5:変化
どのくらいの時間がたったのだろう。もう時間という概念すら無くなったかのような感覚になる。
虚な目で空を見つめ、溢れる涙を拭うことすら出来ない。人というものはなんと無力なんだろう。
何もできずただ時間だけが過ぎる中、ふと床を踏み鳴らす音が聞こえた。
焦点の定まらない瞳でそちらをみた。
誰かがいる。それだけは分かった。涙でぼやけた視界ではそれが誰なのかすらわからなかった。
ゆっくりと音と立ててその人はわたしに近づいてくる。
こんな状況で人がくるなんて、本来は身の危険を感じるべきなのだろう。
ただ、わたしにはそれができなかった。する余裕なんてどこにもなかった。
その人はわたしの目の前まできて、状況を把握するかのようにあたりを見渡した。
「聞こえるか?」
ひどく落ち着いた低い声が響いた。
どこかで聞いたことがある。そんな気がするけれど今のわたしにはそれを考えるほどの余裕はどこにもなかった。
わたしの目線に合わせるかのようにしゃがんだその人はわたしの顔にそっと触れた。
大きくごつごつとしたその手はひどく優しい手つきでわたしの頬に触れる。
まるで感触を確かめるかのように頬を撫ぜたあとわたしの瞳から絶えず溢れる涙をそっと拭った。
なにも言わずにただされるがままのわたしを見てその人はこう言った。
「行こう。こんなところにいちゃあんたおかしくなっちまうぞ」
少し乱暴に腕を引かれた。抵抗することもなく引き寄せられたため気がついた時にはその人の胸の中にいた。
その時になってようやくわたしはこの人がだれか気がついた。
この人は昼間の花畑にいた男の人だ。
特徴的な耳はフードの中に隠されてはいるが、この暗い瞳をわたしは覚えている。
少し強引にわたしをその場から離そうとするその人にされるがままだったが、はっと我にかえり抵抗した。
「誰がこんなことしたの?どうして?ひどいよ」
言葉と共に再び溢れた涙は枯れる事をしらないのだろう。涙を拭う気にもなれずそのまま言葉を続ける。
「おばあちゃんは優しくていつも笑顔で悪いことなんてしてないのに。どうしてこんな酷い事をされなきゃいけないの?おばあちゃんともう会えないの?話をすることもできないの?」
矢継ぎ早に言葉を続ける。言わずにはいられなかった。理解ができなかった。当たり前の日常が崩壊している現実を受け止める事がわたしにはできなかった。
「俺に聞くな。俺はあんたのばあさんのこともあんたの事もよく知らねぇ。」
「じゃあどうしてあなたはここにいるの?」
冷たい言葉だと思った。
先ほどの優しい手つきとは裏腹に鋭く放たれた言葉。それは紛れもない事実である。けどそれならどうしてこの人はこんなところにいるのか。何故わたしをこの場所から引き離そうとするのか。わたしにはまるで理解ができなかった。
「・・・血の匂いがしたから来てみた。そしたらお前がいた。それだけだよ。」
しばしの沈黙のあとそう答えが返ってきた。
本当にそれだけなのだろうか。やや腑に落ちないと感じたけど、そもそもこの人がここにいる理由も来る理由もない。だから本当にこの人はたまたまここに来たんだろう。
「ここに座り込んでても意味ねぇだろ。家まで送ってやるよ。」
そう言われてすぐに母の事を思い出した。
そうだ、お母さんに言わなきゃ。それにこんな事をした犯人がまだ近くを彷徨いているかもしれない。お母さんまで危険な目に遭っていたらわたしは、もう耐えられない。
そう思った瞬間わたしは扉へ駆け出そうとした。けどそれは上手くは行かなかった。焦りからなのか恐怖からなのか、わたしの足はもつれ転びそうになる。
「っぶねぇな」
「・・・あ、りがとうございます」
転びそうになったわたしを抱き留めてくれた。
恥ずかしくなったわたしは思わず俯いて小さくお礼を言う。
「んな状態でちゃんと帰れねぇだろ?」
ほれ。といって差し出された手を戸惑いながらも取る。言葉は荒く冷たいけどこの人の行動はどこか優しくて、心の不安が少し取り除かれるようだった。
経験したことのない不思議な感覚を抱きながらわたしは家路につく。母の無事を祈りながら。