ユリシアに起こったこと−3「芋虫」
「あなたはお腹は空かないの?」
「勝手に貯蔵庫を漁って干し肉を食らっている身分で随分な言い草だな」
「だって、もう夜でお買い物に行けないもの。明日買いに行かないと」
「貴様はここがどこだか分かっているのか?凡愚が寄りつかないように一本の道路以外は整備されていない森の中だ。抜ければ神官共の巣食う神殿がある。その先には崖。貴様は神殿に物乞いに行くつもりか?」
「でも、神殿に行ったら、私死んでしまうんでしょう?」
「その程度の認識はできたのか、聖女の頭でよく理解したものだ。全国民が感動で拍手喝采するだろうよ」
「ねえ、あなたはどうして分かりにくい言い方をするの?」
あなたの言うこと、私半分も理解できていないのよ、大体の感覚でお返事しているのよ、とユリシアは抗議する。足の高さが一本合わずガタガタと揺れる椅子に腰かけながら干し肉を食す少女に、部屋の隅に座る男は目隠しの奥から苦々しい視線を向けた。
「当たり前だ。反感を買うように喋っているからな」
「どうしてそんなことするの?」
「…………どうでもいいだろうが。余計なことを口にするな痴呆」
「地方って、何が?」
地方という意味は知っている。けれどそれに該当するのが何か分からずユリシアは硬い肉をよく噛みながら尋ねる。
男は深いため息を吐き、「貴様は鏡を見たことがないのか」と逆に質問してくる。
「あるわ。だって、見ないと自分の顔色が分からないでしょう」
「貴様はいちいち鏡で確認しないと発言もできない人種か」
「朝起きてどんな顔色をしているかで、その日の体調が分かったりするのよ。赤いと熱が出るし青いと節々が痛くなるし白いとせきが出るわ。緑色だと吐きたくなるの」
「…知るかそんなもの」
男が勢いを失って黙った。それを好機としてユリシアは話題を元に戻す。
「あなたは食べ物をどこで買うの?」
「…貴様が今食べているのは俺がかつて狩った獣だ。結局食わなかったから干して取っておいたが…」
「お腹は空かないの?」
「…奇妙な話だ。水と魔力だけでここまで生きているのだからな」
「あなたは、魔物なの?」
魔物という生き物をユリシアは見たことがない。魔力を持った生物が存在している、という話を聞いたことがあるだけだ。かつてユリシアの病気を治した魔法使いも、魔物の希少な素材を多く所有していたらしい。
男はじっと口を閉ざしている。目隠しもしているから、思惑を外見から読み取ることはできない。
しかし、ユリシアには何故か男が傷付いたように見えた。
「…人間だろうが魔物だろうが関係ないと最初に言っただろう。どうせ覚える気もないのに詮索するな」
「嫌な気持ちになった?ごめんなさい」
感情を押し殺した低い声に、ユリシアは謝る。そっと碧眼を伏せてから、おずおずと言い足した。
「でも、お名前くらいは教えてくれてもいいでしょう?」
「今の俺に名前の意味などない。呼びたければ勝手に呼べ」
そう突き放すように言われて、ユリシアは改めて男を観察する。
くすんだような赤い髪は、手入れされた気配がなく無造作に伸ばされている。目元は黒い布で覆われているが、その下には緑色の複眼が二つ備わっているのを知っている。鼻と口は人間のものだ。異質な目の印象に引っ張られていたが、やけに造形が整っている。
左腕は黒く染まり、他の部位と一線を画して大きい。右手と胴体、足は人間の形だが、服と靴で覆われているからその本質は見えない。あるいはそこにも異質な箇所が隠されているのかもしれない。
厚く着込まれた服は、ユリシアに与えられたものと同じ、古びた布だ。左腕だけ収まらないので袖がちぎられている。
何度見ても不思議な形をしている。
「…ねえ」
「…何だ」
「あなた、私と会ったことがある?」
はあ、と男が声を漏らした。呆れとも怒りとも区別がつきにくい。
「貴様はこの俺様と会った記憶があるとでも?」
「いいえ、でも…ううん…」
似ている人と間違えているだけかしら、とユリシアは首を捻る。男は無言を貫いていたが、しばらくしてユリシアを視界から外すように顔を逸らした。
「余計なことを言うのはやめろ。腹立たしい」
刺々しい態度に変わりはない。が、それでもユリシアには男が酷く深い傷を庇っているように見えた。
少女の目線を振り払うように男が首を振る。
「思い出に耽る暇があるなら俺に抱かれる準備でもしておくんだな」
「抱っこ?私はいいけど」
「…ガキが…」
舌打ちし、男は苛ついた仕草で後頭部を掻く。
あなたの見かけも私とそんなに離れているように思えないわ、とユリシアが反論すると、男は「魔物に年齢など関係ないからな」と嫌味のように返してきた。
どういう行為なのかは分からないが、男はユリシアに何かをしたいらしい。
空腹が満たされて重くなった瞼を瞬かせながら、ユリシアは考察する。
最終に子供を産んで欲しい、というのなら、きっと結婚への第一歩。ひょっとしてプロポーズだろうか、と想像していると、「余計なことを考えるな。眠いならとっとと寝ろ」と釘を刺されてしまった。
「何をしている」
「おはよう、今日の朝ごはんは薬草のジュースよ」
「拷問か何かか」
「ごめんなさい。外に探しに行ったんだけど、私、植物は薬に使うもの以外知らなくて…火の起こし方も分からないから、煮物にもできなかったの」
「…外に出たのか貴様」
ユリシアがベッドを占領していたから、男は部屋の隅の定位置で丸まって寝ていた。
目隠しのせいで微妙だが、動かない男を起こさないようにそろそろと移動し、一人で小屋の周辺を探索していたのだけれど、めぼしいものはあまり見つけられなかった。
椅子と同様、ガタついている机に木製のコップを並べていたところ、男が目覚めて先程の会話に至る。
丸まっている状態からしなやかに体を伸ばし、男は険しい雰囲気でユリシアに迫った。
「ここは神殿の周辺の森だ。どこに奴らの目があるか分からん。軽はずみな行動を取るな」
「じゃあ、どうしてあなたはここで生活しているの?あなた、神殿の人たちが嫌いなんでしょう?」
「……」
「どうしたの?」
「…頭が回らない奴はこれだから困る。俺は奴らに復讐するために生きている。ならば奴らの隙を伺い、監視するために近くに潜伏するのは当然だろうが」
「センプク?」
「…身を隠すことだ」
「そう!ありがとう、教えてくれて」
男は無言で笑顔のユリシアから顔を背け、乱暴に椅子にかけると机上の液体を呷った。
ユリシアもいそいそと対面に腰を落とし、目を輝かせて尋ねる。
「おいしい?」
「素材をそのまますり潰しただけの産物に美味いも不味いもあるか」
「そっか…私は苦くてとても飲めなかったわ」
「そんなものを他人に飲ませるな」
「でも水で薄めたら大丈夫だったのよ」
ほら、とユリシアは自分のコップの中身を男に見せつける。緑色のドロドロした原液が水によってかさ増しされただけで、拷問の量が増えたようにしか男には見えなかった。
「体にはいいんだから。いただきます」とユリシアはちびちびと液体に口をつけていく。至極慣れた様子で、噎せたり吐き出したりすることもない。
「…貴様」
「なあに?」
「病気だったのか」
「そうよ」
気にする素振りもなく、あっけらかんとユリシアは答える。
人にうつるものじゃないし、今は治ったから大丈夫なのよ、と付け加えた。
男は頬杖をつき、正面の少女を観察するように布で覆われた目元を向けてくる。ひょっとして気になるのかしら、とユリシアは自己紹介を続ける。
「あのね、私には家族が三人いるの。お父様とお母様とお姉様。あと、家にはお手伝いの皆もいて、たくさんお世話してもらったのよ」
「そいつらは貴様が聖女に選ばれても祝福したんだろうが」
「ううん、お父様とお母様は一年前に死んじゃったの。お手伝いの皆もどこか遠くにいるの。だから、私をお祝いしてくれたのは…お姉様だけなのよ」
「なるほど、死んだのか。道理でな」
「何が道理なの?」
聖女、あるいは聖人に選ばれるのには条件がある。まずは無能であること、次に、それを自覚していないこと、最後に、誰にも望まれていないこと。そう言って、男は忌々しげに告げる。
「貴様の両親が生きていれば貴様が選ばれることもなかっただろうよ。本来、満場一致でなければ聖女も聖人も生まれないからな」
「…そっか」
しんみりした雰囲気を纏うユリシアに、粛々と男は重ねて問う。
「…貴様、アレクサンダーと面識があると言っていたな。奴は、どういう人間だったか知っているか」
「ええと…アレクサンダー様とは、あんまり会ったことがないの。レオンハルト様とは何回かあるけど…」
ユリシアは目を瞑って記憶を探る。
姉、エリアナの婚約者である第二王子レオンハルト。彼は物腰が柔らかく、言葉も流麗で頭の良さそうな印象だった。外見は、濃い青の髪の毛と緑色の切れ長の目を持ち、側女の子ではあるが賢王たる国王陛下に似ていると称賛されていた。
第一王子アレクサンダー。こちらの印象は薄い。弟レオンハルトと行動を共にしていることが多かったようだが、鮮烈な美貌に反して自分からは前に出ず大人しい、地味な性格だった。外見は、濃い赤の髪の毛と弟と同じ色の目を持ち、どちらかといえば亡き王妃譲りの相貌とされていた。
記憶を掘り起こしてうんうん唸るユリシアを男はじっと見守っていたが、やがてため息を吐いた。
「めぼしい情報がなければいい。思い出せないほど影が薄かったということだろう」
「ううん…そう、かも…?」
「…ふん、所詮は外れだったということだ。何の偉業をなすこともなく、弟に利用されて死んでいくのだろうよ」
「ねえ、あなたはどうしてレオンハルト様とアレクサンダー様が嫌いなの?」
途端に男の雰囲気が変わった。
また壁に拳を打ち付けるつもりか、とユリシアは包帯を準備する。昨日掃除をしていた時に見つけたものだ。黄ばんでいるしあちこち擦り切れているがないよりマシだろう。
ボロ布を構えるユリシアを前にして、男は呆れからか肩の力を抜いた。
「…貴様とて、聖女の貴様を祝福した姉は嫌いだろう?」
「お姉様?お姉様は…」
姉、エリアナ。質の良いつややかな茶髪と涼やかな碧眼を持った、聡明な佳人。
ユリシアとは二歳違いで、ベッドで寝るばかりだった妹とは違い、勉強にも人付き合いにも熱心に取り組んでいた。だからユリシアは、外部での活動が多かったエリアナと家で顔を合わせた記憶があまりない。
けれど、会った時には受け答えもしてくれたし、学園に入った時も個人部屋を手配してくれた。学校生活で姉と関わる機会は少なかったが、周りの同級生が「君のような妹を持ってエリアナはさぞ感謝しているだろう。何しろ君のおかげで彼女は学園中から愛憐を集めているのだから」と言っていたし、嫌いになるわけもなかった。
けれどエリアナはユリシアを祝福した。聖女になる妹、これから死ににいく妹に、皆と同じ「おめでとう」という言葉をかけた。
「…お姉様は、きっと知らなかったのよ。だって私も知らなかったもの。聖女がどういうものなのか」
「残念ながらこの国の上層で把握していない者はいない」
男は底知れない憎悪が込められた低音で否定する。
復讐のために生きてきた、と明言していた通り、男の恨みの深さは相当のものだった。
「王侯貴族の中で、聖女、聖人になる将来性を秘めた者共は幼児期に候補が選定され、そいつら以外には十歳かそこらで聖人にまつわる知識を刷り込まれる。外部に漏らしたら今度は自分が候補に入れられるかもしれない、という脅し付きでな」
いい加減受け入れるんだな、貴様が今ここにいることが何よりの証明だ、と男はせせら笑おうとして急に止まり、短く舌打ちした。
ユリシアが笑っていた。
「きっと知らなかったのよ。お姉様、忙しかったから」
「…現実逃避の才能はあるようだな。そうやって笑って誤魔化して事態が好転するなら、ずっと一人でヘラヘラしているがいい。その結果が現状だがな」
吐き捨て、男は立ち上がって小屋を出て行く。
ユリシアは椅子にかけたまま、空になった二つのコップをじっと見つめていた。
その日、男は夜遅くに帰ってきた。ユリシアが掃除したせいで物の配置が定まっている室内と、順調に数が減っている貯蔵庫。そして、机の上に用意された、見慣れない野草の混じった手付かずの食事を確認する。
対面の椅子にもたれて寝息を立てているユリシアを無言で見下ろした後、男は食事を片付け少女を静かにベッドに運び下ろし、部屋の隅に座り込んで眠りについた。
おかしな夢を見た。
背景のない空間で、ユリシアは、遠くの両親に向かって呼びかけていた。両親は仲良く談笑していて、娘に気づかない。
走って近づこうとしても、ユリシアの体の周りを白い膜のような、殻のようなものが覆っていて、全然身動きが取れない。
やがて、両親のそばに姉のエリアナがやってきた。
エリアナは、ユリシアと全く同じ見かけの少女を引き連れて、両親に話しかけた。
両親は、笑顔でその二人を迎え入れて、楽しそうに会話しながら歩いて行ってしまう。
必死で呼び止めても、四人には声が聞こえていないのか、ユリシアは一人置いていかれる。
振り返りもせずどんどん離れていく姿に、ユリシアの悪い癖が出た。
少しでも不安を抱えると、すぐに熱を出してしまう癖だ。
体中が高熱に支配され、ユリシアの足から感覚が消えていった。見ると、白い膜に包まれた足が砂糖菓子みたいに溶けて原型を失ってしまっている。
両親と姉に助けを求めるが、彼らはユリシアと同じ見た目の少女に夢中で、こちらに見向きもしない。
とうとう、融解が下半身を飲み込み、上半身にも及ぼうとした時。
ユリシアの目の前に、芋虫が現れた。
真っ黒な丸い体に、赤いトゲトゲをいっぱい生やした芋虫だ。
芋虫は、ユリシアを覆う白い膜を次々食べて、ぐんぐん大きくなっていく。溶けた部位に芋虫が糸を吐けば、元通りの姿になる。
食べ終わる頃には、ユリシアは元の体型で、熱も引いていた。
ありがとう、芋虫さん。そう声をかけようとして、ユリシアは気づく。
いつの間にか、芋虫は人の姿になっていた。
赤い髪に、緑の複眼を持った男。男は、地に這いつくばって、苦しそうだった。
どこが痛いの?と尋ねようとして、ユリシアは微かに瞼を開く。
暗い小屋。
ベッドの上に横たわるユリシアの腹に、男が左手で触れていた。
腹は、妙に膨らんでいたけれど、男がじっと手を置いていると、次第に大きさを減らしていった。
代わりに、男の左手が脈打って、虫が脱皮するように変貌していった。人肌では有り得ないトゲが何本も内側から突き出してくる。
男は、血が出るほど唇を噛み締めて、呼吸を抑えていた。
やがて、ユリシアの体はすっかり元通りになった。
男は手を離し、床に崩れ落ちると、そのまま死んだように動かなかった。
しばらくして、男は、か細く呟いた。
それを聞いてユリシアは、なんだ、まだ夢だったかと夢心地で納得し、再び瞼を閉じる。
だって、夢に違いない。
あんなに強気でユリシアを脅し、復讐を息巻いていた男が、「消えたくない」などと。
どうにもおかしな夢だった。