ユリシアに起こったこと−5「魔物」
薄暗い空の下、ユリシアは、小屋の側にある木製の物干し竿に一列に吊るされた魚を回収していた。
川で魚を取って帰った日、男は、魚を干して保存食にしようとしていた。魚獲りの網といい、どこでそんな知識を得たのか、と聞いたら、昔、騎士の遠征についていった時に学んだと答えた。エンセイとは、と聞けば、仕事で遠くに出かけること、と教えてくれた。
男は少しだけ優しくなっていた。あれから何度か寝食を重ねたが、辛辣な物言いは相変わらずなものの、本気で傷つけようとしてくることはなく、ユリシアの家事を素っ気なく手助けしてくれる場面もあった。
ユリシアはそれが嬉しかったし、このまま一緒に楽しく暮らして男にお礼ができれば、助けてもらった恩も返せるはずだ。男への礼を完遂した、その後は、
「…ああ、やっぱり生きていたのですね!」
思考が声で断ち切られる。
いつの間にか、小屋の前に人間がいた。
聖女に任命された時、同席していた神官と一緒の服。
人間は興奮した面持ちでユリシアに迫った。
「よくご無事でいらっしゃいました。ああ、焚き火の後を見つけ、捜索範囲を広げて良かった…捜索は打ち切られたのですが、やはり気掛かりでして。というのも、魔物に襲われ、無事ではないだろう、探しても無意味だと上層で結論づけられたのです。全く無慈悲なものだ。聖職者の風上にも置けない…!人々を守るのは我々の使命だというのに…!故に、私一人で捜索を続けていたのです。もし、貴女が生きていて、一人で森を彷徨っていたら。とてもその苦しみは計り知れません」
神官は絶えず喋り続け、温かな眼差しでユリシアを見つめ、微笑みかけた。
「怖かったでしょう、もう大丈夫です。私が丁重に貴女を神殿まで護衛いたします。聖女という御身を私一人に預けるのは心細いかもしれませんが、どうぞご安心ください。これでも防衛の術は心得ておりますゆえ…」
勝手に進む話に、ユリシアは慌てて待ったをかけた。
「ダメよ。私は神殿に行かないわ。だって、死んでしまうもの」
「何を仰ります。そのような戯言を、誰に吹き込まれたのです!?」
「だって…」
「聖女の御身を狙う賊でしょうか。信じてはなりません。貴女に疑念を植え付け、懐柔しようとしているのです。ご心配召されるな。聖女様を死なせるなどとんでもない。我々は常に人々の味方なのですから、非人道的な殺人などに手を染めるなど有り得ませぬ」
「でも…」
「混乱されるのも分かります。ですが、一度神殿においでください。落ち着いた場所で貴女の疑問に全てお答えいたしましょう。貴女が望まれるのなら歴代の聖女、聖人を招集しても構いません。尤も、聖女と聖人とはそう易々と選ばれるものではなく、最近では第一王子アレクサンダー様しかおられないのですが…」
「―――ならばそいつに伝えろ。首を洗って待っていろとな」
低い声がした。
神官が振り返る先に、男は既に左腕を振り上げていた。
初めて出会った時と同じように、男は黒い剛腕で対象を空の彼方にまで吹き飛ばしていく。
悲鳴が遠ざかるのを憎々し気に見送り、目隠しをしている男はユリシアに冷たい声を浴びせた。
「何故俺を呼ばなかった」
「ごめんなさい、びっくりしちゃって」
「奴の言うことを信じたのか。俺が貴様に偽りを吹き込んでいるというのを」
「でも、あなたは、嘘つきじゃないでしょう?」
「何故そう思う」
「だって…」
そこでユリシアは明確な理由を言えないことに気づいた。
男は馬車を襲い、ユリシアを運び出した。男は、貴様は聖女になれば死ぬ定めにあった、俺の役に立てることを感謝し、子を産めと命じた。
けれど、もし男が嘘つきで、本当は聖女になっても死ななくて、ただ自分の復讐に利用するために都合の良いことを言っていたら…。
…都合の良いこと?
そうだ。
押し黙るユリシアをどこか心許なげに見つめてくる男に破顔し、ユリシアは明快な答えを提示した。
「だって、あなたは私を馬鹿だと言ったもの」
「…それがどうした」
「相手を騙す人は、いいことを言うんでしょう?絵本で見たわ。上手い話には簡単に乗っからないようにしようって」
「…それだけか。俺は貴様を助けたのだ、と信じる理由は」
「それに、あなたは優しい人だもの。ごはんをご馳走してくれて、ベッドを譲ってくれて。それどういう意味って聞けば教えてくれるし。寝る前のお話もしてくれたわ」
回答すると、急に男が距離を詰めてきた。
驚くユリシアの顎を鷲掴みにし、無理やり己の目線に合わせる。左手で目隠しを手荒に取り払い、人間からかけ離れた複眼をユリシアの目に近づけた。
「お前は…それだけで…俺を受け入れるのか」
「だって、助けてくれたでしょう」
「助けたと言うのも嘘かもしれない」
「それは嘘じゃないってさっき言ったのに」
「魔物を…こんな化け物をお前は心から信用できるのか」
「変わっているのは目と腕だけじゃない。言葉も通じるもの。あなたは人間でしょう?」
すると、男はユリシアの腕を引っ立て、小屋の中へ連れ込んだ。そこで男は、それまで絶対にユリシアの前で外さなかった上着を脱ぎ捨てる。
男の体は、歪んでいた。肥大した左腕の他に、左側の胸部と腹部の側面にかけて何本かの突起がはみ出ている。どれも真っ黒で、見ようによってはそれは赤子の短い足のようにも思えた。男の鼓動に合わせてか、忙しなく蠢いている。
背中の中央には、二つ、黒と緑が混じった色の羽のような形をした非対称の出っ張りが突き出していた。
次に男は下履きを取り去った。足は普通の人間と変わらない…と思いきや、やはり左の足先が原色に近い黄に色づいており、それも指が全てくっついていた。
首から下の右側だけを見れば、人間と相違ない。
しかし全体像は明らかに異形だった。
「…これでもマシな方だ。一年か、数ヶ月前まではもっとおぞましい姿で…手も足もなかったんだからな」
感情を押し殺した声で、男は問いかける。
「それでもお前は、俺を人間と呼ぶのか」
二つある緑の目玉に含まれるたくさんの視線が、ユリシアに集中している。
ユリシアは眉をひそめて答えた。
「呼ぶわよ。病気で体の形が違くなったって、人間には変わりないでしょう?」
鋭く息を吸う音と共に、男がユリシアの手首を捕えた。そのまま強引に壁際まで引き寄せ、ベッドの上に押し倒す。
緑色の複眼をギョロギョロと動かし、目を見開いているユリシアを俯瞰する。
「…お前を抱く。覚悟はできているか」
「抱っこじゃない方?何をするか知らないけど、嫌になったら嫌って言うからちゃんと止めてね。一日ならともかく一週間ずっととかだったら大変そうだもの」
「…馬鹿が…」
罵倒しつつ、乱暴な言葉に反して男は右の指先でユリシアの顔の輪郭をなぞる。くすぐったさに身じろぎしながらも逃げない少女に、祈るように男は頭を垂れた。
やがて彼女の薄い唇に己のを近づける。男の裸体がユリシアに重なり、胴体についた黒い足のような突起が彼女の肌に直に触れた。
途端に、動きを止めた。
「…………エリ、アナ……?」
「え?」
「お前…エリアナ…か…?」
「何を言っているの?違うわ。私は」
「―――エリアナァ!!!」
瞬間、男が豹変した。
右手で彼女の肩を掴み、怒号を上げて突き飛ばす。ユリシアが床に掌を擦って血を流すのも構わず、男は怒声を浴びせ続けた。
「貴様…!!貴様ァ!!どこまで俺を弄べば気が済む!どこまで俺を貶めれば気が済む!!貴様さえ、貴様さえ何もしなければ俺様はこんな醜い姿になることもなかった!!貴様が…レオンハルトに通じていなければ!貴様が…!!」
呆然と見上げるユリシアに、男は口の端を歪めて嘲笑を響かせた。
「楽しかったか?楽しかっただろうな!?かつて己を苦しめた男が虫になって尊厳を失い、一人森の中を惨めに這いずり!自我すら薄れていく中で為せもしない復讐に縋ることでしか正気を留めておけず!奇跡的に人型になれたものの、力を使う度に化け物に置き換わっていく体にガタガタ怯え!俺の目がまともに使えないのをいいことに、変装した貴様をまんまと助け、貴様に耳障りの良い言葉を並べられ懐柔されて呑気に日常を送っている様はさぞ滑稽だっただろうよ!!」
頭を抱え、引き攣った笑いを浮かべながら、血を吐くように叫ぶ。
「ああ滑稽だ!貴様と気付かず能天気に共同生活をしていたんだからな!聖女の偽装までしてよくぞ騙したものだ、それほど俺様の惨めな姿を見物したかったか!?ああああ、最悪だ、どうしてこんな、俺はどうしてこうも…!ようやく会えた他の”人間”を失いたくないなどというくだらない理由で身を削って、こんなに侵食されて…!貴様の思い通りに…!」
男は、振り乱した赤髪から覗く複眼に苛烈な光を宿し、相手を睨み殺さんばかりに見下ろす。
「だが残念だったな、魔物に成り果て完全に身を滅ぼす前に俺は気づいた。声色を変えようと態度を変えようと、俺には見破る器官がある。この醜い足で感知した血はエリアナ、間違いなく貴様の」
「―――私は、ユリシア」
「貴様、まだ」
「エリアナは、私のお姉様よ」
「…………は」
「私は、ユリシア・スワロウテイル。エリアナ・スワロウテイルは、私の…お姉様、なのよ」
「…………は、あ」
男は動きを止めた。
互いに放心した面持ちで、男は立ったまま、ユリシアは床に座り込んだまま、二人は向かい合っていた。
先に動いたのはユリシアの方だった。
「もう、ひどいわ。お姉様と、間違えるなんて。ひ…人違いで、乱暴なことしちゃ、ダメなのよ。ダメなんだから」
笑顔を作り、いつも通り明るい声を出そうとして彼女は失敗する。喉の奥から抑えきれない重いものが込み上げ、ユリシアは顔を俯かせた。
「…も…もう…次は、許して…っあげないんだから。こ、今回は…謝ってくれたら、いっ、い、けど…っ」
震える少女の声に、男は、呆然と呟く。
「お前…泣いているのか」
「違うわ。だ、だって…決めたもの。人の前で苦しいところは見せないんだから。泣いたら皆辛そうな顔するから、だから、絶対泣いちゃダメなの。絶対、泣かないもの。どれだけ苦しくても、泣かないって、そう決めたもの。私は、な…何があっても…」
堪えきれない。
そう判断したユリシアが取った行動は、逃亡だった。
血が滲む拳を握ってユリシアは素早く体を起こし、凍りつく男を置いて、何もかも頭の隅へ追いやって、小屋から逃げ出した。
脇目も振らず走って、疲れてとぼとぼ歩いて、辿り着いたのは、森の入り口だった。
大路を見つけ、それに沿って歩いてきたら、必然的に神殿か、森の入り口に着く。神殿に着かないで良かった、とユリシアは赤い目元を擦りながら、久しぶりに木のない風景を目の当たりにした。
このまま帰ったら、誰か歓迎してくれるのだろうか。
ぼんやり想像する。姉は、どうだろう。同級生は、どうだろう。叔父夫婦は、どうだろう。
きっと、誰もが、「聖女」として扱うに違いない。
両親は死んだ。お手伝いの皆もどこか遠くへ行ってしまった。
この国に、病弱でないユリシアを慈しむ人間はいない。
かつて「聖女」のユリシアに、国民は笑顔で感謝していた。誰もが「聖女」の誕生を祝福していた。
「…あっ…」
ユリシアは耐えきれず地面に膝をつく。
見ると、腹が、明らかに体積を増していた。
男は、言っていた。聖女は、卵を腹に宿している。神殿で働く者たちが神と崇める魔法生物の卵。
まだ、ユリシアの中から消えていなかった。
この卵を孵らせ、本物の聖女として生まれ変わり、国を導く偉人になるのが、「聖女」ユリシアの使命。
第一王子アレクサンダーに任命され、姉エリアナに祝福されて、誰もがユリシアに期待している、役目。
じんじんと痛む掌をそっと開く。乾いた血が証のようにこびり付いていた。
ユリシアはよろよろと立ち上がった。
そして、森の中に進行方向を戻すと、道を少しずつ進んでいった。