4:事件
今日はいつもと違う事が起こる日だ。
おばあちゃんのお見舞いも人との出会いも、初めての事が今日だけでどれだけあっただろうか。
そんな事を考えながら歩き続ける。目の前に見えた岩。ここを左に曲がればもうすぐおばあちゃんの家だ。
慣れたはずのいつもの道に今日は随分と時間をかけてしまった。おばあちゃんは寝てるかな?悪化してないと良いけど。そう思いながらおばあちゃんの家をノックした。
いつもは元気に聞こえるおばあちゃんの声が今日は聞こえなかった。
「やっぱり遅くなったから寝ちゃったのかな?」
そう少し不安になりながらもう一度扉を叩く。相変わらず返事はない。どうしたものか。そう思いながらドアノブに手をかけた。するとわたしを招くかのようにガチャっと小さな音を立てて扉が開いた。
いつもは扉の鍵を閉めているおばあちゃんが今日は閉めていなかった。
もしかしたらおばあちゃんは母からわたしがお見舞いに来ると言うのを聞いていたのかもしれない。
体調が悪く戸を開けにいくのも大変だから、先に開けておいたのかな。
普段のおばあちゃんは少し用心深くて鍵は必ず閉めているけどそんな日もたまにはあるのかもしれない。
そう自分の中で考えながら見慣れた扉を開いた。
最初に感じたのは、独特な鉄の匂いだった。
嫌にしんとした静寂。まるでこの空間でわたしひとりかのような感覚。
遠くで警鐘が鳴っているかのような音が響く。外からの音じゃないことはわかっている。自分の頭が、本能が告げている。それを見てはいけない。と。
警鐘は次第に大きくなりガンガンとうるさく響く。まるで早くここから立ち去れと言わんばかりに。
ゆっくりとその匂いの方へ足を運ぶ。それはいつもと変わらないおばあちゃんが愛用しているベッドだ。ひと一人分の膨らみがそこにはある。確かにあるのに・・・
どくどくと脈が早くなるのを感じる。頭がもう破裂しそうなくらい痛い。目の前の現実を拒絶するかのような、そんな痛みのような気がした。
どうしてだろう。いつものおばあちゃんのベッドが血に塗れているのは。
どうしてだろう。頭まですっぽりと布団が被さっているのは。まるでなにかを隠すかのように不自然なほど綺麗に収まっている。
震える手をゆっくりと伸ばした。
わたしの中にある嫌な想像を消したくて、ただの妄想でしかないと信じたい一心で、布団をめくる。
「・・・っぁ・・おばぁ・・・ちゃん」
ひとというものは本当の恐怖に支配されたとき、声も出ないのだと言う事を初めて知った。
辛うじて紡いだその音が果たして言葉として成立しているのか。わたしには理解できなかった。
ベッドに寝ているのは確かにおばあちゃんだった。
真っ赤に染まった服、滴り落ちる血、獣に引っ掻かれたかのような酷い傷跡。
鉄の匂いの正体は滴り落ちる血の匂いだと気づいた時には、わたしは腰が砕け地面にへばりついていた。
どうして、どうして、どうして?
どうしてこんなことになっているのだろう。何故こんな酷いことを・・・
様々な事が頭をぐるぐると駆け巡る。おばあちゃんの優しい笑顔、一緒に過ごした日々、目を覆いたくなる現在の姿
わたしの口からでるのはまるで幼子のような音だけ。まるで話し方を忘れてしまったかのようだ。
浅い呼吸を繰り返して辛うじて座っているのがやっとだった。
ぴちゃん
そうクリアな音が聞こえた気がした。
音の方をそっと見ると大好きなおばあちゃんの血が重力に従い落ちていく。
呆然のそれを眺めているとまるでこの現実から逃げられないと世界から言われているような気がした。
朝と夜を繰り返すかのように。水が地面に落ち水面をつくるように。動物を狩り生きるために捕食する食物連鎖のように。重力に逆らえず地面を歩くかのように。
今あるこの現実から決して逃してはくれない。
目を逸らす事すら許されないような気がして
どうしようもない吐き気を催した。
我慢する事も出来ず汚い音と共に吐き出した。
涙でぐちゃぐちゃになった顔をあげることすら出来ず。わたしはなにも出来ずにいた。