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アレクサンダーの夢

アレクサンダー視点です

 結論から言えば、これは夢だ。


 俺は芋虫の姿になっていた。

 極彩色の世界で、多数ある足先の神経に怯え、けれどもそれを使役して移動することしかできずに、森の地面を這いずり回っていた。


 時折、鳥が現れて啄まれそうになるが、体に宿る魔力のせいか何なのか、一定の距離に近づくと必ず顔を背けて飛び立った。鳥だけでない、他の虫や小動物もそうだった。


 それらの生き物と、意志を疎通することはできなかった。

 できたところで何だという話だが、俺以外の思念体が存在しない世界で、何重にもぼやける低い視界で、目的地の方向も掴めずひたすら這いずるのは地獄に他ならなかった。


 夢なら早く覚めてくれ、と何度願ったことだろう。

 今見ている光景は夢だが、かつての絶望は、ありありと思い出せる。


 毎日毎日、発狂しそうになるのを必死で堪えていた。

 こんな姿にした奴らに復讐してやる、それまで死ぬものかという思念に縋り、それだけを頼りに生き続けていた。


 本当に、よく人としての自我を失わなかったものだと感心したくなる。

 尤も、実際に人間らしさを失っていなかったのかと問われれば肯定はできないのだが…。





 誰かを恨まずにはいられなかった。

 裏を返せば、誰かに責任を押し付けていないと絶望に押し潰されそうになった。

 何が悪かったのか、どうしてこんな目に遭うのか。

 父の期待に応えられるような子供でなかったからか、母の願いを叶える能を持っていなかったからか、弟に敵意ばかり抱いて歩み寄らなかったからか、婚約者に関心を寄せず罵倒していたからか、周囲の人間を見下し切り捨てていたからか。

 弟が指摘したように、無能だからか。馬鹿だからか。厄介者だからか。迷惑をかけるからか。価値がないからか。

 誰にも望まれていないからか。

 膨大な時間の中で原因は次々に浮かんできて、それならばこの状況は正当なものであるのかと吐き気がして、現実から目を逸らすことでしか息をしていられなかった。


 ただただ、復讐という夢に縋って一年を過ごしていた。

 思い出したくもない、一年だ。









 その体には、手がない。足もないようだが、爪先の神経のようなものは多数存在している。

 レオンハルトは、聖人についてあれこれ説明する中で、本来の魂は蝶に変貌すると言っていた。ならばこれは蝶の体だというのか。

 否。

 蝶なら飛べるはずだ。だが何度やってもろくに移動できない。

 たくさん生えた短い足先をずりずりと動かし地面を這うようにしてしか、進めない。


 目の位置もおかしい。左目と右目が全く別の方向を向いている。というか視覚が何重にもブレている。

 気持ちが悪いのに、目を閉ざせない。

 まぶたがない。

 声を上げようにも、喉が響かない。

 何が起きているのか、全く分からない。


 自分の姿を視認もできず、声も出せず、不気味な色彩の世界で芋虫のように這いずり回るしかない。


 地獄に違いなかった。





 幸いなことに腹は空かなかった。

 多量の水を取らずとも生命活動を維持できている辺り、化け物じみている。

 あるいは、本当に化け物になったのか。

 物理的な餌を食わず、魔力だけで生命力を保っている種類の魔物も、世界に存在するという。

 もしくは…単純に、死んでいるのか。

 今の俺は霊体で、得体の知れない体の感覚も、ただの勘違いか。

 否。

 それなら、こんなに寒いはずがない。


 寒くて寒くてたまらない。

 体を手でさすろうにも手がないから、摩擦もできない。

 不自由な肉体を少しずつ移動させ、木のうろに身をひそめる。冷風が遮られて多少はマシになった気がする。

 しかし、この穴の大きさから比較するに…今の俺の体は、明らかに小さい。

 まるで本当に芋虫になったかのような大きさだ。


 …蝶の幼虫…。

 よぎった恐ろしい考えを必死で振り払う。

 そんなことがあるはずがない。


 目が覚めたら、きっと元に戻っているはずだ。

 悪い夢だ。全て。





 何日経ったのだろう。

 相変わらず、何もしなくても死なない。瞼がないから目を閉じて視界を遮断することもできない。

 身を丸めて悪夢が過ぎるのを待っていても、どうにもならない。


 音もなく森の中を這いずり回る。

 他の生物とは滅多に邂逅しなかった。

 いないのではなく、そいつらの方が俺を避けているのだろう。その証拠に、たまに馬鹿な羽虫が寄ってきてはびくりと固まり、逃げるように飛び去っていった。


 羽がついているとは、なんとも羨ましい話だ。俺が一日かけて移動する距離を、奴らは一瞬で飛び越えていくのだから。


 辛苦だろうと移動は須要だ。

 何処へ向かうかは決まっている。

 王都には、魔術師がいた。人の理を超えた力を操る者だ。そいつなら、きっと、今の俺もどうにかしてくれるだろう。

 どれだけ時間がかかるか分からないが、行ってみないことには始まらない。


 ずりずり、ずりずり。同じ作業を繰り返す。変化のない森の中で、気を紛らわせるものもなくただ遅々と進み続ける。


 何時間も、

 何日も、

 何週間もかけて。

 永遠と反復して。


 森の出口までたどり着いた。

 食事を必要としないとはいえ、疲労は溜まった。逆に言えば、疲労の回復方法として食事が選択できず、眠るしかないから、余計に時間を食った。

 だが、到着した。

 もうどれほど時間が経ったか計り知れないが、俺はついに木のない風景を目にした。


 歓声も涙も出ることはないが、達成感という感情に打ち震えて俺は森の境界の外へ一歩を這いずり出した。


 途端に、燃えるように体が熱くなった。


 ぎょっとして上体を反らし、痛みにのたうちまわり、森の方へ戻る。

 これまでずっと俺を支えてくれた多数の足先が溶けて、地面に歪な液体を撒き散らしていた。

 何度試しても、結果は同じだった。

 人間の足で一歩進む距離より先に、俺の体は完全に溶け落ちるだろう。


 …出られない。


 発狂するには、叫びも上げられない体はあまりにも不自由だった。









「ねえ、アレクサンダー。アレクサンダーったら」


 揺さぶられて、瞼を開ける。

 眠そうな目つきをした少女が俺を覗き込んでいる。


「アレクサンダー。起きた?」


 軽やかな声。

 波打つ金髪に空のように青く丸い瞳。それだけ見れば違和感はなく、華やかな色彩という印象で終わる。

 だが肌が度を超えて白く、反して頬だけは赤く色づいているから均整が取れていない。視界に入ったら思わずなんだと見てしまうくらいには不調和な彩り。

 かつて俺も在籍した学園に生息するような賢しき者共なら、一目で「彼女は丁重に哀れみいたわるべきひとでなしなのだ」と認識するだろう。


 一緒の寝床で休んでも場所が余るくらい小柄で華奢な、少女。


「うなされているから心配になるわ。大丈夫なの?」

「…ああ…」


 無意識のうちに、彼女の腹に左手を当てる。

 魔物に近い性質を帯びた左手で魔力を奪い取る。そうしなければ、彼女の意識のない隙を狙って、内に潜む卵がどんどん大きくなる。

 俺の体は、その魔力の影響で更に魔物に近づいて変化していくが、やむを得ない。

 聖女と成り果てたら、成功者を約束された女はさっさとここを離れるだろう。そうしたら俺は一人この森に取り残される。

 また、あの気の遠くなるような静謐で狂った世界に身を落とすよりは、ずっといい。


「もう、私のお腹はぬいぐるみじゃないのよ。触りながらじゃないと安心して寝られないなんて言われても、困っちゃうわ」

「…………あ、ああ。そうか…」


 彼女の腹は、すっかり痩せている。

 俺が何もしなくても、膨らみ出すことはない。


 見下ろした俺の左手は、何の変哲もない人間の腕に他ならない。


 そうだ。俺はもう、魔物ではない。

 そしてここは森の中ではない。

 彼女が氷の国を見てみたいと言うから、北方の大地にやってきた。その宿だ。

 生まれ育った国より格段に寒いから、あの時の記憶が夢で蘇ったのだろう。


 夢での追体験。

 不思議な話だ。

 今の俺のこの体は、実際にはあの経験をしていないというのに。

 自然に這いずっている芋虫を見つけると、今でも体に震えが走って動けなくなる。


 俺が孤独に森の中を這いずっている間、この体は、ぬくぬくと学園生活を謳歌していたことだろう。


 俺の肉体は、二年間、別の魂の器になっていた。

 彼女が言うには、その魂は「神」によって回収されたらしいが。

 引き換えに、俺の魂が元の肉体に戻された…とのこと。

 紛れもなく奇跡の力。そんな能力を保持する存在がいるのも含めて、夢のような話だ。


 …本当に、夢ではないとどうして言えるだろうか。

 己が死んだ瞬間を、痛みをはっきりと覚えている。

 雨のように降り注いだ弓矢に串刺しにされ、業火を球体として撃ち出す魔術に身を焼かれた。

 俺は死んだ。あの時確実に、魔物として息の根を止められた。


 今こうして人間の体を通して見ている世界が、夢ではないと主張する方が、道理に反しているのではないか。

 この世界は幻で、死後に、都合の良い夢を見続けているだけ。そうではないと、どうして言い切れるのだろう。


 ぼんやり左手を眺めていたら、側頭部を撫でられた。

 見ると、腕を伸ばして彼女が頭に触れている。「もうちょっと背縮んで」と無茶なことを言うから、起こしていた上体を寝そべらせると、今度はちゃんと頭頂に触れた。


「よしよし」

「悪女が」

「どうして…?」


 彼女は誰が相手だろうとそうする。仮に俺の弟であっても、目の前で苦しんでいたら躊躇いなく手を差し伸べるだろう。醜悪な魔物にも人間として接し、見殺しにしてきた血縁さえ許した。

 文字通り聖女みたいな女だ。

 今は俺と旅をしているから俺相手だが、いずれ気が済んで旅を終え、どこかに腰を落ち着けたら、誠実な男でも捕まえてそいつを相手に、穏やかな生涯を送ることだろう。

 あるいは、いずれ探しに行きたいと主張している「お手伝いの皆」と再会し、愛重されて暮らすか。


 一緒に旅をして、結婚ごっこを続けるのは、それを見届けるまでだ。

 彼女と俺が結婚などできるはずもない。


 共に旅をしてよく分かった。彼女は俺とは違う。ただ、知らなかっただけだ。周囲の人間に無知のままで居させられた結果、木偶と判断され、誤って聖女に選ばれた。

 だから、神に救われ、訂正された。


「変な顔しちゃって。あなた、前よりお喋りじゃなくなったわよね」

「罵倒されるのが好みなのか?お望みなら考えてやるが」


 俺は他人を攻撃する以外の会話方法を知らない。そうやって生きてきたからだ。


 俺は第一王子で、正妃の息子。偉大な父の後を継ぐべく生まれた存在。

 しかし、周囲の人間は、俺よりも弟を持て囃した。父に似た容姿を持ち、父と同じ賢さを有する弟を。

 勉強で頑張っても弟には勝てない。一番でなければならないのに、一番になれない。それを見越して父は俺に「お前は頑張る必要はない」と言った。

 頑張っても、意味はないと。父がそう見極めたのなら、間違っているはずもない。

 だから、俺は放り出した。代わりに騎士団に傾倒した。そこでなら弟に勝てるかもしれないから。


 母は、「お前が死ぬ時、誰にも泣かれないような人間になってね」と言い残した。

 意味をよく理解できなかった。けれどそれは最期の願いだった。教育係に相談したら、「誰にも心を許すなと仰られたのですよ。人から遠ざけられるような…ええ、畏怖を抱かれるような、甘えのない人間になれ、ということです」と答えた。

 誰も好んではならない。誰にも、親しげに話しかけるなんてことは許されない。


 母も教育係も、不遜であれと言った。それが王として相応しい姿だからと。元々そういう気質であったし、周りに敵しかいないのもあって、相手を逆撫でする喋り方が身に付くのも当然だった。

 それをやらないように意識すると、驚くほど辿々しい語句になる。みっともないからそれはしたくない。


「罵倒はいやよ。でもたくさんおしゃべりはしたいわ」

「随分と難しい注文をしてくれる」

「難しくってもきっとできるようになるわ。私だって、こうして旅をするなんて二年前はとても難しかったもの」

「…そうだろうな」


 未来がどう転ぶかなど、誰にも知り得ない。


 ふむう、と彼女が息を漏らす。何だと聞けば、「もうそろそろお家を探さないといけないなあって」と返事をする。


 家。身を落ち着ける場所。

 とうとうその時が来たのだろうか。


「…満足したのか、それとも、飽きたのか、嫌になったのか」

「どうしたの?」

「何が嫌だ。俺か、それとも旅路か。日銭を稼ぎながらなのが嫌か、質素なのが嫌か、歩くのが嫌か、俺が頼りないか、鬱陶しいか、どれが嫌だ」

「もう、何のお話?よく分からないわ」

「…家を、探す意味だ」


 意味、と繰り返してから、ユリシアは真面目な顔で姿勢を正した。


「だって必要でしょう。赤ちゃんが生まれたら、旅もしていられないわ。お家がないと大変よ。もし体の具合が悪い子でも、不自由がないようにしてあげなくちゃ」

「…………は」

「そろそろ生まれるかもしれないでしょう」

「…………は?」


 誰の子だ。

 いつの間に。

 どうやって目を盗んで。


 錯綜しそうになる思考を、どうにか手繰り寄せる。

 彼女の人柄は把握している。俺が思っていることと全く異なるなんてのはザラにある。


「…それは、だから…何故、子供が生まれると、そう思った」

「だって私達、結婚して時間も経ったし、仲も良いし、そろそろハラムかもしれないわ」

「…………そう、か…」


 やっぱりそういうことか。

 というか出会った当初から「孕む」の意味を知らなかったのだから当然。予測できたことだ。とはいえ面と向かって言われると…。

 全身の力が抜けてふらつきそうになるのを堪える。先程まで北方の寒さを実感していたのに今は体中から汗が吹き出している。風邪を引いてもおかしくない。拭かねば。


 彼女は「ちゃんとお仕事もして、お金を稼がないと。何をしたらいいかしら、やっぱりお掃除とか楽しそう。旅の途中でも喜んでくれる人が多かったし」と思案している。恐ろしいにも程がある。

 脱力している俺にふと視線を向けて、彼女は柔らかく笑った。


「あなた、ずっと子供を欲しがっていたでしょう。ついにお望みが起きるわ」

「それは…」


 子供が欲しかったわけではない。

 子を孕むという事実が重要だった。


 レオンハルトは言っていた。聖人と聖女は、子持ちでは有り得ないと。

 当時彼女は、聖女に成り切ってはいなかった。腹が膨らんでいたが孵化には至っていなかった。故に、まだ可能性が残されていた。

 卵が孵化し魂が肉体を追い出されて蝶か芋虫に変貌するのと、化け物に犯され子を産むのとどちらがマシか、気を遣う余裕などなかった。


 結局、行為に及ぶ前に、俺が彼女に触れた途端に魔力が吸い取られて腹が縮み、代わりに俺の左腕が肥大し魔物化が急速に進むという現象のせいで中断したが…。


 当時は復讐に取り憑かれていたから、仄暗い思惑が嘘だったわけではない。ここで聖女を消失させることで奴らの儀式をめちゃくちゃにしてやるという意趣返しもあった。

 だが、久しぶりに会えた人間の上、化け物の姿に怯え逃げ出しもしなかった彼女と過ごすうちに凪いでしまった。


 夜になり、彼女が眠りにつくと卵が蠢き出す。その活動力たる魔力を腹部に触れることで俺が奪い、代償として俺は魔物に成り代わっていく。

 ちまちま魔力を吸収せずとも、孕ませれば聖女の資格を失い、きっと彼女は救われる。それをしなかったのは、俺が卑怯者だからだ。

 最後まで行為に及べば、宿る魔力を極限まで吸い続ければ、おそらく俺は完全な魔物の姿に成り果てる。芋虫だった時になりかけたように、正気すら失うかもしれない。


 毎日復讐を夢見て、現実から目を背けて、人間の頃の姿を思い描き続けていたせいか。

 奇跡的に、あの悪夢の芋虫の形から人間に近い姿まで羽化できたというのに。


 人型になれてからも、ただでさえ生きて動いて力を消費するだけで少しずつ皮膚が黒く侵食されていっていたのに、彼女の魔力によって急激に変化が進んでいて。

 どんどん魔物に変身していって。


 今度こそ、自我を忘却するかもしれない。


 それが恐ろしかった。


 そうなってもいいから彼女に触れて、聖女じゃなくしたいと思ったのは、彼女が、俺を人間だと言ったからだ。半分魔物と化した裸体を見てもなお、人間に変わりないと告げた。


 羽化によって、無力な芋虫から見た目機能共に組み替えられた異形な存在。

 虫そのものの目と、ボサボサの毛髪と、得体の知れない構造の肉体。内から発動する強制的な魔力探知で大体の物の様子が分かるため、目隠しをした方がむしろ動きやすいような、複雑化した視覚であっても見て取れる。水鏡に映る姿は、化け物以外に呼称できない。

 そんな男相手に、彼女は受け入れた。


 故に覚悟を決めたが…その直後に愚か過ぎる勘違いをして彼女を酷く傷つけた。

 今思い返しても背筋が凍る。抱くと宣言して押し倒した直後に人違いで憎悪を燃やし、突き飛ばして散々恨み言を叩きつけるなど…。


「ねえ、ねえ。アレクサンダー。もしかして気が変わったの?」

「何がだ」

「だから、子供のこと」

「…お前の好きにすればいいだろう。相手は俺では有り得ないがな」


 たちどころに平手が飛んできた。もろに食らう。


「何言ってるの、浮気はダメなのよ!お母様が言っていたわ、夫が浮気したらちょん切りなさいって」

「…随分と過激な教えだな」


 彼女の両親は、努めて綺麗に表現するならば、愛情深い性格だったのだろう。娘のために禁術にまで手を出したと言っていた。並大抵の人間の精神では実行できない。


「どうしてあなたはひどいことを言うの、私以外の誰と子供を産む気なの」

「…俺は子供は産まん」

「そうじゃなくて!」

「…心配せずとも、お前を不快にはさせない。もう勝手に死ぬことはしないし、お前が満足するまで、どこまでも旅を続ける」

「じゃあ、どうして?」


 すっかり眠気は覚めている。

 この精巧な世界が真に現実か、夢か、判別する術はない。

 けれど夢の中でくらい、幸せであって欲しい。

 俺では、幸せにできないから。


 再び上体を起こし、彼女と目線を合わせる。俺の方が高いから、少し体勢を屈めて真正面に見据える。

 眉を吊り上げて口を尖らせている彼女に、可能な限り冷酷な声で言葉をかける。


「分からないか?俺はお前と結婚する気など毛頭ない。お前が勘違いし、突飛に提案しただけだ」


 彼女と出会い、拐かし、散々に罵って。それでも彼女が逃げずに留まって。俺を「人間」と呼んだ時。どれほど救われただろうか。

 彼女がいなければ一生森の中で、徘徊の末に見つけたあの小屋の隅で、現実味もない復讐(ゆめ)に浸って、侵食される肉体に怯え蹲ることしかできなかった。


「思い上がりも甚だしい。無能の烙印を押されたくせに人並みに結婚だと?笑わせてくれる」


 彼女との会話が、人間としての生活が、自分を認識する存在がそこにいてくれることが、どれほど救いになったかなど、彼女には想像もつくまい。

 復讐心により生き永らえた故、それを通してでしか物を語れない己を、彼女は見捨てなかった。それがどれだけ、大きかったことか。


「結婚しても特に経済的利潤も生じない上、お前の知識によれば子供まで誕生する!おお困った、俺の血を継ぐということは王家の血も継承するということ。将来的に国家の揉め事が発生しかねない大問題だ。故に有り得ない。いいか?」

「良くないわ。分かりにくい言葉で誤魔化そうとしてもダメよ」


 舌打ちしそうになるのを耐える。幼少より癖になっているが、旅の始めの方に「あの人舌打ちしてて怖そうだけど大丈夫?って聞かれたわ。その音って怖いことなの?病気の出始めじゃないわよね?」と露骨に心配されて抑えていた。


「やだっていうことは、あなた、ひょっとして私が嫌いってこと?」

「その言葉そっくりそのままお返しする」

「私はあなたのこと好きよ」

「戯れ事を」


 冷笑が漏れる。

 残念ながら勘違いに過ぎない。

 彼女は無知だ。旅を始めて多少は知識を身につけたが、先程の子供の生まれ方のようにまだまだ曖昧なことが多い。

 聖女として召されるところを誘拐され、生活を共にして、命に関わる事件を生き延びて、確かに情は生まれただろう。それを「結婚に至る感情」と誤って認識しているだけの話だ。

 俺は成り行きで一緒に旅をすることになっただけ、聖人に選ばれ居合わせただけの無能でしかないのに。


 相手が誰であろうと、彼女は慈しむ。

 この先、旅を続ければ彼女は色々な人間と出会うだろう。その中には、彼女の価値観を揺るがし、心を奪う者もいるだろう。

 そいつに会えるまで、成り行きで関係を築いた俺が同行しているだけの話。

 まるで夢のような今の時間が、どれだけ続くことか。


 彼女が紛うことなく幸福になれたら。夢を叶えて、それを見届けたら、どうしようか。今はまだ、想像できないが…いずれにせよ邪魔者は消えるだけだ。


 むくれていた彼女が、唐突に、ああ、そっか、と頷いた。幸せを運ぶような青色の瞳に柔らかな光が宿っている。


「あなた、あの時死んじゃってたものね。それに、聖人に選ばれて、一人で生きてたから、心が折れちゃったって言ってたもんね」

「何だと」

「もう、バカなんだから」


 彼女が俺の首に手を伸ばした。指の冷たさに怯んでいる隙に、距離は詰められていた。

 指先は冷たいのに、唇は驚くほど熱かった。

 …否。熱があるのは俺の方だった。


「ちゃんと覚えていて。アレクサンダー。あなたが好きよ」

「何故」

「私を助けて、連れ出してくれたから」


 錯覚だ。


「…それは、俺にしかできなかったことじゃない。お前を助ける人間は、世界には大勢いる。遭遇したのが俺だっただけで、同じ状況に面しても俺以上に上手くやれる奴らがごまんといる」

「でも、ここにはあなたしかいないじゃない」

「これから会うんだ。世界を巡ればいつか出会える。お前がその誰かを好きになったら、俺は邪魔になる。…そうだろう?」

「どうしてそう後ろ向きなの、あなたは」

「事実だ」


 呆れたように半眼になって、彼女はわざとらしく首を傾げる。


「じゃあ、あなたは私が嫌いになるの?」

「何故そうなる」

「だってそうでしょう。たまたまあなたと会ったのが私だったから、あなたは私を好きになったんでしょう。私じゃない誰かと会ってたら、その人を好きになってたんでしょ」

「そんなわけあるか。お前以外に、誰があんな醜い魔物を人間などと呼ぶものか」

「呼ぶかもしれないじゃない」

「そうだとしても!実際に俺を救ったのはお前だ、ユリシア」

「そうよ。だから、好きなの」


 直球な告白に咄嗟に返せず、長らく続いた応酬は彼女が揚々と締めくくりを行った。


「私を助けたのは、あなたでしょう、アレクサンダー。見ず知らずの誰かじゃなくて、あなたが、助けてくれたのよ」


 言葉を失った。


 バカね、とまた言って、彼女は小さな体で俺を抱きしめる。

 情けない、と呟けば、情けなくなかったら、あなたと私は会えなかったんでしょう、と微笑まれた。

 震える腕を彼女の背に回す。小柄なのに秘められた生気はあまりにも強い。禁術による反作用が何度襲おうと、奪い取れなかった命の強さを目の当たりにする。


 さっきのをやり直させてもらってもいいか、と尋ねると、可笑しそうに頷く。


 彼女の金髪に指を通して梳く。薄暗い宿部屋でもそれと分かるほどの輝きを放っている。青空の下で跳ねるのが最も似合う髪だ。


「ユリシア」

「うん」

「……」

「もう。思ってること素直に言えばいいのよ」

「……。………す、きだ。見捨てないでくれ。お前がいないと生きていられない」


 か細く、信じられないくらい聞き苦しい言葉に、彼女は吹き出して答えた。


「ありがとう。大好きよ、アレクサンダー」


 細い顎に手を添える。持ち上げるのに合わせて瞼が閉ざされ、睫毛の影が落ちる。青が消えて名残惜しく感じるのを制して、彼女の薄い唇に自分のを重ねた。


「…まずい」

「何が?」

「頭がおかしくなる」

「それは大変だわ!お医者様に診てもらわないと」


 果たして治せる奴がいるのだろうか、と悶々としていると、私も何だかおかしいから、二人で一緒に診てもらいましょうと真面目な顔で追い打ちをかけられた。


 夢は当分、終わりそうにない。

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