達谷の悪路王③
ずきずきと頭が痛んだ。
痛む頭を抱えながら体を起こすと、ベッドの上に寝ていた。自宅のベッドではない。見覚えのないベッドだ。昨日のことが思い出せない。何故、こんなベッドで寝ているのだろうか?
半身を起こす。辺りを見回した。
ああ~ホテルにいるんだと分かった。途端に、洪水のように記憶が押し寄せて来た。
昨日、弓月と共に大阪にやって来た。井上邸での殺人事件の調査の為だ。探偵事務所とは言え、殺人事件の調査依頼など、滅多にあるものではない。必然、弓月は張り切っていた。
井上邸で関係者から話を聞き、現場となった書斎を見せてもらった。そして、夜は宴会となった。
そうだ。のっぺりとした顔の男の話になって、そこに変なメモが届いたのだった。確か、悪路王のなんとかいう詩だった。
そこまで思い出してから、何故、俺はホテルのベッドの上にいるんだ?と不思議に思った。そこから記憶が無くなっている。昨日は妙に疲れていた。井上家で寝てしまったのだろうか?そうすると、誰かが寝ている自分をホテルまで運んで来てくれたことになる。
俺みたいなものをホテルまで運んで来るのは大変だっただろう。全く、みっともない。立派なガタイをして酔いつぶれてしまったようだ。ホテルに担ぎ込まれる自分を想像して恥ずかしくなった。そもそも酔い潰れてしまっては用心棒として失格だ。
弓月の激怒している顔が目に浮かぶ。
ふらつく頭で立ち上がった。
顔を洗ってすっきりする。ひとつ深呼吸をしてから、弓月の部屋に電話を掛けた。昨日、チェックインした時に、部屋番号を控えておいた。隣の六百二十五号室だ。内線電話を使う。だが、応答がなかった。
まだ寝ているのか?迷ったが、携帯電話に電話をしてみた。井上邸で酔って運び込まれたとすると、怒っているに決まっている。だが、電源が入っていないのか、電波の届かないところにいるようだと自動応答があった。
どういうことだ?不安になった。
昔、居間で携帯電話を充電して、寝室で寝ている間に弓月から電話があり、電話に気がつかなかったことがあった。後で弓月から「携帯電話は寝る時も傍に置いて、肌身離さないようにしろ!」と怒られた。二十四時間、何があるか分からない。常に臨戦態勢を忘れるなというのが、弓月のポリシーだ。
変だ。手早く着替えをすませて、フロントに降りて行った。
「六百二十五号室の弓月さんはお出かけですか?」と尋ねると、小柄で八重歯が覗く受付の女性が「六百二十五号室ですか・・・・六百二十五号室は空き部屋になっています。どなたも宿泊なさっていません」と怪訝な表情で答えた。
えっ⁉チェックアウトしたのか?焦った。
「あの、僕と一緒にチェックインした弓月知泉ですが、もうチェックアウトしてしまったのでしょうか?」と重ねて尋ねると、女性はカタカタとパソコンを操作して、「ユヅキチセン様という方は現在、当ホテルに宿泊しておりません」と答えた。
ああ、そうか。思い出した。弓月知泉は芸名だ。本名は斎藤和幸という平凡な名前だった。チェックインの際に、本名を使ったのだろう。
「すいません。斎藤和幸ではどうですか?昨日、僕と一緒にこちらにチェックインしているのです。僕は六百二十四号室に泊まっている藤川です。まだ暫く、こちらに滞在する予定だったのですけど」と食い下がった。
受付の女性は「藤川様のお名前はございますが、ユヅキ様やサイトウカズユキ様のお名前はございません」と冷たく言った。
――そんな馬鹿な!
容易ならざる事態を迎えていることが分かった。
俺に黙って、弓月は姿を消してしまった。何か、気に入らないことがあって、俺を置いてホテルを出て行ってしまった。心当たりは・・・・ある。酔って寝てしまったことだ。それに腹を立てたに違いない。どうする?
だが、腹を立ててホテルを出て行ったとしても、携帯電話が繋がらないのはおかしい。東京の弓月探偵事務所に連絡を取ってみた。何かメッセージがあるかもしれない。出張中は俺が秘書代わりだが、事務所にちゃんと秘書がいる。弓月の秘書をやっている阿部実来を呼び出した。
弓月と連絡が取れなくなったことを伝えると、「どうしちゃったんでしょうね~弓月さん」と間延びした答えが返って来た。
彼女なりに心配しているのだろうが、のんびりした子だ。
まあ、でも、彼女の声を聞いただけで、少し落ち着けた。
「連絡が取れないので心配しているんだ。ホテルにいないみたいだし。ほら、調査依頼のあった井上さんのお宅、結構な豪邸だったので、ホテルをキャンセルして、あちらに泊まったのかもしれない。阿部ちゃん。井上さんの連絡先、教えてくれない?」
「井上さんですかあ~」阿部は連絡先を知らないと言う。
「調査依頼書を見てくれない?依頼の際に連絡先を記入してもらうことになっている。そこに書いてあるはずだよ」
「ああ~そうですね~そうでした。ちょっと待って下さい」
調べてから電話をかけなおしてくれと思うほど待たされてから、「ありました。井上晃さんですね。住所は大阪市平野区平野仲町――」と住所と電話番号を教えてくれた。
「ありがとう」と電話を切り、教えられた電話番号に電話を掛けてみると、「はい。吉田です」と女性の声で応答があった。「井上さんのお宅ではありませんか?」と尋ねると、「いいえ。吉田です」と答える。弓月のことを尋ねてみたが、まるで知らない様子だ。
「すいません。間違えました」
どうやらデタラメな電話番号を教えられたようだ。
もう一度、阿部と連絡を取る。「どうやって井上さんと連絡を取り合っていたの?俺たちのホテルの予約とか井上さんがやってくれたはずだ。その連絡はどうしたの?」と問い詰めると、「はい。メールを頂きました」と答えた。早く言ってくれよ。
どうせフリーのメールだろう。メールだと、居場所までは分からない。こうなれば、足を棒にしてでも井上家を見つけ出すしかない。
「あの人のことだ。事件が解決したら、ひょっこり戻って来るかもしれない。事務所に戻ったら、連絡してください」と阿部に頼んで電話を切った。
ホテルの前でタクシーを捕まえた。「平野区の平野仲町――番地までお願いします」と告げると、「平野仲町? 平野に仲町なんて無いよ。本町じゃないの?」と藪睨みの運転手に怪訝な顔をされた。
「じゃあ、本町の同じ番地までお願いします」
近くまで行けば、何か分かるかもしれない。後は記憶を頼りに歩き回るしかない。
タクシーに連れて行ったもらった場所は見も知らぬ場所だった。井上家は大阪市内とは思えない、ゆったりとした敷地を持つ日本家屋だった。数寄屋門を構え、庭に庭園まであった。屋敷は建て増しを繰り返したようで、長い縁側で繋がっていた。
目の前にあったのは、何処にでもありそうな普通の平屋の一戸建てだった。年季を感じさせる木造の家屋だ。背の低い壁越しに猫の額ほどの庭が見えた。そこで、小柄な老人が雑草をむしっていた。
「違う。ここじゃない・・・・」
電話番号がデタラメだったのなら、住所もデタラメだった。まあ、そうだろう。昨日、井上家に連れて行かれた時、ホテルから車で案内されたが、何処をどう走ったのかなど覚えていない。土地勘のない場所だ。井上家を見つけ出すのは骨が折れそうだ。
「あんた。うちに用かい?」
自宅の前で茫然と立ち尽くす俺を不審に思ったのだろう。庭で草むしりをしていた老人が声を掛けて来た。
遠目に、小柄な老人に見えたが、意外に若い。まだ六十代だろう。ポロシャツにズボンというラフな格好だ。足腰が頑強なようで、足取りが軽い。日焼けした黒い顔に卵型の綺麗なごま塩頭が乗っている。小さな目に大きな口、老人の顔を見ていると、ふと昔、テレビ・ドラマで見た水戸黄門を思い出した。
「ああ、すいません」と謝ってから、平野仲町の住所を伝え、そこを探していると伝えた。
「番地は合うとるが、平野に仲町なんて無いで。本町じゃ無ければ上町かいな?で、どんなお宅なんや?」と老人が尋ねた。
地元の人間だ。何か分かるかもしれない。藁にも縋る思いだった。「井上さんというお宅で――」と屋敷の様子を説明した。
「ふふん。若いの、事情がありそうやな。良ければ話してみぃや。わいに出来ることやったら、力になってやるよ」老人が笑った。