背後から声がした。
「クレオパトラ」
振り返ると、カエサルが立っていた。
月の光が彼の顔の皺を滑り落ち、
その影がまるで刻まれた歴史のように見えた。
「どうだ。王座に戻った感想は」
「うーん……」
私は少し考えてから、正直に言った。
「弟の顔を見なくて済むなら最高なんだけど」
カエサルは低く笑った。
「お前は本当に……面白い女だ」
「それ、二回目」
「だったか? だがその“面白さ”は、歴史を動かす」
『言われてるぞ……君の面白さ、世界規模だってさ……』
私は小さく笑った。
「カエサル。私、あなたといると退屈しなさそうだよ」
「退屈はしないだろうな。だが──命の保証もない」
「知ってる」
「それでも前へ進むか?」
カエサルの声は低く、けれどどこか優しく、風に溶けそうな温度をしていた。
「うん。進むよ」
カエサルは目を細めた。
その視線は、相手の迷いや虚勢やごまかしを全部剥がすような力を持っている。
「ならば──共に歩もう」
その言葉が、夜気に溶けて柔らかく広がった。
『……なぁ、クレオ』
「なに?」
『君の人生、もう後戻りできないな』
「うん。でもいいよ」
『いいのか……』
「いいの」
私は空を見上げた。
ナイルの夜風が頬を撫でる。
星が、砂漠より深い光でこちらを見下ろしている。
「ねえ、バステト」
『なんだ』
「これから先、どうなると思う?」
『多分……とんでもないことになる』
「だよね」
『でもまあ……』
バステトは欠伸をして、前足をそっと丸めた。
『クレオが行くなら、ボクも行くよ』
「ありがとう」
『クレオの勝手さには慣れたしな』
私は笑った。
こうして──
エジプトとローマの物語は、ここから本格的に始まった。
王女と、老練な将軍と、毒舌の猫一匹。
歴史の波の上に、三つの影が揺れている。
退屈から遠く離れた場所へ──
砂漠の彼方へ──
運命の、その中心へ。
物語はここから先、誰にも止められない。
【クレオパトラ追放編 完】




