Ⅲ 盗賊の鍋とローマの影
盗賊の野営地というのは、想像より雑で、想像より生活感がある。
砂丘と岩に囲まれた窪地に、テントが数張り。
焚き火がちりちりと音を立て、鍋の中では何かがぐつぐつ煮えている。
……この「何か」が問題だ。
砂漠で煮えるものは、だいたい“美味しさと安全性の境界線”を軽く踏み越えてくる。
香りは悪くないのだが、誰も内容を明言しないのが恐ろしい。
「クレオパトラさんよ。兵が身代金を持って来るまで、ここにいてもらうぜ」
「私のぶどうは?」
「ねえよ。食った」
「食べたんだ……」
『そりゃ盗賊だもの。食った者勝ちだと思うよ』
盗賊の世界の“道理”には、いろんな命が泣いている気がする。
私はがっくりと肩を落とした。
ぶどうを失った喪失感は、王族の威厳より重かった。
その時──
野営地の外から、砂を巻き上げる音が聞こえてきた。
「誰か来る!」
盗賊たちが一斉に身構えた。
砂煙の向こうに、十数人の兵が現れた。
蹄が「ドドドドッ」と乾いた大地を叩く。軍隊独特の、規律ある響きだった。
『……おいクレオ。あれ、ローマ兵だぞ』
「ローマ兵? なんで砂漠に?」
『知らん。けどローマ兵が群れで動いてるってことは、近くに“あの男”がいる』
「誰?」
『ローマのトップオブトップ。カエサルだよ。君でも噂くらい聞いたことあるだろ?』
「ほぇ、名前だけなら……」
『“ほぇ”じゃない! 歴史変えるやつだ!』
ローマ兵は整然と盗賊たちを囲んだ。
盗賊たちは慌て、手近なもの──つまり私──を引っつかんで後ろに下がる。
「動くな! この女は王族だ!」
短刀が首筋に触れる。
冷たさが肌を上滑りしていくが、不思議と怖くはなかった。
『クレオ、あんま落ち着いてると刺されるぞ……』
「あの人たちは刺さないよ」
『なんでそんな自信あるんだ……』
「私が死んだら弟が喜んで、盗賊はローマにもエジプトにも追われる。誰も得しないよ」
『……君の冷静さ、たまに氷砂漠みたいだな』
やがて、ローマ兵の中央から“赤いマント”がゆっくり進み出た。
馬上の影が、砂の向こうでゆっくり形になる。
赤い布は焼けた砂漠の背景で異様に目立ち、その人物だけが世界の中心にいるようだった。男が馬を降りる。動きに無駄がない。
皺だらけの顔は、戦場で何度も陽に焼かれたように濃い影を刻んでいる。
『……あれが、カエサルだ』
バステトの声が、珍しく震えていた。
カエサルは盗賊の叫びも、短刀も、私の境遇も一切意に介さない顔で、ただ私に近づいてきた。
一歩ごとに砂が「ざっ、ざっ」と音を立てる。
盗賊頭領が声を張った。
「く、来るな! ほんとに刺すぞ!?」
「刺すなら刺せ」
カエサルの声は低く、乾いた風と同じ温度をしていた。脅しではない。事実を述べているだけだ。
「王女を危険にさらした罪を、ローマはエジプトに問う。お前たちは真っ先に処刑されるだろうな」
「ッ……!」
短刀がぽとりと落ちた。
砂漠の風だけが律儀に吹き続ける。
盗賊たちはすぐにローマ兵に押さえ込まれた。
『……ひえぇ……ローマ、怖……』
「でも理にかなってたよ」
『君も似たような脅しするくせに……』
カエサルは私の前で立ち止まり、静かに言った。
「名乗れ」
「クレオパトラ七世です」
「なぜ盗賊に囲まれている?」
「ぶどう……食べたくて……」
『そこを省略しすぎるな!』
カエサルは、静かに笑った。
その笑い方は、砂漠に突然湧いた泉のように不意打ちで、
なのにどこか人を選ばない。
「……悪くない」
悪くないのか。
良いのか悪いのか、判断基準がローマ式すぎて私はまだついていけない。
「クレオパトラ。追放されている理由は?」
「弟とケンカして」
「内容は?」
「互いに政治をやりたいという“ケンカ”です」
「弟は愚かか?」
「愚かだね」
「お前は?」
「まあ……そこそこ?」
『自分でそこそこって言い方、逆に信用できん……』
カエサルの口元が、僅かに緩んだ。
カエサルは私の目をじっと見た。
視線の奥に、こちらの心を試すような曇りがあった。
「気に入った」
「へ?」
『判断早すぎるだろ!?』
「私はガイウス・ユリウス・カエサル。ローマの将軍だ」
「ローマの……」
『シーザー! もっとリアクションをだな……!』
カエサルはもう背を向けかけていた。
「お前は、私と共にアレクサンドリアに戻る」
「王宮に?」
「ああ。弟との会談がある。お前が立ち会わねば意味がない」
「へぇ……」
私は思わず口元がゆるんだ。
砂漠の風の中で、赤いマントがひらりとなびいた。
その瞬間、胸の奥で確かに感じた。物語が動き出す音を。
『ねえ、クレオ』
「ん?」
『君の人生、これから本気で変わるぞ』
「うん、多分ね」
私はバステトを抱き、カエサルの背中を追った。
砂漠は今日も容赦がない。
でも、運命はもっと容赦がないのだ。




