あるべきはずのもの①
矢追の話が続く。「辻花殺害で、弓月は返り血を浴びていた可能性がある。一旦、アパートに戻ったのかもしれない。そして、準備を整えてから蛭間を尋ねた。自分が殺されようとしているとは夢にも思わない蛭間は、何時も通り弓月を部屋に迎え入れた。そして、隙を見て弓月は蛭間を殺した。絞め殺した」
「でも、自殺と絞殺では首に残る痕が違うんじゃなかったでしたっけ?推理小説でそんなの、読んだことがあります」
「まあな。これは俺の考えだがな」と言って、矢追が説明したのは、被害者の首にロープを巻きつけ、足で首四の字固めをしながら絞殺する方法だ。
「こうすれば、首筋に吉川線と呼ばれるためらい傷が残らない。ああ、吉川線と言うのは――」と矢追が吉川線の説明をした。
吉川線とは被害者の首に見られるひっかき傷のことだ。苦し紛れに首を掻きむしることにより生じる。被害者の抵抗によって生じた防御創だと考えられており、これが見られた場合、他殺の疑いが強くなる。
「このやり方なら覚悟の自殺に見えるだろう。狭い蛭間のアパートでは天井から首を吊ることが出来なかった。そこで弓月は玄関のノブを利用し、座った形での縊死を偽装することにしたのだ。ロープは恐らく、弓月が準備したものだろう」
「自殺に見せかけた殺し方は分かったのですが、弓月は一体、どうやって密室を作り出したのでしょうか?」
「密室を作り出す為に、弓月は第一発見者にならなければならなかった。そう考えると真相が見えて来る。玄関から出たのか?ドアに鍵は掛かっていなかったが、蛭間の遺体が塞いでいた。一度、外に出て遺体でドアを塞ぐことなど無理だ。廊下でそんな細工なんて出来ないしな。となると、どうなる?」
「確か、蛭間さんの部屋はアパートの一階でしたね。床下から外に出ることは出来なかったのですか?」
「ダメだ。部屋はフローリングになっていた。それに、床板を剥がして床下に潜り込めても、外に出られない構造になっていた」
「排気口とか、無かったのですか?」
「あったが人が通れる大きさじゃなかった」
「じゃあ、窓から外に出るしかありませんね?だけど、窓には鍵が掛かっていたんじゃなかったでしたっけ?」
「そうだ。しかも鍵に弓月の指紋はついていなかった」
「う~ん。わかりませんねえ・・・」
「ふふ。俺もそうだった。刑事としての感が、弓月が犯人だと言っていた。だが、密室のお陰でやつの犯行が立証できなかった。だがな。当時の捜査資料を見返していて、大事なことに気が付いた。当然、あるべきはずのものが無いってことにな。ああ、分かっている。もう焦らすのは止めるよ」と矢追は手で制しながら言った。「ドアノブだよ。ドアノブに指紋が残っていなかったんだ。弓月のな」
一瞬、矢追が言ったことが理解できなかった。ドアノブに弓月の指紋がなかったことが、何でそんなに大事なんだ?だが、「蛭間の遺体を発見したのは弓月だった」と矢追に言われて、その重要性に気が付いた。
ドアノブを回し、遺体が廊下に転がり出て来る――モサイク処理されていたが、その光景をテレビで何度も見た。弓月が世間に転がり出た瞬間でもあった。その時、ドアノブを回したのは弓月だった。
「分かったか。あの日、ドアを開けて遺体を発見したのが弓月だった。その模様はテレビ・カメラに収められていた。間違いない。だが、弓月が握ったはずのドアノブに指紋が残っていなかったのだ」
「ど、どういうことでしょうか?」
「やつが手袋をしていなかったことは確かだ。遺体発見時の映像が残っているからな。となると指先の指紋を消していたことになる。指先に透明なシートを貼っていたのか、或いはニスでも塗っていたのか」
「切り傷に塗る液状の絆創膏があります。それを使って、部分的に指紋を消したんじゃないでしょうか」
「恐らくそういったものを使ったんだろうな。やつは指紋を消しておいてから、蛭間のアパートを訪れた。密室を完成させる為に、第一発見者に成りすまし、部屋に一番乗りしなければならなかったのだ。第一発見者として部屋に入り、窓の鍵を掛けた」
分かってみると簡単なものだ。
「なるほど、なるほど」と言葉が漏れてしまった。
ふと井上家で、いや辻花邸で弓月が言ったことを思い出した。密室の話になった時、弓月は得意そうに言った。密室を作り上げるには、高い知性が必要なのだと。弓月のことだ。どうだ!俺の作り上げた密室を見ろ!と声を大にして言いたかったに違いない。自慢したかったはずだ。だが、それを言うことは自分が犯人であると告白することに等しい。もどかしかっただろう。
「これが蛭間の事件の真相だと思っている。弓月の実家から白骨遺体が出たんだ。当然、過去の事件、辻花良悦と蛭間昭雄の事件も注目を浴びることになるだろう。再捜査となる可能性が高い。あんたが白骨遺体を見つけてくれたお陰だ」
話が終わると、矢追は「さあ、忙しくなりそうだ」と言ってカップに残ったコーヒーを一息で飲み干してから、「勘定は済ませておく。俺のおごりだ」と席を立った。
「あっ!矢追さん」と立ち上がった時には、矢追の姿は無かった。




