Ⅳ 王宮の帰還と深夜のラグ
アレクサンドリアに戻ってきたのは、追放されてから八日目のことだった。
八日といえば砂漠では立派な“旅”に数えられるし、王宮にとっては“事件”の継続期間だ。
街はいつもより少しざわついていた。
ローマ軍の隊列が堂々と入り込んでくるのだから、騒がない方が不自然だ。
白い石畳は太陽の光を反射して眩しく、街並みはどこかいつもより背筋を伸ばしているように見えた。
『ほら、みんな君の顔見てる』
「見たらいいよ。綺麗だから」
『自分で言うのか……いやまあ、否定はしないけど』
隣を歩くカエサルは、観光に来た皇帝みたいな顔をしていた。
もちろん彼はそんな呑気な立場ではないのだが、態度がとにかく落ち着いている。
「クレオパトラ。周りの視線を気にするな」
「気にしてないよ」
「ならいい。王女だろうが追放者だろうが、ローマにとって重要なのは “価値” だ」
「価値?」
「そう。お前には価値がある──政治的にも……それ以外にも」
「それ以外って?」
「面倒ごとを呼ぶ体質だ」
「褒めてる?」
「褒めている」
『どこをどう解釈して褒めてるんだ……ローマ式か……?』
王宮の門をくぐると、そこには“弟の影響下にある兵”がずらっと並んでいた。
誰もが硬い顔をしていて、警戒の匂いを辺りにまき散らしている。
その中に、いた。
私の弟──プトレマイオス十三世。
怒ると青くなり、困ると赤くなり、焦ると黄色くなる、ちょっとした七変化の達人だ。
「姉上……!」
弟は私を見るなり、喉の奥に詰まった叫びを飲み込んだような顔をした。
「ただいま」
「ただいまじゃないッッ!!」
すごい剣幕だ。
たぶん“ただいま”と言われたのが癪に触ったのだろう。
弟はカエサルの方へ向き直り、息を切らしながら私を告発し始めた。
「この女は! 王座を奪おうとして! 私を殺そうと──!」
「殺そうとしてないよ」
「黙れ!」
「殺そうと思えば殺すよ?」
「お、お前はッ!!」
『いや今のは言わなくてよかったやつだろ……』
カエサルは弟の悲鳴じみた訴えを片手で制した。
「待て。私は仲裁に来た。共同統治が基本だ。まずはその姿勢を取り戻せ」
「し、しかし!」
「クレオパトラの追放は無効とする。正当な理由がないからだ」
弟の顔が、砂漠で干からびた魚のように青ざめた。
「な、な、な……ッ!!」
「理由って、ぶどう食べすぎたからじゃダメだった?」
「黙れ」
「はい」
『今、“はい”って素直に返事する瞬間あんまり見ないぞ……』
会談は翌日に持ち越された。
カエサルはローマ軍を王宮に配置し、私の身の安全を最優先すると宣言した。
──当然、弟は黙っていなかった……。
……夜。
王宮は妙に静かだった。
昼の騒がしさが嘘のように、月の光だけが床に薄い銀砂を敷き詰めたように降り注いでいる。
風がカーテンを揺らし、その揺れに合わせて壁の影が生き物のようにうごめいた。
扉の隙間から、使用人がそっと顔を出した。
「……クレオパトラ様。弟君があなたを“会談前に排除しろ”と……。逃げたほうが……!」
「ありがとう。大丈夫」
使用人が去ったあと、私は猫を抱き上げた。
「バステト」
『逃げるのか?』
「ううん。隠れるの」
『どこに?』
私は部屋の隅に立てかけられた、厚みのあるラグに視線を向けた。
──はい、あのラグだ。
『……まさか、君……』
「包まるよ」
『やめなよ………………』
バステトの嘆きは、乾いた夜気に吸い込まれた。
王宮の廊下には、男たちの気配と松明の火。
その中を、巨大なラグが丁寧に運ばれていく。
従者がカエサルに告げる。
「閣下。贈り物が届いております。極上の絨毯を……」
「後で見る」
「いえ、すぐにお届けをとのことで……」
その“極上の絨毯”の端が、ぽすん、と微妙に動いた。
もちろん誰も気づかない。
ラグ運搬に集中しているローマ兵の実直さは、ちょっと尊敬に値する。
ラグの中。
私はバステトを横抱きにしながら、呼吸を潜めていた。
『なあ……これ苦しいんだけど……』
「ちょっとだけ我慢して」
『君、楽しんでるだろ……?』
「まあ、冒険だしね」
『そういう問題じゃ……!』
ラグが床に下ろされた。
その一瞬の静寂を合図に、私は叫んだ。
「はぁーーっ!」
そして──
ラグをばさぁっ! と跳ね上げて飛び出した。
月明かりの中、体が軽やかに一回転して、ぴたりとカエサルの目の前に着地した。
「こんばんは!」
ローマ兵:口が開く
側 近:目が丸くなる
カエサル:言葉を失う
バステト:諦めた顔
『君の登場の仕方、毎回“初めて見た驚き”を更新するよな……』
月明かりが絨毯の埃を照らし、床に儚い影を作る。
その中央に立つ私は、息を少しだけ切らしながらも、笑っていた。
カエサルがゆっくりと口を開いた。
「……今まで見たことのない女だ」
「よく言われます」
「……よく言われるのか」
「割と」
バステトが肩から顔を出す。
『ボクはもっと慎ましい生活を送りたかったんだけどな……』
「カエサル。弟が私を殺そうとしてるんだって。助けて」
「知っている」
「知ってるんだ?」
「弟がお前を捕らえるために兵を動かしていた。……だから急いだ」
「へえ。優しいね」
「戦略だ」
「でもちょっと優しいね」
「……否定はしない」
夜風がカーテンを揺らし、静寂を撫でるように流れる。
どこからか水の音が聞こえた。
アレクサンドリアは海も王宮も、夜になると息を潜めてこちらを観察しているように思える。
「クレオパトラ」
「ん?」
「お前は何を望む?」
「エジプトをちゃんと動かしたい。そしてなるべく……弟の顔を見ずに済むなら助かる」
「なるほど」
カエサルは微笑んだ。
皺の奥に、若い頃の情熱がまだ生きているような笑いだった。
「私は和平が欲しい。ローマとエジプトが混乱しない未来が」
「じゃあ同じだね」
「ああ。同じだ」
『おー……主人公二人のシーンみたいになってきたぞ……』
カエサルが手を差し伸べてきた。
「共に動こう、クレオパトラ七世。お前が王座に戻るのを、私が手助けする」
「うん。よろしく」
その手を握った瞬間。
遠くで波の音が小さく立ち上がった気がした。
ただの夜風だったのかもしれない。
でも私は確かに“これから先の物語の匂い”を感じた。
『クレオパトラ』
「ん?」
『君、もう引き返せないぞ。砂漠でぶどう探してた頃には』
「いいよ」
『いいのか?』
「うん」
握手した手が、ほんのわずかに震えた。
恐怖ではなく、期待でもなく──
運命の手触りだった。




