夏
キブシ-出会い
夏休みがもうすぐ始まる頃、海の見える田舎町で暮らす僕は、中学二年生。
運動は苦手で、どちらかというと陰キャ系。頭は良くないけど。
クラスには、明るくて運動は苦手だけどいつも元気な小林美波がいる。みんなから尊敬されていている人気者で、僕は彼女を尊敬するクラスメイトの一人として見ていた。好きという気持ちは、まだどこか遠かった。
ミント-美徳
ある日、補習をサボって電車に乗っていた僕は、隣に座った美波に突然声をかけられた。「こんなところでなにしてるの?」
僕は正直に答えた。
「補習、サボったんだ」
彼女の綺麗な顔に笑顔が宿った。
「私も今日は休み。どこか行こうよ!」と言った。
向日葵-あなたを見つめる
駅を降りて、二人はゆっくりと歩き出した。潮の匂いが風に乗って鼻をくすぐり、遠くからは波の静かな音が聞こえてくる。夏の光が強く照りつけるけれど、海風がほんの少しだけ暑さを和らげてくれた。
彼女はまっすぐ堤防へと向かい、その軽やかな足取りはまるで海の上を歩いているようだった。後ろ姿には力強さもあったけれど、どこかふわりと浮いたような無気力さがあった。僕は言葉を飲み込み、ただ彼女の背中を見つめる。周りの雑音が遠のき、目の前の景色だけが鮮やかに広がっていく。
堤防の先端に立つ美波は、大きく深呼吸をしてから、振り返って僕を見た。
「来てよかった」そう言う彼女の瞳には、海の青さに負けないくらい輝いていた。
アイリス-純粋
しばらく沈黙のまま、二人は海を眺めていた。突然、彼女がはしゃぎながら歩き出した。「もっとさきまで来てよ!こっちの景色も見て!」彼女の声は風に乗って軽やかに響いた。僕は慌ててその後ろを追いかける。けれど堤防は狭く、足場も滑りやすい。
ふと気づくと、足がもつれてバランスを崩し、体が大きく揺れた。「うわっ!」思わず声が漏れ、次の瞬間、冷たい海に落ちていた。
カスミソウ-清らかな心
海から必死に這い上がると、彼女の驚いた声が耳に入った。「大丈夫?びっくりしたよ!」僕はずぶ濡れのまま息を整え、苦笑いしながら答えた「うん、なんとか」その時、ふと彼女の表情が変わった。普段は陽気な彼女が、小さく俯いて、声を震わせる。「ごめん…私のせいでこんなことになって」その言葉は、まるで自分の胸に刺すかのように重かった。
僕は少し戸惑いながらも、そっと彼女の肩に手を置いた。「気にしなくて良いよ」周りの景色が少しずつ夕暮れに染まっていく中、僕らの間に流れる空気は、いつもと違う温度を持っていた。
クレマチス-精神の美
辺りはすっかり暗くなり、港のあたりもひっそりと静まり返っていた。
駅の掲示板には、「本日最終」の文字がぶら下がっていて、帰る手段は、もうなかった。
「今日は…ここに泊まるしかないかも」彼女が指差したのは、海沿いにぽつんと佇む古い旅館だった。
看板の灯りは消えかけ、入り口の引き戸は少し歪んでいて、誰も客がいないような気配だった。
女将さんらしき人が出てきて「一部屋だけ空いてますけど…」と言ったとき、彼女は一瞬こちらを見た。
目が合った。お互い、何かを確認するように。
「じゃあ、それでお願いします」彼女がそう告げると、僕も黙って頷いた。
部屋は八畳ほどの畳敷きで、古い柱時計がカチカチと音を刻んでいた。海が見える窓が一つ。障子の向こうに波の気配がある。
布団が二組。けれど、ギリギリ二人分敷ける程度で、距離は近かった。
僕は無言で濡れた服を干し、彼女も黙って浴衣に着替えていた。
「…変な感じだね」不意に彼女が笑うように言った。
「うん、まぁ…そうだね」僕は視線を落としたまま答えた。どうして目を合わせられなかったのか、自分でも分からなかった。
一日の疲れと濡れた体の冷えのせいか、頭がぼんやりしていた。けれど、彼女がすぐ隣にいる、という事実だけが、異様にはっきりと胸の奥に居座っていた。「ねぇ、今日…楽しかった?」不意に投げられた言葉に、僕は少しだけ顔を上げた。
「うん。…怖かったけど、それも含めて、なんか、すごく」
「うん、私も。なんかさ、いつもと全然違う日だった」彼女は枕に顔を埋めて、声を小さくした。
「…一緒にいれて、良かった」
何かを打ち明けるような口調だった。僕はなにも言えなかった。言葉にしたら、壊れてしまいそうで。
その夜、波の音がずっと聞こえてた。眠りは浅くて、でも、どこか心地よかった。布団の中から、微かに聞こえる彼女の寝息が、遠くの灯台も光のように、静かに僕の夜を照らしていた。
アネモネ-儚い恋
翌朝、蝉の声がまだ目覚めていない町に響いていた。旅館の薄い障子越しに、白く滲んだ光が差し込む。
僕は布団の中で目を開け、天井の木目をぼんやりと見つめていた。
隣の布団には、彼女が小さく丸まって眠っていた。昨日の夜、ぎこちないまま眠りについた距離は、今もそのままだった。それなのに、心の中は昨日よりずっと近くにいるような、でもなぜか遠くなってしまったような、不思議な感覚が渦巻いていた。
「おはよ」
彼女が声をかけたのは、そこから少し経ってからだった
「あ、おはよう」
何気ない挨拶なのに、口に出すと変に意識してしまい、僕の声は少し裏返った。彼女は寝癖を手で直しながら、軽く笑ったけど、昨日よりずっと静かな表情だった。
帰りの電車に揺られながらも、会話は少なかった。思い返せば、あんなに一緒に過ごしたのに、まだ僕たちはお互いのことをなにも知らないままだった。
駅に着く直前、彼女がぽつりと呟いた。
「ねぇ…実はさ、来週、引っ越すんだ」
その言葉は、不意に石を落とされたようだった。電車の音が急に遠ざかって、鼓膜の奥で「引っ越す」という響きだけが残った。
「え?」
聞き返すしかできなかった僕に、彼女は少しだけ眉を下げて、小さな笑顔をつくった。「急に決まってさ。お父さんの仕事の都合。もう荷物もまとめ始めてるの」
車窓の向こうに流れる景色は、まるで別の世界みたいだった。昨日までのあの時間が、幻だったような感覚に、思わず呼吸が浅くなる。
「なんで…言わなかったの?」
口にした自分の声が、自分じゃないみたいに掠れていた。
「言ったら、昨日みたいなことできなかったと思うから」
彼女の言葉は、優しさだったのかずるさだったのか。でも、僕は責める気になれなかった。ただ、胸の奥に、言葉にならない何かが静かに沈んでいった。駅のホームに降りたとき、彼女は僕の方を見た。そしていつもの明るい声で、まるで何事もなかったかのように言った。
「じゃあ、またね」
“また”はあるのだろうか。僕はそれを聞き返すことができずに、ただ頷いた。
ムスカリ-夢にかける思い
翌朝、気まずさを感じながらも、家に帰った。また何気ない補習が始まり、ペンを走らせる音だけが周りに響く。帰り道、彼女と同じ電車に乗ったのが嘘かのように心に虚しさを覚え、電車に乗った。
エアコンの効いた部屋でゆっくりしていると、母親からポストから郵便物を取るように言われた。日差しが照らす中、ポストに入った手紙に気づいた。手紙が来るなんて珍しいと思いながら、目を落とすと、見慣れた文字だった。鼓動が早まる。指先が震えて、開けるのを躊躇った。引越ししたはずの彼女が、本当に僕に手紙を出したのだろうか?偽物じゃないのか。何かのいたずらじゃないか。封筒の中には、夏祭りのチラシと「浴衣で来てね」と書かれた紙が一枚入ってた。その紙を見た瞬間、僕は浴衣を準備して走り出した、誰が書いたとか、何かのいたずらとか、全部どうでもよかった。ただもう一度会うことができるなら、
スズラン-再び幸せが訪れる
夏祭りの夜、神社は提灯の光と人の熱気に包まれていた。浴衣に身を包み、人混みの中で美波を探したけど、見つからない。花火の音が大きく響き、誰かに声をかけようとしても、届かなかった。
その時だった。
人混みの向こう、屋台の隙間、まるで一輪だけ違う色の花のように、彼女が立っていた。白い浴衣、少しだけ背を丸めて、僕を探しているように、けれど不安そうに目を泳がせていた。
—見つけた
その瞬間、胸が張り裂けるように熱くなった。気づけば、僕は大声で彼女の名前を呼んでいた。柄にもない。それでも彼女は振り返らない。大きな花火が上がる中、人の肩と肩を縫うように走り続け、目の前にたどり着いた。
その袖に、そっと手を伸ばす。
ふれる
その瞬間、彼女身体がっピクリと震え、僕の方へゆっくり振り返る。その瞳には、微かに光るものば滲んでいた。ほんの少し赤くなった目元。唇を微かに震わせて、言葉が出るより先に、彼女が僕の手を握りしめた。
「…会いたかった」
僕が言葉を届けようとした、その瞬間。空に大きな花火が弾けた。
光が僕らの顔を照らす。でもその音に僕の声はかき消された。彼女に届いたかどうかは、分からない。
でも、彼女は微笑んでいた。
手は、確かに、つながっていた。
スイートピー-門出
「待って…ここ”浴衣で来てね”って書いてあるよ?」
「手紙?なんか古くない?」
居間の奥、小さな押し入れを開けたまま、子供たちは夢中になっていた。埃っぽい箱の中には丁寧に綴られたノートが何冊も入っていてその一番上に置かれていた一通の封筒を上の子が開いたのだ。
日記には、手紙のこと、夏祭りのこと、それよりもっと前の堤防での出来事、そして旅館での夜。
「ねぇ…これって、お父さんとお母さんの昔の話?」
「…多分ね。すっごい、ドラマみたい」
静かにページを閉じたその時
「ちょっと、あなたたち!それ、どこで見つけてきたの?」
美波が廊下から慌てて顔を出した。
「パパー!これみて良いやつ!?なんかすっごい甘酸っぱいやつだけど!」そう言い子供たちはまた、ノートを開こうとした。
「だめ!今度は家族全員で読もうね」
美波がふわりと笑って言ったその顔に、あの日、花火の中で見せた、少し涙ぐんだ表情が重なって見えた。
end
今回が初書き、初投稿になります。温かい目で見てくれると嬉しいです。