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ユリシアに起こったこと−6「蝶」

 神官が遠目からユリシアを発見するのは、迅速だった。

 男に暴力で吹き飛ばされた神官だ。あの後も負傷した体を引きずってユリシアの元へ戻ろうとしていたらしい。ご無事で良かったと感涙していた。

 回りくどいことは抜きにして、ユリシアは神官に本題を告げる。


「本当に、あなたたちは私を大切にしてくれる?お願いを聞いてくれる?」

「無論です。貴女の命は我々の至宝。ご要望ならば何なりと」

「じゃあ、神殿の偉い人に会わせてほしいの」

「勿論、問題ありませんとも。さあ、どうぞこちらへ」


 ユリシアは神官に導かれ、真っ白な石で築かれた神殿に足を踏み入れる。ぴりぴりと肌がざわつくような感覚がした。相変わらず腹は膨れたままだ。むしろ神殿に入ってから次第に大きくなっているようにも見える。

 身重のユリシアを、神官はいちいち気にかけながら広間へ案内する。


「大神官様!聖女様を保護して参りました」


 喜色を浮かべ宣告した神官に、ぼうっと祭壇を眺めていた老人は「まさか」という形相で振り返った。

 ユリシアを視界に収めると、一瞬目を見開いてから、柔和に相好を崩す。


「おお、なんということ…!よくぞおいでくださいました、聖女様」

「あなたが、一番偉い人?」

「この施設内で言えば、そうです。いやはや、魔物に襲撃を受けてなおご無事とは、やはり神のご加護をその身に受けていらっしゃる証。早速儀式を行いましょう。正式な聖女として認定される儀を…」

「今日は、そのことでお話に来たの」


 ユリシアは、体内に急速に蔓延る熱に負けず、はきはきと告げた。


「聖女になるのを、お断りします」

「…何と?」

「だから、このお腹を何とかしてちょうだい。動きにくくって仕方ないわ」


 ユリシアの後方に控える神官が瞠目し、そわそわと体の向きを揺らす。対照的に大神官は動じない様子で「何故そう思われたか、理由をお聞かせ願いましょう。ひとまずは場所を変え、落ち着いてお話を」とユリシアを別室に案内した。


 大神官に待機を命じられた興奮気味の神官とは途中で別れ、老人と少女は神殿の奥深くに入り込んでいく。

 連れてこられたのは、奇妙な空間だった。

 建物の中なのに、花畑が広がっている。天井は高く、青く染められているから、目を凝らしてみないとまるで青空の下にいるように錯覚する。

 そしてそこには、二人の人間の他に生命が存在していた。

 夥しい量の蝶が、空中をゆらゆらと舞っていた。


「…さて。聖女様。貴女は、何故役目を拒否するに至ったのです?」

「私は聞いたの。聖女になったら死んじゃうって。それは、ダメなの」


 ユリシアは碧眼を伏せながらも、確固として告げる。


 確かに、ユリシアが聖女になれば、皆が喜ぶのだろう。歴史に名を残す偉人になれるのだろう。その聖女は、今のユリシアよりもよっぽど賢くて、皆の役に立てて、誰からも好かれるのだろう。けれど。


「やっぱり、祝福されていなくても、世界の誰にも望まれていなくても、私は、死にたくないから。お断りするのよ」

「何故、死にたくないのですか?」

「だって、生きて幸せになりたいから」

「ならば、何の問題もありません」


 大神官は、ゆっくりと頷き、唐突に甲高い奇声を上げた。ぎょっとするユリシアに構わず、老人は懐から小瓶を取り出すと少女の足元に叩きつけて割る。

 途端に、ユリシアの視界が無数の影に覆われた。


 それまで優雅に漂っていた蝶の大群が、一つの意思に導かれるようにしてユリシアの周りに集っている。

 息を吸う暇もなくユリシアは蝶に群がられる。無数の羽音が耳元でこだまし、呼吸をする度に大量の鱗粉が肺の奥深くまで侵入する。

 少女は間も無く力をなくし、膝をついた。


「我らが神よ…どうぞお導きください」


 柔らかな声を最後に、ユリシアは意識を失った。





 気づくと、棺の上だった。

 花で埋め尽くされた真っ白な棺だ。己の体もまた、純白のドレスに包み込まれている。不思議な力が織り込まれているのか、服は、ユリシアの胎動を促すように、熱を内側に送り続けている。

 聖女誕生のパレードを行った時と同じ格好。同様に、周りにはユリシアを祝福する人々もいる。

 違うのは、ユリシアはもう手を振る力もないことと、前方に大きな何かがいること。


 棺は、数人の神官によって担がれ、静々と、その何かに向けて運ばれている。見渡す限り美しい花園の中で、それはあまりにも異質だった。

 異質な、虫の形をした巨大な神だった。


「お救いください。ここにいるはユリシア・スワロウテイル。生まれてすぐ死ぬ定めを両親と黒魔術によって捻じ曲げられ、副作用となる病魔に長らく身を蝕まれ、何をなすこともできず生きて参りました。異国の魔術によって回復したものの、両親は不幸な事故により他界、頼れる身寄りもない哀れな娘です。どうかお救いを」

「お救いを」

「お救いを」


 大神官の懇願を、一列に並びユリシアを祝福していた神官たちが復唱する。

 やがて棺が神の眼前にたどり着いた。運搬役の神官が速やかに退出していく。

 ユリシアは寝かされた状態で、一人、神と相対する。


 奇妙な神だった。茶褐色の体躯は人の倍はある。複眼は黒く濁り、顔の形と細長い手足は蟷螂にも似ている。だが背には蝶のような羽が畳まれており、尾には蜂のような針があった。

 神は無機質な目で棺の上のユリシアを覗き込む。

 同時にユリシアにも神の姿が視界いっぱいに入る。その腹には、びっしりと、白く丸い卵のようなものがくっついていた。


「神よ…どうか、お救いを」


 大神官の清廉な声に呼応するかのように、神が動く。ユリシアに覆い被さるように、迫ってくる。


「…ご安心ください。貴女は死ぬわけではない。ただ、生まれ変わるのです。強靭な肉体を有し、崇高な精神を持ち、人身を超越した才覚で人々を導くまれびとに」


 少女の怯える気配を察知したのか、大神官が聞く人全てを安らげるような柔らかな声質で諭す。

 ユリシアがそれを受け入れ、納得することはなかった。けれど。

 動けない。体中を体験したことのない熱が支配している。恐ろしいのは、全く痛みも苦しみもないことだ。むしろ心地よさすらあった。

 そして、その心地よさを享受し、身を委ねたらどうなるか。ユリシアは、とっくの昔に知っていた。


 その先にあるのは、終点だ。


 ユリシアは必死に抗う。熱いのが何だ、動けないのが何だ、どんなに苦しくても息ができなくても、生きてきた。生き延びられたのだ。

 絶対に、死んでなどやるものか。


「…だ…」


 必死に声を出す。誰かに伝えられるわけでもない、伝わったところでユリシアを助けてくれる人間はこの場に存在しない。けれども。


「いやだ…!!」


 ユリシアは、まだ幸せになれていない。

 十分と胸を張れるほど生きていないし、世界を一周する旅にも、行けていない。お腹いっぱいのお菓子だって食べていないし、劇だって見に行けていない。


 それに、まだあの男と、仲直りしてない。

 人違いで酷いことを言われた。落ち着いたらちゃんと、あの仏頂面に謝ってもらわないといけないのだ。


 体を動かせず、しかし必死に睨み続ける少女に、神が僅かに鎌首をもたげた。

 次の瞬間に、それは訪れた。

 最初は遠く、小さく、何かが薙ぎ倒されるような音と、喧騒。それはどんどんとこちらに向かってくる。

 大神官が血相を変え戸惑う神官に指示するより早く、それはたどり着く。


 全てを破壊するような、轟音。振動でユリシアの金髪を覆う花が揺れる。

 かろうじて目線を動かしたその先で、突き破られた扉と、逃げ惑う神官が見えた。


「…あれは!?」


 老人が絶句する。

 現れたのは、到底神官たちが受け入れられない存在だった。

 古来より崇めてきた神に、よく似た相貌をした、虫だった。


 神より一回りほど小さく、しかし人と同じ巨躯のそれは、何を目的としているかも知れず、ただ神官を蹴散らしていく。

 黒い健脚を振るい、大きく開いた緑と黒の羽で暴風を起こし、数多の花びらを舞い上げる。

 気が遠くなるほど長い年月をかけて守られ、愛しまれてきた花園を、破壊していく。


「おお…!なんという、災いが…!」


 大神官の嘆きにも我関せず、神は、その虫を見ると、急速に興味を失ったように体の向きを変えた。

 そして巨大な羽を蠢かし空中をゆったり飛び去ると、空間の一番奥に鎮座し、体を丸めて眠り始めた。


 神の敵対するものではない、と大神官はそれを見て悟る。ならば討伐ではなく防衛の指針を共有しようと前に進み出て、虫の攻撃の巻き添えを喰らった。


 虫がその場にいる人間を床に這いずらせるのに、それほど時間は要しなかった。

 虫は、立派な羽を使わず六本の足を這いずって棺に近づいていく。

 花園の魔力をかき乱され、神からの重圧に解放されて、幾分かの生気は戻ったものの、未だに動けず状況を把握できない少女の頭に、己を目撃される前に虫は一本の足を不器用に使って黒い布切れを被せた。


「何?誰?何があったの?」


 ユリシアは、何度も問いかける。急に真っ黒になった視界で、答えを求める。


「ねえ、誰が…」

「………っ、た」


 微かに聞こえた音に、ユリシアは息を飲んだ。


「なかせ、て、わる、かった」


 途切れ途切れの音。人の声帯ではない、ジリジリと何かを擦り合わせて形成されたような言葉。

 音に聞き馴染みはない。しかしユリシアは相手が誰なのかを知って、大声を上げる。


「もう!今、謝らないでよ!こ、怖かった、私、さっきまで、すっごく怖い思いをしていたんだから!」

「……あ、あ。わる、かった。おま、えお、きずつけた。とてもひどい、ことした」

「だから、今はダメって!もう…!早く、この布を取ってちょうだい。これじゃ何も見えないわ」

「だ、めだ」

「どうして?」


「こちらです!」


 ユリシアの疑問を遮って、人の声がする。複数の人間の固い足音が聞こえてくる。


「ああ、騎士様…!どうか花園をお守りください、あの魔物を、どうか退治してください…!」

「無論。魔物の討伐は、我々の仕事だ。聖域への立ち入り許可、感謝する」


 騎士。到着したのは、剣を生業にしている者達だ。

 ユリシアが「この人は魔物じゃないわ」と叫ぶ前に、傍の男は、威嚇の音を放出した。

 ジジジ、ギギギと、耳が痛くなる音を響き渡らせる。


「…これはこれは。降伏の意思はなさそうだ。人質さえ何とかなれば、いくらでも遠距離攻撃ができるものを…」

「随分と醜悪な魔物ですね。こんな奥深くまで入り込んで、人質まで取るなんて…相応の知能を持っているのか」


 騎士とは異なる、聞き覚えのある冷静な声。ユリシアが誰だったか思い起こす前に、男は咆哮していた。


「ギイイイアアア!!」

「レオンハルト殿下、お下がりください!」


 どうしてここに王子様がいるの、とユリシアは驚きながらも必死で痺れる腕を伸ばし、男の体を手探りで掴む。

 ざらざらとした感触。人肌とは程遠い。しかし離すわけにはいかなかった。


「ダメ!殺されてしまうわ!」

「ヤ、ツ…さえ…ソノ、タメに…」


 暴れる男を、ユリシアは抑える。力はまだうまく入らず、ただ表皮に触れているだけの状態だが、男はぶるぶると振動しながらも離れないでいてくれた。

 けれどいつ飛び出そうとするか分からない。


 ユリシアが苦闘する間にも、状況は動いていく。


「…話が違いますよね神官殿。聖女を魔物に襲撃され取り逃し。痕跡を見つけて、もう直ぐ発見に至りそうと連絡を受け。ちょうどよく見つかったからと即刻儀式を行う予定で、新しい妹に対面させて安心させてあげようとしていたのに。これじゃ台無しだ」

「も、申し訳ありません、まさかこのような事態に陥るとは…」

「…あそこで伸びている大神官殿に、あとで謝罪してもらうとしましょう。僕はエリアナの様子を見てきます。精神安定のために神殿に来たのに。魔物の襲撃と聞いて、相当怯えているはずだ。兄上に任せてもおけないし…」


 エリアナ。その名を聞いて、更に男が威嚇音を上げる。

 ユリシアもまた、たった一人の家族がここに来ているかもしれない事実に心を乱された。


 淡々とした流麗な声は、やがて均衡を崩す。


「…危険な魔物との戦闘に巻き込まれて死者が出てもおかしくない状況だ。たとえそれが聖女であっても、不幸な事故でしょう。儀式を受ける前の聖女が命を落としたところで、心の底から悲しむ人間は、この国にはいないのですから」


 男がびくりと体を跳ねさせた。


「御心のままに。弓兵、魔術兵、前へ。他の者は大神官含め、負傷者の救出を」


 率いる者の号令に従い、複数の騎士が前線に出てくる。それと同時に、騎士の靴音とは違う、軽い足音が遠ざかっていく。

 レオンハルトが去っていく。


 男が体中に力を込めるのがはっきり伝わってきた。

 きっと男は、騎士を飛び越えてレオンハルトを追いかけていくだろう。そうして復讐を完了するに違いない。その後騎士に討伐されるとしても、男は本懐を遂げるはずだ。

 だって、そのために男は生きてきたのだから。

 

 ここで別れたら、きっともう会えることはない。

 ユリシアは、男に囁きかけた。


「ねえ、せめて、最後に…あなたの、お名前を教えて」

「……」

「お名前が分からなくちゃ、呼ぶこともできないわ」

「…ユリシア」

「うん」

「俺は」


「救出完了。総員、撃て」


 男が、ユリシアを抱きしめるように覆い被さった。


「俺の名は、アレクサンダー。姿は変わっても…違わない。人間だった」

「アレク、」

「お前が、人間でいさせてくれた」


 次いで、何度も衝撃が伝わってきた。

 何度も何度も、男の体が打ちのめされているかのように震える。ボトボトと液体が降り注いでくる。

 それでも、男の分厚い体に守られ、ユリシアに痛みが走ることは、一度としてなかった。


 静寂が訪れる。

 熱は、すっかり冷え切っている。

 ユリシアは、のろのろと男の体の下から抜け出し、馴染みの黒い目隠しを、自分の顔から取り去る。

 そこには、人間ほどの大きさの虫の死骸が転がっていた。


 刺々しい足が六本あり、一番上の左側についたものだけが妙に大きい。胴体の上体は黒、心臓の位置は赤、下部は黄色に分かれ、背中には穴の空いた大きな羽が備わっている。顔は蝶そっくりだ。緑の複眼は、仰向けで虚空を見つめている。

 体は、何本も弓矢が刺さり、魔法の攻撃によるものか黒く焼け焦げている。

 

 潰された花の上に、虫の血が飛び散っている。

 人と同じ赤色ではなかった。


「…アレクサンダー」


 名前を呼んだのに、返事はない。


「アレクサンダー」


 体を揺すっても、反応してくれない。


「どうして」


 絶好の機会だったはずだ。

 男は、復讐のために生きてきた。

 悍ましい姿に変えられて、恨み続け、全員道連れにしてやると憎悪を露わにしていた。

 それなのに、男はレオンハルトを追いかけていかなかった。


 弓矢も、魔法も、全て受け止めた。ユリシアの盾になって、死ぬ道を選んだ。


 死ぬのは、絶対にダメなのに。男は、自らそれを選択した。

 男の最後の声には、辛さも、苦しみも、乗せられていなかった。

 ただただ、穏やかだった。

 そんなの、あってはならないことなのに。だって、両親は、ユリシアに何度も言い聞かせたのだ。死は絶望だと。死んだら終わりだと、絶対に避けなければいけないと、何度も何度も言い含めた。

 それなのに、男は、後悔の一つも覗かせなかった。


「どうして…」


 焦げた匂いのする体に縋り付く。

 透明な雫が落ちてぽつぽつと跡を残していく。


「う、うっ…」


 どうして男はユリシアを庇ったのか。

 道具と言っていた。復讐のため、己の軍団を結成するために貴様に孕んでもらうと抜け抜けと言い放っていたのに、結局男はユリシアにそうすることはなかった。


 骸を抱き寄せて何度乞うても、願いは空虚に漂う。

 決して届くことはない。

 ―――遠い地で、ユリシアの知らないうちに死んでしまった、父と母のように。


「うあ…うわあああ…」


 少女の泣き声が広い空間に響いていく。


「うわあああああああん」


 大粒の涙を流し、人目を憚らず、脇目も振らず、ユリシアは泣き続けた。


「総員、充填」

「…団長、対象の沈黙は確認しました。これ以上の戦闘は無意味です」

「お前は殿下の命令を聞いていなかったのか」

「聞いていましたよ。ですが、私には…あれを攻撃することなどできない。もし貴方がそうでないのであれば、私は…刃を向けましょう」

「……ほう」

「我らは、人を守るのが役目なのだから」


 遠くで何か会話している。だが、ユリシアの耳には届かなかった。

 泣いて、喚いて、もう動かない体にしがみつき、現実を拒絶する。

 しゃくり上げて、真っ赤に染まった目元を晒して、あの時、触れることがなかった口に、形はかつてと全く異なる爛れたそれに、己の唇を押し付けた。


 気づくと、影が落ちていた。

 すぐそこに、音もなく、神が覗いていた。

 興味深そうに、男の死体を見つめていた。


「…あ、あげないわ」


 ユリシアは、両手を広げて神と男の間に体を捩じ込む。


「あげない。あなたなんかに、あげるもんですか。誰にも、絶対に…!」


「ユリシア」


 名前を呼ばれた。

 女性の声だ。


 見ると、損傷の残る入り口で、息を切らした令嬢が目を見張っていた。


「ユリシア…貴女…」

「…お姉様…」

「…貴女…生きて、いたんですね…なんてこと…」


 言葉を失う姉妹に、落ち着いた声色の青年が駆け足で割って入ってくる。


「エリアナ。一人で行動しないで、危ないでしょう…おや。生きていらっしゃるとは、まさに僥倖。聖女様、ご無事で何よりです」

「…レオンハルト様…」


 しゃあしゃあと無事を喜ぶ王子に、ユリシアは二の句を告げずに押し黙る。

 続いての乱入者も、ユリシアには信じがたかった。


「レ、レオンくん、足はや…置いてかないで…ぎゃっ!?」


 第一王子、アレクサンダー。

 男が教えてくれた名前と同じ名を持つ青年。

 鮮やかな赤髪を揺らし、ぜえぜえと彼は弟の肩に掴まって息を整えていたが、ユリシアを目撃して緑色の瞳を見開いた。


「ばっ、化け物ぉ!?」


 いや。

 ユリシアではない。彼は、後方の神を見ていた。

 不思議なことに、レオンハルトとエリアナ、それに騎士達は、巨大な神を視界に入れても何の反応もないというのに。アレクサンダーだけが、神に怯えていた。


 はっと、ユリシアは背後に視線を戻す。

 男の亡き骸が、ない。

 慌てて周囲を探す。

 頭上で神が、男を節くれ立った長い手足の中に収めていた。


「や、やめて!」

「ユリシア、何を?」

「触らないで!」


 ぽかぽかと拳を叩きつけるが、神は微動だにしない。

 あの子、何故空中を叩いているのです、と困惑したエリアナは婚約者に問うが、レオンハルトもまた肩をすくめるばかりだった。アレクサンダーは両手を胸の前で握りしめて身を縮こまらせている。


「返して。返して!」

『―――――――』

「その人を返して!」


 ユリシアの懇願に耳を貸す様子もなく、神は、死体の中央部分、ちょうど赤色に染まる箇所に、爪を突き刺す。途端に、男の体はボロボロと崩れてしまった。

 ユリシアが悲鳴を上げる。

 しかし神はそれに目もくれず。遺灰から何かを取り出した。

 真っ白な、丸い塊。

 神が己の腹に夥しくくっつけているものと、似ていた。


「……えっ」


 瞬きする間に、神は移動していた。

 恐怖に慄くアレクサンダーの眼前に、降り立つ。


「いや、ちょっ…嘘でしょ無理虫とか無理…せっかく転生しっ!!?」


 神が、アレクサンダーの胸元に己の爪を突き立てた。

 急に兄がのけぞって唖然とするレオンハルトとエリアナを気にもせず、神は、粛々と行動を完了させる。


 男の死体から取り出した白い塊と、アレクサンダーから取り出したやや薄闇に染まっている塊を、取り替えるようにして移動させた。アレクサンダーは糸が切れたように崩れ落ちる。


 最後に、神は呆然とするユリシアの前に降臨した。

 予備動作もなく少女の腹に爪を突き刺す。

 何の痛みも跡もなく、そこから白く丸いものが抜き取られた。


「…あなた…」


 神は、ユリシアの疑問に答えることはない。回収した塊を全て他のものと同じように己の腹に付け直すと、虫の形をしたそれは、再び空間の奥に飛び去り、石のように丸くなって活動を止めた。そうしていつしか、ユリシアの目には見えなくなった。


 呆気に取られたまま、ユリシアは立ち尽くす。争いの跡がいつの間にか消え失せ、異質な虫の姿もなく穏やかな時間が流れる花園で、涙で濡れた頬だけが悲劇の痕跡を物語っていた。


「…何が何だか分かりませんが。とにかく。兄上、大丈夫ですか?」


 レオンハルトが、唐突に腰を抜かした兄に気遣いを見せる。

 同時に、エリアナも放心状態のユリシアに近づこうと足を踏み出した。

 それを、彼は掴んだ。


「…うっ!?」

「……ちか、よるな」


 驚きで身を竦ませるエリアナに、彼は低音で牽制し、よろよろと起き上がると、おぼつかない足取りで少女の元へ向かう。


「…アレク、サンダー…?」


 呆然と、名前を口にするユリシアに、深い消耗を滲ませながらも、赤髪の青年は鋭利な緑眼を泳がせてぎこちなく告げた。


「…泣かせて、悪かった」


 ユリシアは息を飲んだ。次いで、抑えようのない感情が込み上げる。


「バカ…バカ!!わああああああああん」

「…また泣くのか…」


 躊躇いがちに、アレクサンダーが泣き喚くユリシアの肩に手を伸ばす。途端に少女は青年の胸に飛びつき、容赦なく押し倒して花びらを散らした。


「か、勝手に死んじゃったらダメなのよ、ダメなんだから!」

「…悪かった」

「ど、どうしてあなたはアレクサンダー様になっているの?」

「俺がアレクサンダーなんだよ、元々」

「意味が分からないわ!」


 ユリシアは大声で抗議しながらアレクサンダーの胸元を涙で湿らせていく。

 渋面を作りつつも、青年はユリシアを突き放そうとはせず、しかし小柄な背中に腕を回して抱き寄せることもできずに、青い天蓋と揃いの色を持つ少女の濡れた瞳を見つめていた。





「いい加減説明していただいてもよろしいでしょうか」


 ユリシアが泣き終わり、互いに上体を起こしてぼんやり向かい合っていた二人を裂くように、第二王子レオンハルトは声をかけた。

 後方では神官と騎士による状況確認が行われている。大神官すら負傷したのだから大事にすべきとしている騎士団長と、神が凪いでおられる、事態を大きくする必要はない、と意識を取り戻して主張する大神官とで意見が衝突していた。


 レオンハルトは、顔を強張らせているエリアナを背中に庇いつつ、花園に腰を下ろす赤髪の青年に慎重に問いかけた。


「まず…貴方は、誰ですか?」

「…自らの兄すら見極められぬとは、目が節穴に退化したようだなレオンハルト」

「…その言い方…間違いなく、貴方なのですね…兄上」


 それまで一切の悪感情を覗かせなかった流麗な声に、苦々しいものが混じる。

 同様に、エリアナも眉間に皺を寄せて、かつての婚約者を傍観していた。


「…聖人が元に戻るとは。後世に残る珍事件ですよ。良かったですね兄上。歴史に名を残せますよ。父上も大層驚きになることでしょう。天上の母君に至ってはどれだけ嘆かれることか」

「そんなもの、俺には関係ない」

「…えっ」

「どうせ、今の俺は王位継承権を放棄しているのだろう。”自らの意思”でな」

「え、ええ。そうです」

「ならば問題あるまい」


 アレクサンダーはため息を吐き、低い声色で弟に伝える。


「俺は国を出る。出奔でも駆け落ちでも好きな理由を吹聴するがいい」

「…貴方…本当に兄上ですか…?仕返しの一つや二つ、目論まれているとばかり…」


 困惑をちらつかせるレオンハルトに目も向けず、アレクサンダーは、泣き疲れて気が抜けているユリシアを視界に収めながら、呟く。


「俺は選んだ。だから、もう、いい」

「…そうですか…貴方が、そう言うなら…これ以上、貴方に何もすることはありません」


 続いて、アレクサンダーは無言で佇むエリアナに言葉をかけた。


「エリアナ」

「…何でしょう」

「貴様の妹、俺が国外へ連れていく」

「えっ!」

「貴様が何を考えていたか知らないが。結局貴様は、妹が聖女になるのを祝福した。文句は言わせん」

「…そう、ですね…」


 エリアナは唇を噛み締め、やがて何を考えているともしれない妹に声をかける。


「ユリシア」

「…あ。なあに、お姉様」

「私を、どう思っていますか」

「お姉様を…?」


 じっと、エリアナは眉を顰めて口を閉ざしている。ユリシアは何回か首を捻り、答えた。


「お姉様は、お姉様でしょう?私の家族よ。違うの?」

「…そう、ですね…違いません」


 エリアナは、震える唇を噛み、気を静めるように瞼を下ろす。しばらくして、新たな質問を提示した。


「貴女は…アレクサンダー殿下と、生きる覚悟があるのですか?」

「アレクサンダーと…?」


 きょとん、とユリシアは対面の青年に視線を投げる。至極不可解そうな面持ちに、エリアナは眉間の皺を深め、レオンハルトは気まずそうな笑みで誤魔化し、アレクサンダーは微動だにしなくなった。


「…それって、あなたと結婚するってこと?」

「おい話が飛び過ぎだそもそも俺はそこまで言っていない大体レオンハルト貴様が原因で」

「うん。いいわ!私、あなたと結婚する」

「…………な」

「結婚したらずっと一緒にいられるもの。そうしたら、もう、勝手に死んじゃったりしないでしょう?」


 微笑みかけられ、アレクサンダーは言葉をなくす。

 ユリシアは満面の笑みで、羽を伸ばすように、両手を大きく広げた。


「一緒に生きましょう、アレクサンダー。きっと私達、どこへだって行けるわ」






















本編はこれにて完結です。読んでいただきありがとうございました。

以降は補完と蛇足のお話になります。

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