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レオンハルトの回想

第二王子レオンハルト視点です

 目も眩むような花園の中で、二人の男女が向かい合っている。

 つい先ほど、女の方が男に対して求婚をした。いや正確には、求婚されたと勘違いした上での承諾だろうか。


 いずれにせよ、儚い未来しか見えない。





 男は、僕の腹違いの兄だ。

 二年前まで、傲慢を絵に描いたような性格をしていた。


 誰に対しても嘲笑と共に罵倒を繰り返し、自らの地位にあぐらをかき、口と態度の悪さを見た目の良さで誤魔化しているような男。

 故に、二年前、聖人に選ばれて魂を入れ替えられ、真人間として文字通り生まれ変わっていた。


 本来であれば。

 聖女及び聖人になる人間は、パレードを行って国民にその姿を披露して回らなければならない。

 祝福のためではない。

 いや、ある意味では祝福で間違っていないだろう。

 当人ではなく、この先、その人間の器を借りて生まれてくる正真正銘の”聖人”の誕生を祝してのものだが。


 何故そんな過程が必要なのかと言えば。

 そういう生き物だから、としか言いようがない。

 ”聖人”は、人の器を借りて生まれてくる。しかし、誰もが器になれるわけではない。


 ”聖人”の元となるもの…「まれびと」は、まず”神”によって卵が産み落とされる。卵は、体に取り込むだけなら誰でもできる。しかし、その孵化を完遂するには、並の肉体では不可能だ。

 誰からも必要とされず、誰にも望まれていない肉体でしか、卵は孵らない。


 何故か。

 神官が言うには、卵を生み出す”神”は、心優しい生物なのだという。故に、死んで誰かが悲しむような者では、器には選ばれない。愛する人の中身が乗っ取られるなど、悲劇以外の何物でもないのだから。


 だから、いらない肉体に卵を取り込ませる。

 卵は、人々からの祝福…「あなたが生まれてくることを皆が心より望んでいる」言い換えれば「その肉体があなたに乗っ取られても誰も悲しまない」という声援を浴びせ、安心させることで、孵化に至る。


 孵化が成功したら、生まれ変わりたての”聖人”は卵の殻だか膜だかの残骸と、とあるものを吐き出す。

 人の拳くらいの大きさをした、美しい、一匹の蝶だ。


 その蝶は、その肉体の元々の主である人間の魂なのだという。

 「まれびと」の魂が器に定着するに際し、邪魔な元の魂が姿を変えて排出されるのだ。

 正確には、「まれびと」が孵化する本来の肉体が蝶であり、それに宿るはずだった彼の魂と、器となる人間の魂とを交換している、という仕組みらしいが。


 要約すれば。普通に孵化すれば蝶の姿になる「まれびと」、その魂が人間の器に宿ったのが”聖人”。

 誰にも必要とされず無価値に生きるはずだった人間、その魂が「まれびと」の肉体に押し込まれて生まれるのが、その蝶。


 蝶は、”聖人”から分離した当初は、まるで自我があるように動き回る個体もいるという。しかしいつしか他の蝶と同じように緩慢に規則性もなく宙を漂うようになる。

 蝶は保護され、神殿の奥深く、花園と呼ばれる聖域に閉じ込められる。そしてそこで揺蕩って暮らす。死ぬことも老いることもなく、花の上を舞い続ける。

 何より美しい光景であり、神官は皆、彼らの世話を惜しまない。魔力が満ちている限り水も餌も必要としないから、特に施すこともないらしいが。


 ”聖人”は、才能を宿して生まれてくる。

 どんな才能に目覚めるかは個人差があり、優れた執政者になる者、学問の水準を大きく引き上げる者、異質な建造物を生み出す者もいれば、稀代の料理人になる者もいたそうだ。

 いずれにせよ、我々には想像も付かぬ知恵を携えた彼らは、国に大きな利益をもたらし、目覚ましい繁栄と発展を引き起こす。

 故に、実態を何も知らぬ国民にとっては、聖人と聖女誕生は、間違いなく祝うべき祭事なのだ。

 だから彼らは惜しみない賞賛と感謝を贈る。後にその人間の魂が取り替えられて別物になるなど知りもせずに。





 兄は、聖人に選ばれた。

 だが、兄はパレードを、行っていない。

 

 正確には、”聖人”となってから、パレードを行っている。


 何故か。

 簡単な話。

 兄は、本来聖人に選ばれる器ではなかった。


 聖女と聖人は、王族や貴族など人の上に立つ血筋を受け継いだ者達の中で、五歳になるまでの間で候補が選別される。そこから十年成長を見守られ、どうしても、どうやっても改善の可能性の一つも見込めなかった者のみが、認可される。


 認可の条件は非常に厳しい。まず第一、「誰にも必要とされていない者」など、言葉では簡単だが実際には非常に少ない。存命の肉親が愛情を注いでいればその時点で候補から外れる。とはいえ”神”はあくまで国の守り主なので、判定範囲は全世界ではなく国内に限定される。

 第二に、能力の基準がある。嫌われ者でも平凡以上の能力があれば選ばれることはない。仮に、その能力すら劣っていたとしても、だ。

 第三の条件。当人が、自身の能力不足を把握し、それを改善しようと努力しているか、あるいは努力していなくてもそうであると自覚しているのならば、「将来性はある」と判定される。


 それらの条件を満たし、かつ、上級貴族と神官が満場一致で賛成をし、その上、最終決定を”神”が下さなければ、聖人と聖女は生まれない。


 故に、滅多にないのだ。

 ましてや聖人と、聖女が同年代に選ばれるなど、前代未聞に他ならない。


 兄は、不出来な人間だった。それは違いない。

 王妃の忘れ形見で、母譲りの美貌を有した第一王子。次代の王に一番近い王子。

 貴族の子供の平均より頭が悪く、叱られると臍を曲げて、捻くれていて、そのくせ人の褒め言葉は鵜呑みにして偽りかと疑いもしない。

 けれども。聖人に…「まれびと」の器として捧げられる贄になる程では、ない。


 だが事実、兄は聖人に選ばれた。

 陰謀があったのは否定しない。僕も加担した。生家のいざこざに巻き込まれて嫌と言うほど疲弊しているのに更に婚約者として虐げられるエリアナを見ていられなかった。


 過程がどうあれ、兄が”聖人”になったのは、揺るぎない結果だ。


 故に。神の奇跡によって兄が自らの肉体を「まれびと」から取り返し、”聖人”を脱却したという大事件など、到底受け入れられるものではなかった。





 兄が”聖人”の儀を終えた時、心底安心した。

 賢王たる父に助力を得て、貴族の賛同を集め、堅物の神職者を口説き落とし、表向きは兄と懇意にする騎士団に全面的に協力してもらい。

 けれども、”神”の卵は得られず。


 通常、儀式に用いる卵は、常人には姿すら拝めない”神”より直々に大神官が賜る。人があれこれ選ぼうと最終決定を下すのは”神”。聖人と聖女候補の肖像を、”神”が吟味して、許可したならば卵を与える。

 しかし、兄の事例で、”神”は卵を下賜しなかった。

 直ちに取り止めようとする大神官を洗脳するのにどれほど労力を要しただろうか。


 結果として、兄には非正規の卵が使われた。賜ったものではなく、”神”の寝床から拝借したものだ。賢王に心酔している心強い味方であった神官が決死で回収してくれたが、彼は後に国を出奔した。


 卵は、通常、真っ白な色をしているらしい。だがその卵はどちらかといえば灰色に近く、くすんでいた。

 とはいえ卵には違いない。


 騎士団を信頼し切っている兄を、騎士の宴に呼び出し、その最中で卵を取り込ませた。

 意識の朧げな兄を迅速に神殿へと運び、魔力に満ちた空間で、孵化の促進のため、宿主の絶望を煽るために、聖人の概要について懇切丁寧に説明する。

 聞こえているかも定かではないが、「聖人に選ばれるのは無能である証です」と言った時に瞼が痙攣したから、少しは耳に入っているのだろう。

 その後は、ありったけの祝福を送り、”聖人”を誕生させる。


「兄上。おめでとう。これでようやく僕たちは自由になれます」


「覚えていますか、貴方の母君が最期に言い残したこと。貴方に、貴方が死んでも誰にも泣かれないような人間になれと言われた、あの言葉です。おめでとう、その通りになりましたね」


「貴方は、ご自分を賢いと思っていらっしゃるのでしょう。父に言われたことがありましたね、お前は十分頑張っている、もう頑張らなくて良いと。真意も分からず、表面だけ間に受けて貴方は勉強すらやめてしまった。それが馬鹿なのですよ。陰で続けるものなんですよ、そういうのは」


「だから、言いたい放題言われる羽目になるんです。無能のレッテルを貼られて、周りの人達に見限られて…こんなことになってしまうんですよ」


「兄上は騎士と仲が良かったですね。任務にもついていくほど懇意になさっていた。けれど皆、兄上がいないところでぼやいていましたよ。でしゃばりな子供のおもりに加えて、才能のない者に嘘をついて褒めちぎるのは大変だって」


「放蕩者の兄上に子供がいなくて良かった。盲目に慕う縁深きものがいれば、きっとうまくいかないですから。だから、聖女と聖人は、十五歳までの子供しか選ばれない」


「貴方がいなくても誰も困りません。皆が喜びます」


「だから、ありがとう」


「ありがとう、兄上」


 何度も頓挫しかけた。

 だが、計画は遂行された。


 無事、兄は”聖人”になった。

 しかし…共に生まれてくるはずの、蝶が見当たらなかった。


 転げ悶えて卵の殻を吐き出し、しばしの放心のあと、”聖人”は僕を見て「異世界転生した…ってコト!?」と騒ぎ出した。

 兄の魂を宿しているはずの蝶の捜索を一旦諦め、”聖人”に対応する。

 純正の卵でないからか、”聖人”は才覚溢れる超人には程遠く、残念ながら国の利益にはなりそうもなかった。


 そしてやはり、蝶は見つからなかった。





 ”聖人”の兄と神殿を後にし、薄暗い森に出て馬車まで歩く途中、彼が何もないところで躓いた。大丈夫かと手を差し伸べれば、「や、す、すいませっ運動神経悪くてすいませっ。足が長過ぎて転んじゃったぜタハハ…へへへへこんな優しいイケメンのお兄ちゃんになれるたぁ…いやーワンチャンダイブした甲斐があったってもんよねTSは予想外だったけど」と微笑まれる。

 口を開けば罵詈雑言で常に渋面で僕を嫌悪していた兄が、緩め切った表情でしがみ付いてくるのは気味が悪いどころの話ではなかった。


「そういや私って婚約者とかいるの?定番だよね」

「いらっしゃいますが…」

「マジか。さては婚約者抑圧系…?俺様系弱頭王子…?」

「…そうですね?」

「っひょーやっべ。てことはあれか?可愛い系の淫売ヒロインいるのか?十五歳で既に子持ちだったりするのか!?」

「子供はいないかと…もし子がいれば、”聖人”にはなれなかったでしょうから」


 親が愛していれば聖人、聖女に選ばれないのと同様に。

 生まれたての子供は、無条件で親に縋るものだ。人間だけでない、それは種族関係ない自然の摂理。


 故に。

 子供がいれば、聖人と聖女にはなり得ない。卵は孵らないのだ。


 そんな会話をしながらふと、気配を感じて振り返る。

 道端の草むらに、芋虫が見えた。黒地に赤の模様が目に毒々しい。

 この森には大型の生物の気配があまりしないが、小さいものはいるところにはいるものだ。

 芋虫は、すぐに姿を消してしまった。





 ”聖人”となった兄を懐柔するのは驚くほど容易かった。

 彼は盲目的に僕を信用し、見せかけのパレードにも喜んで参加し、けれども人前に立つのは慣れていないのか事あるごとに僕に縋ってきた。


 エリアナとの婚約も解消した。彼女はようやく自由になれた。黒魔術に手を染めた両親の処罰も、そろそろ目処が立っている。完全に解放される日も近い。


 エリアナは、スワロウテイル公爵家の長女だ。

 スワロウテイル家は、現国王との折り合いが良くない。というより、先代国王との仲が良過ぎた。

 先代国王は血気盛んな強硬派であり、自ら騎士団を率いていくつもの国を侵略する暴君だった。実子である現国王、つまりは僕の父である賢王に王座を譲るまで、その勢いは留まるところを知らなかった。

 しかし、王座を失ってからは一気に耄碌、晩節を汚し、騎士団からの信頼にもヒビが入って息を引き取った。


 そんな先代国王と、先代公爵は親友とも呼べる仲だった。

 先代国王の後は賢王が継いだが、公爵は、そうではなかった。

 新たな公爵は、病気の娘のために何を放り出しても構わないような愚か者だった。


 エリアナには妹がいた。病弱の娘だ。生まれてすぐに、心臓の疾患のため死に至る運命にあった。

 それを、公爵は捻じ曲げた。

 先代国王が戦に勝つため密かに起用し、関係を築いていた黒魔術師たちにまんまと唆され。力を借りて疾患を取り除き、後遺症を残しながらも娘を強引に生き延びさせた。

 黒魔術は、禁忌。古来よりそう定められている。

 故に公爵は一度その力を借りた後は関係を断ち、正規の医者を巡って娘を助け出そうとしていた。


 その間、もう一人の娘、物分かりの良い長女は、放っておかれていた。


 惜しみなく愛情を注がれる妹を後目に、長女は黙々と勉学に励み、交流の輪を広げ、理解のある叔父夫妻の支援もあって、独り立ちする準備を整えていた。

 横暴な婚約者アレクサンダーにも負けず、彼女は努力し続けた。


 そしてようやく、時は来た。


 第一王子アレクサンダーは”聖人”となり、自ら王位継承権を放棄し、エリアナとの婚約を白紙に戻した。


 同時期に、僕たちも下準備を終えていた。


 スワロウテイル公爵夫妻は、病気の娘のために異国の魔術師の手を借りた。結局医学ではどうにもできず、魔法に頼るしかなかった。

 夫妻は、恩人である魔術師を、故郷へ送り届ける途中、不幸にも事故に遭った。

 夫妻は死亡し、当主の座は叔父夫妻へと移ることになった。

 エリアナは、第一王子が権利を放棄した今、次期王の最有力である第二王子レオンハルトとの婚約を結び、次期王妃として再び一歩を踏み出した。


 そういうことになった。


 黒魔術を利用したとなれば、公爵家への醜聞も逃れられない。故に、それは伏せられた。しかし禁忌には違いない。罪は罪。

 公爵夫妻は、その責任を取らなければならない。


 夫妻は、今際の際に「娘に伝えてくれないか。約束を守れなくて、すまない」と言い残したそうだ。

 よほど病弱な娘を愛していたのだろう。そんな人間だから、粗末な最期しか迎えられなかった。


 エリアナは。

 全てが済んでから、両親が死んだと聞かされた彼女は、目を見開いて静止した。

 やがて、「…幼稚な夢でした、本当に」と呟いて、現実を粛々と受け止めた。

 彼女は、謀略を知らなかった。僕が知らせなかった。

 虐げられ、ずっと耐え忍んできたのに彼女は、両親にすら情を持ち、元凶の妹すら気遣っていた。

 これ以上、優しい彼女を苦しめ、悩ませることは、許せなかった。





 公爵夫妻が死に、居場所を失った者がいた。

 例の、妹である。

 妹は、ろくに教育も受けていなかった。

 病気で寝込みがちとはいえ時間など膨大にあるだろうに、勉強をすることもなく、親に読み聞かせてもらった絵本程度でしか字に触れず、もちろんマナーなど一つも弁えておらず。


 そんな妹が、エリアナと同じ学園にやってきて、寮生活を送ることになった。


 エリアナは当初、自身の部屋に妹を同居させるつもりだった。

 しかし、妹があまりにも厄介者だったから、婚約者から解放されてようやく自由を掴んだ矢先であまりにも負担が大きかったから、別の部屋になった。

 エリアナを責めることなど誰もできないだろう。


 エリアナを気遣い、同級生たちは妹に優しくした。

 妹がどんな言動をしても、笑って…失笑と言ってもいいかもしれないが、受け流した。

 その実、期待している者がほとんどだっただろう。

 第一王子のように、彼女が聖女に選ばれることを。


 ”聖人”たる第一王子は、同級生の知的好奇心を満たすには足りない存在だった。

 彼は、残念ながら歴史に残る”聖人”や”聖女”のような才能を保有していなかった。


 今度こそ、我らの想像を超える、魅力溢れる偉人が現れるはず…と知らず知らずのうちに妹には注目が集まっていた。

 故に彼らは、妹を無知のままでいさせた。

 何も知らず、無能で、誰の役にも立たない。

 もし学ばせてみて、もし人並みに知恵を身につけることができてしまったら。聖女に選ばれる可能性も減ってしまう。

 それならばこのまま放置して、可能性を上げた方が良い。


 聖人、聖女に選ばれる最終決定が下されるのは十五歳。妹は、ちょうどその年齢。

 何も教えることなく、何も正すことなく、温かく見守ろう。


 そうして…妹は、聖女に選ばれた。









 あれから色々あり。

 何の因果か、兄も、妹も、五体満足で僕の前に座っている。


 兄は、彼女と身を固めるつもりらしい。

 妹は夢を語っている。どこまででも行けると、目を輝かせている。

 しかし、それは幻想に過ぎない。

 彼女の脳内には、目の前のおとぎ話めいた花園と同じ環境が広がっているのだろう。


 残念な話だ。彼女は、兄とは違って、正式な聖女なのだから。

 僕はもう、兄に何もしない。

 けれど、妹にはそうもいかない。


「失礼ながら、ユリシアさん。貴女はこの国から出られませんよ」


 何が家族だ。ずっと親の関心を独占しておいて姉のエリアナを気遣うことすらせず、迷惑ばかりかけ。家族扱いしてこなかったのはお前だろうに。

 感情を抑えて告げると、きょとんと妹は目を瞬かせる。


「貴女は聖女です。貴女には、聖女として生まれ変わり、この国を導く役目がある」

「それはもうお断りしたわ」

「いいえ、貴女の意思は関係ありません。貴女が聖女にならなければ、公平性に欠ける。不平等であり理不尽だ。エリアナに苦渋を舐めさせておいて謝りもせずによくものうのうと…」

「レオン」


 エリアナが腕を引いた。我に返る。

 良くない。先ほどから感情が乱れている。予想もしていないことが起きて気が動転している。

 深呼吸をして、妹と向き合う。その隣に兄が無表情でいるのも、気味が悪い。兄が嘲笑してくる図はいくらでも思い浮かぶのに、じっと見つめられているとかなり違和感がある。”聖人”だった兄とも違う不気味さだ。


 妹は僕の様子など気にもせず、姉に問いかける。


「…お姉様、クジュウを舐めたの?」

「…ユリシア。私は…私は、確かに、苦しかったところはあります。父上も母上も、貴女が大好きだったから。でも、羨ましいなどとは、口が裂けても言えない」


 思わず横顔を見やる。エリアナは、急に知らない話をし始めた。


「貴女…貴女が、うまく歩けないところを、見たことがあります。痩せ細った足で、真っ白な顔で、両脇から支えてもらわなければ、進むことすらできないところを。喉が腫れて水も飲めず、会話すらままならないところを。お土産に宝石みたいなお菓子をもらって、でも食べることはできなくて机に飾っているのを。私と一緒に劇を見に行きたがって、駄目だと言われたら「じゃあ、いつかのお楽しみに取っておくわ」と笑顔で答えたのを、知っています」

「…それは、貴女には関係ないことでしょう、エリアナ。彼女がいくら病状が悪くても、貴女が捨て置かれるのに正当性が生まれるわけもない。貴女が苦しんだのは事実だ」


 咄嗟に口を出すと、エリアナは「事実です」と唇を噛んだ。


「私が頑張っても、父上も母上も、ユリシアにかける言葉ほど熱量は持ってくださらなかった。でも、あの人たちは、私を無視していたわけじゃない。忙しくて相手をする暇はなくても、いらないものと扱われたことは一度もない」


 だから何だというのだ。


「…そうだとしても。公爵としては、あるまじき姿だ。娘のために仕事すら投げ出していた」

「それは、そうです。あってはならないことに手を出してしまった。だから納得しています。ただ…身内としての感情は、別という話です」


 理解できない。


 妹は、目を見開いたまま、夢にも思わなかったかのような口ぶりで尋ねる。


「…お姉様、辛かったの?」

「…ええ。それは事実です」

「そんな…私、知らなかったわ。お姉様、だって、ずっと」

「気づかなかったの間違いでしょう、自身の鈍感さをエリアナのせいにしないでいただきたい」


 取り繕うのも忘れるほどそいつに惚れているのか貴様、と兄がぼそりと呟いた。血の気が引いて口をつぐむ。

 エリアナが苦笑いし、改めて妹に向き直った。


「…確かに、辛かったです」

「ご、ごめんなさい、お姉様、私、何も」

「いいえ。違うんですよユリシア。だって、貴女は、辛かったのですから」


 私とは辛さの種類が違いますが、とエリアナは切ないとも言える視線を狼狽する妹に捧げる。


「貴女は、死なないためにずっと頑張っていた。体を蝕む苦しみに耐え、痛みに耐え、毎日、部屋の中で静かに戦って…」


 そこで、唐突にエリアナは言葉を途切れさせた。

 震える唇を噛む。彼女は我慢する度にそうするから、跡が刻まれてしまっている。


「そ、それを…私は、貴女が、聖女に選ばれてからようやく、分かったんです。今まではずっともやもやして明文化できなかったものが、整理できたんです。よりによって、貴女が、出立してから…」


 妹に対する複雑な感情は、妹の喪失によってやっと形が取れた。

 自分も辛かった。ユリシアも辛かった。種類は違くとも同じ方向性の感情を持つ同士だったのに、己はそれを把握し切れていなかった、と語る。


 取り返しのつかないことになってしまった。聖女になったらもう、二度とユリシアには会えない。

 けれど、貴女は生きていた。生きて、何かの死を悼んで、泣いて…こうして、会話している。

 噛み締めるように言って、エリアナは潤む碧眼を細め、呆然とする妹の姿を眺める。


「…貴女は、私の家族です。何があっても、死んでも…それは、変化しようがないのです。貴女が、先に言ったように」

「お姉様…ごめんなさい、私、何も知らなかったわ。お姉様の気持ち、考えもしなかったのよ」

「ごめんなさい、ユリシア。私は貴女を見捨てました。破滅に向かう貴女を見ないふりして、貴女が聖女になるのを、貴女の人格が殺されるのを、是としたのです。許されるべきではありません」

「いいのよ。だって私は生きているんだもの」

「ええ。私も生きています。だから…」


 貴女を、私は送り出します。

 貴女が幸せになるために。

 エリアナは、そう告げておずおずと妹の手を取った。

 妹は笑顔で握り返し、すぐ隣に座る兄はそれを無表情で見守っていた。





「…駄目ですよ、そんなことは。そもそもの話、彼女は黒魔術に、禁忌によって生かされた娘だ。本来であれば死んでいる、生きていてはいけないもの。そうでしょう?処刑するか、聖女になるしか選択肢はない」

「異国の魔術師に検査を受けました。ユリシアの体に痕跡は残っていません。証拠となる品は全て、貴方が当時片付けたでしょう、レオン。万が一私に追及がされないように。故に貴方は、一件が明るみに出る前に公爵の暗殺と関係者の国外追放を強行したのですから」

「ならば道理の話をしましょう。その娘を生かすために、医者を探すために、公爵家がどれほど身銭を切りましたか。どれほど莫大な額を費やしましたか。たった一人、生き延びさせるために公爵がどれだけ走り回ったことか。彼女が聖女になれば、それを補って余りあるほどの利益が生まれる。ユリシアさん。あなたでもこれは分かるでしょう。生きるのにはお金がいる。今まであなたは常人より遥かに超えるそれをかけられてきた。その補填もせず、全部無駄にして、逃げて、貴女は一人好き勝手に生きると言うのですか?」


「お、お金…ごめんなさい、私、貯金は使ってしまったのよ。学校で生活してた時に…」


「父上が医師の捜索に充てていたのは家のお金ではありません、個人的な財産です。叔父上に執務を託した際に公爵家の財政も預けていましたから。そもそもそれは公爵家の問題、貴方に口を出される筋合いはないはずです、レオン」

「ユリシアさんが自覚しておられないようなので教えて差し上げたまで。分かっていただけますか?ユリシアさん貴女は、今まで親に大切に育てられてきた恩も返さず、人として当然の責任を投げ捨てて、一人国外逃亡しようと、そう仰っているのですよ?」


「死人に金は返せないでしょう、レオンハルト殿下」


 僕とエリアナの論争に割って入ってきたのは、武骨な声だ。

 それまで遠くで大神官と意見を違えて争っていたはずの、騎士団長。剣を背負った大柄な男が歩み寄って口を挟んできた。

 ここに至るまでずっと無言で成り行きを見守っていた兄が、わずかに視線を下げて唇を引き締めた。

 それに気づいていないのか、それとも気づいて無視しているのか、騎士団長は遥か高みから無機質な目を向けて淡々と僕に語りかけてくる。


「殿下は先に仰られた。儀式を受ける前の聖女が命を落としたところで、悲しむ人間はこの国にはいない。故に、その娘が命を落とそうと魔物を討伐せよと」

「…それが何か」

「ならば今ここで私がその娘を切り刻んで殺したとしても、殿下には何の否やもないはずでしょう」


 雰囲気が一変した。騎士団長が柄に手をかけ、音もなく刀身を引き抜く。血相を変えてエリアナが妹を背に庇う。妹は目を丸くする。せめて彼女を引き離そうと僕は腕を引く。


 唯一、兄だけが微動だにせず騎士団長を見つめていた。


「…さて。今、私は聖女候補を殺害し、その娘は死人になりました」


 あっさりと宣い、騎士団長は何事もなかったかのように剣を納める。呆気に取られるエリアナと妹を気にもせず、話を続ける。


「ですが世間に公表されるのは、神殿に魔物が出没し、聖女が巻き込まれて命を落としたというもの。そして、その後到着した騎士に魔物が討伐されたというもの。私に汚名はつきません。何故なら、国王陛下が騎士団長の名に傷がつくのを許すはずがない。由緒正しきスワロウテイル公爵家が今なお健在なのと同じように」

「…何のつもりです」

「結果は同じなのです、レオンハルト殿下。ここで聖女が死のうと、逃げ出そうと、あるいは正式な聖女となって別人になろうと。どちらにせよ、彼女の魂が国からいなくなることに変わりはない」

「…それが、なんですか」

「それが国王陛下の意志である、と。陛下の思惑に唯一反するとすれば、彼女が自我を保った状態でこの国にとどまること。それさえ犯さなければ、あとはどうでも良いのです」


 騎士団長は長々と主張した後で、「賢王たる陛下の子ならば、理解できぬはずがありますまい」と見下してくる。


 深呼吸をして、思考を整理する。


 …理解できるとも。父は、黒魔術という存在を葬りたいのだ。凡人からの干渉を拒絶し誰にも姿を見せず、類稀なる才能を有した人智の及ばぬ偉大な魔術師達を、あろうことか豪胆な先代国王に懐柔され友好的な関係すら築いてしまった者たちを、許すことができない。

 だから、黒魔術によって生き延びた娘など、許せるはずもない。


 だが、父は殺戮者ではない。

 必要があらば躊躇なく人命を奪うことはあれど、必須でなければ踏み込まない。

 神殿に侵入した魔物が滅し、事態が終息してしまった現状。「犠牲の拡大を防ぐため人質の命を諦めてでも討伐する」という大義名分がとうに消えてしまった以上、妹の命を今更刈るのは、その意に反する。


 理屈は分かる。納得もする。

 しかし、ここで引き下がる訳にもいかない。


「ところでアレクサンダー殿下。随分と見慣れた目つきになられたようですが、聖人遊びはもうよろしいのか」

「戯言を。俺に斬殺されても文句は言えん立場だと弁えろよ木偶の坊」

「向けられる恨みを数えたら生涯では足りますまい。私は私の責務を全うしたまで。我らは、国王陛下に忠誠を誓う騎士団である。無知蒙昧な王子に捧げる心などありませぬ」

「…貴様らが、俺にとって最悪の裏切り者であることに変わりはない。だが…何故…何故、貴様らは、俺に教えた」

「何も教えたつもりはありませんが」

「…貴様らは…俺に、自然で生き延びる術を教えた。着の身着のままで放り出されても、生きていく方法を。それは何故だ」

「何故か、と問われても困りますが。好きなように考えればよろしい。私共の情によるものか、あるいは国王陛下の親心か、もしくは気まぐれか、誰かの策略か…。明確な答えを与えれば、貴方はそれを盲信なされるでしょう。自らは血の通わぬ薄っぺらい謗言ばかり並べるくせに人から向けられた言葉は真意と断定し真実と思い込んでしまう。貴方の悪い癖だ」


 殺伐とした気配で、しかし敵愾心はなく妙に温いやり取りを交わす兄と騎士団長に、隙を見て口を挟む。


「…意図は分かりました。ユリシアさんが死んでも、国外逃亡でも、もたらされる結果は同じ。ですが、聖女の役目は既に振り分けられています。祭事も行い、民へのお披露目も済んでいる。”聖人”となって利益を生まないなら、祭事にかかった経費はどうなります?何より、彼女は第一王子と違って、本物の卵を”神”に与えられている」

「おいどういう意味だ貴様」

「”神”が最終決定を下したのです。それを覆すなど有り得ない。そうでしょう?」


「それが、有り得るのですよ、レオンハルト殿下」


 例によって割って入ってきたのは、柔和な声だ。

 負傷から目覚め意識を取り戻してすぐに、騎士団長と激論を交わしていた大神官が、配下を引き連れて立っている。

 実に晴れやかな、嫌な顔だった。


「近頃ぼやけていた視界が澄み渡ったようです」

「…何のお話です」

「貴方がたのおかげですよ、アレクサンダー様、ユリシア様。これまでの私の愚行、平にお詫び申し上げます」


 僕の問いに答えることなく、大神官は好好爺の風体を崩さず続ける。


「私は目の当たりにしました。神が自ら動かれるのは、いやはや何十、何百年ぶりか…神は、貴方の魂を救済することを選択されたのです、アレクサンダー様。そして、その選択を決定づけたのは、貴女です、ユリシア様」


 兄は無表情で、妹はぽかんとその言い分を聞いている。


「第一に優先すべきは、神のご意志に他なりません。神が貴方がたを救われた以上、我々は、貴方がたを応援いたしましょう。幸い、魔物の襲撃という事件は現実に発生しています。その正体が何であれ…起きたことは利用させていただきましょう。この事件で、ユリシア様は命を落とした。聖女は、生まれなかった。そう説明なさればよろしい。経費の問題ならば、アレクサンダー様の儀礼に際し王家より莫大な”寄付”をいただいておりましたし、それをそっくりそのままお返しいたしましょう」


 飄々とのたまい、大神官は両手を打ち合わせる。


「それで、この件はおしまいです」

「馬鹿な」


 何を言い出しているのか。

 僕の呟きに反応して大神官が、「おや、レオンハルト殿下。本日は随分と素直でいらっしゃいますね」と微笑む。悔しいがその通りだ。今日の僕はどうかしている。普通ならこんなこと口に出したりしないのに。


 原因は明らかだ。

 兄の存在。もうとっくに消えていたと思っていた男が、目の前にいる。それがどうしようもなく僕の平常心を奪い、冷静さを欠けさせている。


「騎士団長殿にもご了承いただけました。もし貴方がたがこのまま出国したいと申されるならば、辺境まで護衛をおつけいたしましょう」

「貴様らを信用しろと?」

「選択は貴方がたにお任せいたします」


 にこやかな雰囲気を乱さない大神官と、無言で腕を組む騎士団長を値踏みするように見つめてから、兄は「お前はどう思う」と妹に尋ねた。


「お手伝いしてくれるんでしょう?だったらありがたくもらいたいわ」

「そうか」


 後方に控える騎士らをちらりと見る。国王陛下に忠誠を誓う騎士団。いくら言葉を交わしても、兄にとっては、聖人の儀式を行うために騙し担ぎ上げた犯人達だ。了承するはずがない。


「もし裏切られたら走って逃げるがお前は走れるのか」

「もう、それくらい大丈夫よ。広い学校の中を一時間で全部回ったこともあるんだから!」

「何も大丈夫ではないがまあいいだろう」


 予想外のことが次々に起きている。

 もしかしたら夢なのかと錯覚するほど僕は夢見がちではない。現実はいつだって苦々しい。起きてほしくないことほどよく起きる。


「…うまくいくと思っていらっしゃるのですか?兄上。貴方も、ユリシアさんも、この国から単身で外に出たことはないでしょう。彼女に至っては一般常識すらない。そんなお二人が、何の知識もなく、能力もなく、外の国で生きていけると考えておられるならば、見通しがあまりにも甘いのでは?」

「そうだな。苦労するだろう」


 兄が否定しない。また信じられないことが起きた。

 「だが」と続けられたので、少し安心する。


「…虫の魔物になって這いずるのに比べたら、なんてことないだろうな」

「はあ?」

「別に魔物でもいいのよ。生きていてくれたら。勝手に死んじゃうのが絶対ダメ!分かった?」

「…分かってる。悪かったと言っただろう」

「もし今度私が魔物になったら頑張って生きるから、手伝ってね」

「不吉なことを言うのはやめろ…せめて声帯が残っている種類ならばいいがな。言葉が通じないと難易度が上がる」


 途中で割り込んだ挙句、妹は兄と意味も分からないやりとりを続けている。

 唖然とする僕の背を、穏和な顔でエリアナが軽く叩く。

 僅かに冷静になって、「素敵な夢物語ですね。まるで悪夢だ」と兄に言えば、「悪夢はさっき冷めた。夢はこれから叶えにいく」と返ってきた。

 何を言っても無駄なことを悟って、僕は、それ以上干渉するのをやめた。


 その後、二人の男女は国を旅立ち。二度と会うことはなかった。

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