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エリアナの追懐

姉エリアナ視点です

 私には、ユリシアという妹と、アレクサンダーという婚約者がいた。

 妹は聖女に選ばれ、婚約者は聖人に成った。

 そうしてそのまま、歴史に名を残す偉人として生きるはずだった。





 同い年の第一王子と婚約を結んだのは、私達が七歳の時だった。

 本来、生まれた時すでに婚約の話は持ち上がっていた。それが延期されたのは、公爵家にもう一人の娘が生まれたからだ。

 私の二つ下の妹であるユリシア。あの子は生まれつき体が弱く、両親の余裕を全て奪い去った。


 私の婚約は後回しにされ、アレクサンダーという婚約者が誕生するまでの猶予が与えられた。今思えば、とてもありがたい期間だったと言えよう。何も気にすることなく好きなことに励めたのだから。


 初めて顔を合わせたのは、婚約をしたその日だった。

 あちら側も私に興味がなく、私もそれほど関心と暇がなかったから、事前に会って慣らしておくという段階を飛ばしていた。

 それが良かったか悪かったかは、未だに判断しかねる。


「よろしくお願いいたします、アレクサンダー殿下」


 城の間で、なるべく丁寧に頭を下げた私を、第一王子は蔑むように睨んだ。


「馬鹿にしているのか、きさま」

「…そんなつもりはありません。婚約させていただいて、とても光栄に思っております」

「ああそうか、ならば必要以上に近寄るなよ」

「それはなぜですか」

「きさまの家、病人がいるのだろう。うつったらかなわん」


 その時の私の心境が、誰に理解できようか。


 当時私にとって、ユリシアは広い屋敷にただ同居しているだけの病人だった。

 両親は妹を溺愛していたけれど、あちらの体調のせいで顔を合わせる機会も少なく、忍び込んでまで会おうという気もなかった。


 ユリシア付きの一部の使用人を除いて、積極的に私とユリシアを引き合わせようとする勢力もなかったから、気にすることもなかった。


 だが。第一王子は、言った。妹が病人だから、私もその病原菌を有しているかもしれないと、遠ざけた。


 私は何もしていないのに。

 妹が病気だからという理由で、不当な烙印を押される。


 …どうして私の妹は病気なのかと、その時初めて忌まわしく思った。





 両親はユリシアに多大な心労をかけられていた。

 私が二歳の時まで、つまりは妹が生まれるまで、両親は私に首っ丈だった。元々そういう気性の人達なのだろう。母が妹を妊娠した時期に病で亡くなった祖父…先代の公爵もそうだったというから、遺伝なのかもしれない。

 その一方で、父の弟である人は常に冷静さを保ち何においても俯瞰的に物事を見る人間だった。

 私もどちらかといえば、叔父に似たのだろう。

 両親の愛情の行き先が妹に移っていても、そういうものだろうと妬むこともなかった。少し寂しくはあっても、泣いて喚くほどではなかった。


 だから驚いた。

 第一王子に言葉をかけられて、ユリシアへの明確な感情を抱いてから、妹を意識せざるを得なくなってしまったことに。

 妹はどんな生活をしているのか、何が好きなのか、両親とどんな会話をしているのか。

 それまで気にもならなかったことが、どうしても頭の隅に浮かぶようになった。


 我慢できず、こっそり部屋を抜け出して、妹の眠る一室に足を向けた。


 うつる病気ではないけれども、万が一悪影響があるといけない、無闇に近寄らないべきだと使用人に助言されていたが、それを反故にして出向いた。


 妹の生活する部屋は、同じ建物内ではあるが私や両親の部屋より距離があり、妹に割り当てられるまであまり手入れも行き届いていなかったような離れた場所にあった。

 部屋の場所を決めたのは、両親ではない。メイド長だ。曽祖父が生きていた時代から献身的に仕えていた古株。なので両親も彼女には頭が上らない。

 ひっそりした屋内に数人の使用人と一人の専属医が常駐し、ユリシアは彼らに世話され生きている。


 夕焼けに染まる廊下を進むにつれ、人の声が聞こえるようになる。

 それは歓声に近かった。


「お嬢様、もうすぐですよ!お部屋に着きますからね。すごいですよ、ここまで帰ってこられるなんて!」

「ふふ…すごいでしょう」

「っほんとですよ!いやあ今日はいい日だ。お嬢様が花壇までお散歩して、お花にお水をあげて、風が冷たかったからちょっと体も寒くなっちゃったけれども、ちゃんとご自分で歩いて部屋に戻れて!このままいけば外で思い切り遊ぶのも夢じゃないですね!」

「うん…やったぁ」


 何を喜んでいるのか、理解できなかった。

 五歳の妹が歩いていた。自力ではない。両脇を侍女に固められ、蝸牛が這いずるような遅々とした足取りで進んでいく。

 裾から見える足首は骨に肌が直接くっついているのかと勘違いするほど細い。


 ユリシアは、金髪を振り乱し、真っ白な顔色で、嬉しそうに笑っていた。


 不気味。

 それ以外に形容し難い光景に、私は為す術もなく逃げ帰るしかなかった。


 …どうして両親は、あの子のために時間を費やしているのだろう。

 理解できないものは怖い。

 怖いものには近づかなければ良い。叔父上の格言だ。

 結局その後も、私はユリシアに自分から声をかけることはなかった。

 たまにユリシアの体調が良くなって姿を表す時や、外出する両親をふらふらしながら追いかけてきた時以外、顔すら見ない生活が続いた。


 病床に臥すユリシアの世話をする使用人の数は、片手で足りる。両親が選別しているらしく、人員は増えなかった。そのため滅多に私達と遭遇しない。

 加えて、大抵の使用人はユリシアをいるものとして扱っていなかった。

 そもそも離れた場所にいて姿も見えない上、危篤以外で騒ぎを起こすこともなく、体が弱いという理由で引きこもっているだけの「眠れるお嬢様」。

 わざわざ話題に出すものでもない。


 両親は、妹の病気の治療法を求めて方々を飛び回っていた。

 だから、公爵家の仕事は叔父が代理でこなし、彼が有能であればあるほど、両親の評判は下がっていた。

 それを、両親は気にもしなかった。何故なら、二人は「自分の子供を助ける」以外に割く時間がなかったからだ。


 原因不明の病気。いつ死ぬとも分からない。

 自分達にできる限りのことを尽くして、両親は奔走していた。


 私が次期王妃として教育を施される間にも、叔父に連れられ人脈を築く間にも、課外活動で辺地に赴き話を聞く間にも、婚約を結んで以来どこに行っても第一王子とペアにされ彼の言動の後始末に追われる間にも。

 両親は、ユリシアを救うために遠地を巡っていた。


 ある時、帰宅した両親に言ってみた。

「父上と母上は、医者探しを他の人に任せることはしないのですか」と。

 すると、「お前にばかり負担をかけてすまない」と謝ってから、「実際に見なければ、見極められないんだ。だから、私達が行くしかないのだよ」と首を振った。

 それが黒魔術を示唆してのものだったと気づいたのは、かなり後の話になる。


「いつか、ユリシアに何の鎖もなくなり。全てが解決した時は。一緒にどこにでも行こう、エリアナ」

「どこにでも、ですか?」

「どこでも、何でも。一緒に、お前がやりたいこと、全てやろう」

「貴女のお話を、いっぱい聞かせてちょうだい。貴女が見たもの、聞いたこと、考えたこと、色んな話を。貴女にたくさん我慢させて、傷つけてしまった分、存分にしましょう」


 今更そんなことを言われても。王妃となる私に、そんな時間はない。

 けれどその時私は否定しなかった。「いつかできればいいですね」と無難な答えをするに留めておいた。

 両親は、笑っていた。何故か少し切なそうに見えた。

 あるいは。もしかしたら。

 行く末を悟っていたのかもしれない。

 二人は、愛情を最優先にして、それ以外を切り捨てていたけど。地頭が悪いわけではなかったから。


 いずれにしても。

 その幼稚な夢が叶う日は、永遠に来なかった。









 第一王子アレクサンダーは、嫡子である。

 国王陛下の第一子で、上級貴族の出身である王妃の実子で、見目も良く持病の一つもない健康体。

 誰がどう見ても次の王になる立場の人間。


 けれどその中身も地位に相応しいとは限らないものだ。


 五歳の時に、病で王妃が亡くなってからというもの顕著になったが、彼は極めて傲慢な人間だった。

 人に歩み寄る姿勢もなく、真面目に勉学に取り組む姿勢もなく肉体派の騎士にばかりついていき、平和な世界では必要もないのに剣を振っている。

 その剣も、才能があるようにはとても見えない。私は剣など触れたこともないから分からないけど、何故騎士達は第一王子を持て囃すのだろうと不思議に思うほどには、初心者の目で見ても不恰好だった。


 何より態度が悪い。

 本当に悪い。

 挨拶に嫌味を付け足してくるのは当たり前、口を開けば罵詈雑言、きっと寝るまで誰かを謗っているのだろう。

 公の場で顰蹙を買ったのも一度や二度ではない。


 それなのに、誰も注意しない。


 薄々、私も勘づいていた。

 第一王子は、聖人候補であると。

 彼らは、聖人になった暁には、神より異能を賜る。そうしてその力に見合った人格者として生まれ変わり、立派に国を導く。

 …それが、表向きの話。


 聖人は、本当はそんな綺麗なものではない。

 神が与えるのは異能ではなくて、卵。つまりは将来、卵が孵化した彼らは中のものに寄生され操られるのだ。

 恐ろしい話だが、そもそも候補となる人間が出てこなければ何も起こらないし、候補となっても成長していくうちに改心すれば聖人や聖女にはなり得ない。


 でも、誰も改心させようとしない。

 皆が期待に満ちた目で見守っている。

 第一王子が聖人になって、見違えるような偉人になるのを。


 だから私も、時が来るまで、成長しない彼に振り回され続けるしかない。





「おい貴様、さっき奴と何を話していた」

「…取り立てて重要なことは何も。入学式の段取り程度です」


 十三歳で寮制の学園に入り。親元から離れて過ごし。十五歳になる年。

 相変わらず、第一王子は誰に対しても攻撃的で遠巻きにされている。


「そうか、凡庸な貴様が奴に縋って謀略でも仕組んでいるのかと疑ったが、隠す気なら深掘りしないでいてやろう。貴様が何をしでかそうとどうでもいいが、俺様の邪魔だけはするなよ」

「…そうですか…」


 彼は鮮やかな赤髪を揺らし、翡翠のような瞳を細めて睨む。


 第一王子が言う「奴」とは、腹違いの弟である第二王子レオンハルトのことだ。

 兄とは対照的に、レオンハルトは物腰が柔らかく、誰に対しても温和だが裏ではあれこれ画策しているので「次の統率者」として皆から注目を集めている。


 レオンハルトとは将来親類になる関係上よく会話もするし、幼い頃は課外活動で頻繁に一緒になっていたが、個人的な接触はあまりしたことがない。

 でも、叔父上と少し雰囲気が似ているから、嫌いではない。


 黙る私を、第一王子は王妃譲りの相貌に険悪さを宿し、いつものように見下ろしている。


「…時にアレクサンダー殿下」

「まだ反論があるのか。貴様の執拗さは蛇並みのまま脱皮しないと見える」

「以前に言った、入学生に向けた式辞の準備は万端ですか?」

「……」

「殿下?」

「…知るかそんなもの」


 不意を突かれて第一王子が黙り込む。直接本人には告げていないからまあ用意していないのも妥当だろう。けれど情報収集をしていれば「在籍中の王族もしくは最上位貴族が新入生にお祝いの言葉を贈る」のは要事として捉えられたはずだ。

 昨年までは皇后の親戚筋で他国へ嫁ぎ先が決まっている令嬢が在籍していたから免除されていたが。


「…そもそもその日俺様は騎士団の応援要請で留守だ。貴様らで勝手にやれ」

「はい」


 知っている。だからその日にするようにレオンハルトが進言したのだから。

 役目は、今年からは彼が担当することになるだろう。


「…やけに喜色を滲ませているが、そんなに俺様の失態が嬉しいか。貴様の性格の悪さには恐れ入る。かの悪名高き公爵代理も貴様の前では裸足で逃げ出すだろうよ」

「そうですか」

「チッ」


 舌打ちし、第一王子は不機嫌を撒き散らしながら去っていく。

 彼は今年で十五歳。

 決まりに則れば、彼とこうして話をするのも、最後になるのだろう。


 どんな人になるのか想像もつかないが…今より悪化することは、あるまい。





「は?婚約者クッッッッッソ美人なんすけど、は?腹立つ」


 でも流石にこれは予想していない。


 いつの間にか、恒例となるパレードを行うことも、事前通知もなく、第一王子アレクサンダーは聖人と化していた。


 長身故にはみ出しながらもレオンハルトの背中に隠れ、第一王子は私を見て第一声でそう告げた。


「…兄上。ちゃんとご挨拶してあげてください」

「さ、サーセン…は、初めまして。ドーモ、アクヤクレージョー、サン、テンセーケーオージデス」


 何を言っているのか分からない。

 呆然とする私に、レオンハルトは苦笑し、第一王子はますます警戒を強めてレオンハルトの後方で縮み込む。

 それを前に押し出し、彼は「すみません、仲良くしてあげてください」と申し訳なさそうに肩をすくめた。


 仲良くしろとは言われたが。第一王子はレオンハルトに大層懐いており、割って入る隙間などなかった。

 一般常識をまだ把握し切れていないようで、ちょくちょく醜態を晒してはレオンハルトに泣きついていたが、彼の支えもあり人前では「荘厳な王子」を装っていた。

 彼の十五歳の誕生日に際し聖人のパレードも行われ、その数日後に私と第一王子の婚約破棄、更に彼の王位継承権が放棄され、私は新たにレオンハルトと婚約をするという怒涛の展開があった。


 だが。

 私は、それに心を割いている余裕はなかった。


 両親が。いつものように、遠くまで出向いていたはずの両親が、亡くなった。





 学園に入り、寮で生活するようになって。両親と顔を合わせる機会は極端に減っていた。

 最後に言葉を交わしたのはいつだろう。

 何故、両親が死んだのだろう。


 それを答えてくれたのは、全ての疑問に回答を用意したのは、レオンハルトだった。


 両親は、黒魔術に手を出していた。

 人心を操ったり、死体を動かしたり、肉体を別物に改造したり。古くから禁忌として、生者死者共々の権利を侵害する悪として忌み嫌われていた術。

 近年では扱える者が途絶え、昔話でしか登場しない。露見すれば術者は罰として処刑、それを依頼し援助した者も流刑に処されると記述されるような、禁断の魔術。

 それを操る魔術師達に、力を借りていた。


「本当は気づいていたんでしょう、エリアナ。けれど貴女は両親への情を捨て切れず、告発することもしなかった。本当に…優しい人だ」


 そんな訳ない。

 両親が禁忌を犯した罪人になっていたなど、誰が予想できると言うのだ。


 何より、両親は、そんな証拠一つも残さなかった。


 ユリシアを助けるために、黒魔術を用いた。


 ユリシアが生まれてすぐ危篤の状態にあったのは、知っている。それを両親と一部の使用人、医師が献身的に介護し、どうにか一命を取り留めたとも。

 認識していたのはそれだけだ。


 生まれたての子供が危篤にあり。

 どんな医者を呼び寄せても間に合わず。

 そんな折、影から抜け出るように都合よく現れ、自分達なら延命が可能だと囁いた黒魔術師に、その手に縋ってしまった。


 黒魔術を、利用した。

 だからだ。

 ユリシアがいつまで経っても快方に向かわなかったのは。

 両親が、治すために、その方法を知る者を探すためにあちこち訪ねていたのは。

 黒魔術という高度な技術に匹敵する能力を持つ人物か、禁忌に触れたと告げても協力してもらえる人柄か、実際に見極めるために自ら動いていたのは。


 …私は、何も知らなかった。


 両親は、私に、何も教えてくれなかった。

 罪の一端も、担わせてくれなかった。


「黒魔術師達は行方をくらましました。彼らの行動理念は人助け…悍ましいですがそれを心の底から思い込んでいるのです。先代国王が手引きさえしなければ故国に彼らの侵入を許すことなどなかったというのに…」


 レオンハルトが気遣わしげに言う。


 理由はどうあれ、両親は禁忌を犯した。

 罪には罰を受けなければならない。

 表向きは事故として、処理された。

 異国の魔術師を故郷に送り届ける際に、土砂崩れに巻き込まれたことになった。


 …殺されたのだ。父と母は。

 罰を受けて、その身で贖った。


 約束したのに。ユリシアが元気になって全部解決したら、一緒に私がやりたいこと全部やるって言っていたのに。


「…幼稚な夢でした。本当に」


 叶うわけがなかった。

 叶えようとも思っていなかった。

 必然だ。


 禁忌に踏み入れた罪人には当然の末路と、嘲笑するべきだろう。

 笑えばいいのだ、死んで当然なのだと。

 救いようのない愚か者と見限って、失望すればいい。


 …それが正しい形なのだから。


 言葉が出ず消沈する私に、レオンハルトは、黙って隣にいた。

 私が再び立てるようになるまで、いつまでも、待っていた。

 抱きしめることもなく、睦言を交わすこともなかったけど。

 確かにその時から、私と彼の関係は変わり始めていた。





 両親が亡くなり、公爵の座は正式に叔父に移行した。

 元々この十年近く実権を握っていたのは叔父上だ。引き継ぎで特に問題もなかった。

 だが、一つ困ったことがあった。


 ユリシアの処遇だ。


 両親の死ぬ直前、ユリシアは彼らが招いた魔術師によって体を改造されていた。

 それによってユリシアは健康体になり、今までのようにこもり切りになることも無くなった。


 快復し、人前に姿を現したユリシアは、あまりに不可解な人間だった。

 黒魔術を利用した両親は死に。彼女を長年世話していた使用人と専属医は、黒魔術の存在を知っていたという理由で国外追放され。

 彼女にとって信頼できる人間は誰一人いない状況で。

 彼女は、笑っていた。


 病気が治って改善された顔色で、それでもなお細い手足を持ち、誰に支えられることもなく歩けるようになり。

 きっとそれが嬉しいのだろうと最初は思われたが。

 表向きは事故として処理された両親の葬儀中ですら、彼女は笑みを崩さなかった。

 そして式の終盤、唐突に「ちょっと用事を思い出したわ」と言い出して退室し、戻ってこなかった。


 あまりにも不気味だった。


 もしかしたら、彼女には痛みという感情がないのではないか。

 かつて私が目撃した時も、妹は笑っていた。どんな時も、楽しそうに嬉しそうに、声を弾ませていた。


 もし彼女に、痛みも苦しみも、辛いという感情も備わっていないのなら。

 黒魔術の影響で、人としての心を欠損していたのなら。

 …誰の手にも、負えない。


 ひとまず、ユリシアは、私の元に来ることになった。

 一切の接点もなかった叔父上とは違い、私は同じ家に暮らし、回数はそれほどではないとはいえ顔も合わせている。


 そうしてユリシアは学園にやってきた。

 葬儀中の例を踏まえ、みだりに外部へ遊びにいこうとせず、ひとまずは学園内で大人しくしているのを約束付けた。

 だが…やはり彼女は、あまりにも破天荒だった。


 かつての第一王子アレクサンダーとは方向性が違うが、自己中心的といえば同種かもしれない。


 授業中に校舎を走り回ってみたり、持ってきた貯金を購買部で山分けにして皆で宴会をしたり、夜に寮を抜け出して遭遇した人々を巻き込み夜明けまで星空の下で踊っていたり。


 自分のせいで、両親は死んでいるというのに。

 両親が死んだのに、彼女は毎日、とても楽しそうに笑っていた。


 何を考えているのか全く分からなかった。

 理解できず怖かった。

 怖いものには、近寄らない。小さい頃からそうしてきた。

 だから…今回もそうすることにした。





 一年が経過した頃。

 ユリシアが聖女に選ばれた。

 順当だ。仕方のないことだ。

 むしろ望んでいたかもしれない。彼女がいなくなれば、何も心配事はなくなる。

 第一王子アレクサンダーに続いて二人目。二年ぶりの任命。快挙。


 喜ばしいことだ。

 それなのに…。


 第一王子は、聖人になって変貌した。舌打ちして「何故貴様のような凡愚と婚約しなければならない」と私を睨みつけてくることもなく、レオンハルトに敵意をむき出しにすることもなくなり。

 大人しくレオンハルトに追従している。


 ユリシアもそうなるのだろうか。

 今の底抜けの笑顔は消え失せ、真面目になり、私に「初めまして」と言うのだろうか。

 そうして、両親の死を悼むように、悼めるようになるのだろうか。





 今朝。ユリシアは旅立つ。

 純白の衣装を身につけて、パレードに出立する。


 夜も眠れず、ずっと考えていた。

 そして、思い出したことがあった。


 小さい時。本当に小さい時の記憶だ。

 ユリシアは三歳にも満たなかったのではないだろうか。


 両親に連れられて、ユリシアの部屋に行った。

 その時ユリシアは喉が腫れていて、声が出せなかった。だから私に何を言うわけでもなく、ベッドにぐったりと横たわり私をじっと見つめていた。


「エリアナ。いつか、ユリシアが外に出られるようになった時。手を引いてあげておくれ」

「はい、おとうさま」


 大好きだった父に言われて、私は張り切って返事をした。

 父に頭を撫でられ笑みを浮かべて。

「エリアナの笑顔は天使みたいね」と大好きだった母に褒められ更に上気して。

 両親の足元をうろちょろしていた。

 その時に、ユリシアから息が漏れた。

 いー、あー、と、微かな音で、背の高い二人には聞こえなかったかもしれない。


 なんて言ったのかなんて分からないし、当時はほとんど疑問にも留めなかった。


 けれど、もしかして彼女は、こう呟いたのではないのか。


 いいなあ、と。





 ユリシアは、何を思っていたのだろう。

 本当に、彼女に人間味がないのなら、何かを羨ましがり、惜しむなんてこともない。

 私は知っている。ユリシアが、両親が旅立つ時に玄関まで押しかけようとし、出立に間に合わず廊下を侍女に支えられながらゆっくり引き返していったのを。

 両親にもらった異国のお土産を、手の届く範囲の屋敷中に飾って皆に自慢していたのを。

 私が叔父上と待ち合わせて観劇しに行くのを聞いて、一緒に行きたいと駄々を捏ねたのを。


 学園に来てから。葬式以来に顔を合わせた私に、「今日からよろしくね、お姉様」と朗らかに挨拶したのを。

 その手には、両親がいつか旅行のためにと買い与え、長らく壁の装飾と化していた大型の鞄があったのを。

 私に「何かあれば大変ですのでせめて学園から出ないように」と命じられて、笑顔で「分かったわ」と素直に頷いたのを。

 平時私に無言で拒絶され、距離を取られても、見つける度に「こんにちはお姉様」と大声で挨拶してきたのを。


 …聖女に任命された時。

 神官に連れていかれそうになった時。振り返り、私に、「お姉様も、私が聖女になることをお祝いしてくれる?」と尋ねたのを。


 あの時、私は彼女の顔をよく見ていなかった。自分の心を静めるので精一杯だった。

 けれど。

 もしユリシアに痛みも、辛さもないのなら。不安なんて、感じることもない。

 本当に、祝福されるべきことなのか、と、確認する必要もない。


 私は。

 私は何をしていた?何を、した。


 妹を。

 ずっと家の中で、一人で病気と闘って、ようやく自由になれた妹を、聖女として送り出した。

 見殺しにしたのだ。





 父上、母上。

 ごめんなさい。

 私は、あなたたちとの約束を果たせませんでした。


 だから、今度こそ。

 私は、間違えません。





























 ユリシアから手紙が来た。

 最初は実名で、次に私に偽名の方が良いと指摘されたから「アシリユ」と名乗り、語感が悪かったからか「アシュリー」と改名して、度々送ってくる。

 たまに土産物も一緒に入っているが、なんとも言えない造形の木彫りの人形だったり、芳しいとは言い難い香ばしい匂い袋だったり、結構独特だ。

 しかし、手紙の内容と連動して、彼女の思い出の一品になったものたちだから、邪魔にはならない。


 今は北の大地に向かっているらしい。

 隣には相変わらず、第一王子…いや、ただのアレクサンダーがいる。

 結局、私にはあの敵意で塗り固められた男の根底など知ることはできなかったし、知ろうとも思えなかったが…。

 喧嘩もするけど仲良くやっているようだ。

 そろそろ子供ができるかもしれないので家を探したい、と書いてあって筆を折りそうになった。

 ユリシアの人生だ。無闇にあれこれ口出しするのは良くないが…。

 とりあえず、ユリシアが次に着くであろう北の国の郵便局宛てに育児本を送ることにした。

 次の報告を心待ちにしたい。

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