ユリシアの現実−上
ユリシア視点です
アレクサンダーと喧嘩をした。
きっかけは些細なことで、私はムキになったし、あっちは無口になった。「もう知らない、クレアのバカ!」って捨て台詞を叩きつけて逃げ出してしまった。
お姉様からの手紙で、偽名を使った方が良いと言われたから、人の多いところでは、私を「アシュリー」、アレクサンダーを「クレア」と呼び合っている。
最初は、名前を反対から読んだ「アシリユ」と、「ダンサークレア」にしていたけど、響きが悪いのとアレクサンダーが嫌がったから変えた。
その時も今みたいに喧嘩になった末に、決まったもの。
少し頭を冷やして、落ち着いたらすぐ解決するはず。
今までも何回か喧嘩はしたけど、仲違いしたままになることはない。日付を越えたらおしまいって決めてるのもそうだけど、喧嘩をした後のご飯は豪華にするって約束だから。
一緒に美味しいものを食べたら、いやな気分なんて飛んでいくわ。
今日は何を食べることになるかしら。
この国では魔物のお肉が食用に加工されていて、黒角猪の燻製とか紅花蔓のおひたしとかが宣伝されているのを見た。そういうのも楽しそうでいいかもしれないわ。
アレクサンダーはやな顔をするかもしれないけど。食べてみたら美味しいかもしれないし。
そんなことを思いながらお店を見て回っていたら、「やあやあお嬢さん、占いに興味はないかい」って声をかけられた。
真っ白な長い髪の毛と、目と口以外を覆う鳥の仮面が特徴的な男の人。ニコニコしながら「緊急出血大サービス、今ならこの国一番の占い師様の占いがなななんと無料!」と手招きしている。
無料。真っ先に怪しむべきって、昔絵本で見た。
だから「ごめんなさい、いらないわ」ってお断りして、離れようとしたら、「いやあごめんね、実は拒否権はなかったりする」っておいでおいでと手を振られた。
不思議なことに、私の足はお店の中へと動いていた。
ダメって思っても、体が吸い寄せられるみたいに入店してしまった。
「ごめんなさい、そんなつもりじゃないの、占いはいらないわ。私帰らないと」
「まあまあ落ち着いて。僕の話を聞いてほしい。でないと強硬手段に走らなければならなくなる」
薄暗いお店の中は色んなもので溢れていた。他のお店の前にもあった、石とか羽とか角とか、そういう素材。四角や三角の小瓶に入った色とりどりの液体。等身大の白い人形。
中央に置かれた机の上に、大きな水晶玉がある。
占い師は「座っておくれ」と机のそばの椅子を指差す。私は勝手に椅子に座る。
「さて…お久しぶりだねお嬢さん。僕のことを、覚えているだろうか」
仮面を取った。優しそうな顔が出てくる。
首を傾げていると、「これならどうだ」と丸眼鏡をかけた。
なんだか、見たことあるかも。
「…魔法使い、さん…?」
「おおっご名答。やるねえ。そうです。僕が二年前、君から呪いの残骸を取り除いた魔法使いです」
私が十四歳の時。お父様とお母様が連れてきてくれた、魔法使い。
私の病気を治してくれた人。
「ごめんなさい、あなただったのね。その節はどうもお世話になりました」
「いやいやこちらこそ大したお役にも立てず。消えかけていた呪いの後処理をしただけのこと、報酬分の働きできなかったのですよ本当に」
「呪いって、病気のこと?」
「うーん、表現が難しいけど。君がどこまで分かっているかも分からないし。まあとりあえず、君には呪いがかかっていまして、そのせいで長年苦しんでいまして、でも君は呪いに負けず生き延びまして、時間経過で効果も薄れてまして、その時期に僕がやってきて完全除去に成功!みたいな?」
「ううん…病気とは違うの?呪いって、どんな呪いなの?」
「そうだねえ」
魔法使いは顎に手を当てて首を左右に動かし、「呪いは二つあって。生まれるより先に定めとして押し付けられた呪いの方を痛みと呼称して。例えるならば」と話す。
「生後すぐ、君が受けるはずだった痛みを十とする」
「ジュウ?」
「十の痛みを一気に食らえば死んでしまう。それだと良くないから、その十を、分割して、一年ごとに一ずつ与える。みたいな術」
「…それが呪いなの?」
「まあね。内容を聞くと、呪いのおどろおどろしいイメージと違うじゃない!って思うかもしれないけど。僕らは、黒魔術師が扱う術は全て呪いと呼んでいるから」
いずれにせよ、君の十の痛みはだいぶ昔に消費されていた。でも呪いという構築式が残っているから肉体が回復せず、かつての痛みが無意味に再現され続けていた。
時間経過でいずれそれも消えただろうけど、まあ早いに越したことはないよね。
そう語って、魔法使いはにこやかな顔を私に向ける。
よく理解し切れないけど、この人が私を助けてくれたことは変わりない、はず。
私の病気は、もう治った。どんな過程があっても、それは動かない。
「ありがとうございました」
「いえいえ。本題はここからです」
「…いつ帰してくれる?」
「こ、ここからが面白いところだから!」
絶対興味湧くから、とおすすめして、魔法使いは話を続ける。
僕は君の呪いを解きました。
それは僕が、君のご両親から依頼を受けていたからです。
軽く依頼を達成し、僕は家へと帰りました。ろくに活躍できなかったなあという後悔無念を抱えながら…それはお辛い日々でした。
時間が経ち、今から半年前。
僕のところに、五人の依頼人が現れました。血と涙と汗でヨレヨレになったお金を握りしめ、僕に訴えました。
どうか、我らがお嬢様を助けてほしい、と。
そうです、その人たちは、君のお世話をしていた使用人。
色々あって国を出た彼らは、無力な自分達では何もなせないと、されどお嬢様を国家から助け出さねばならないと、僕という偉大な魔術師に依頼するためのお金を雑用やらお屋敷やら炭鉱やらで稼ぎまくっていたんですねえ。
依頼されたからには快く受けるもの。
僕は君の現状を調べました。
すると、君はとっくに国を飛び立って、男の人と一緒に旅をしていました。赤い髪に緑色の瞳、目つきの悪い男の人。
それを伝えると、彼らは怒りました。それはもうめちゃくちゃ怒ってました。
赤と緑。目つきが悪い。そいつは第一王子アレクサンダーに違いない。
なんてことだ、あんな評判の悪いワガママ王子がお嬢様と一緒にいるだなんて。
いやあ、でもなんか割と幸せそうですよ?って言ったら、お嬢様はそいつに洗脳されているに違いないと怒られました。怖かったです。
彼らは、僕に依頼しました。
お嬢様の記憶から、そいつを消してほしい。辛く悲しい記憶も全て。そうして、自分達がそいつからお嬢様を助け出すのを手伝ってほしいと。
なので、僕は、君の記憶を改竄しなければなりません。
すなわち、君を弄び、都合の良いように作り替える。
君からアレクサンダー王子の記憶を抹殺し、幸せな思い出だけを残して、彼らに差し出す。それが僕の仕事なのです。
…さて。
どうか怯えないで。
ここから交渉だ。
君も、僕に依頼する気はないかい?
魔法使いは、穏やかな微笑みを浮かべている。
私は息を吸ってから、「依頼って、どういう?」と尋ねた。
「自分の記憶をそのまま保ちたいということ。依頼主が同時に複数いて、依頼内容が他方と矛盾している場合、魔術師には優先する依頼を決定するための努力行為が許されている」
「でも、私、魔法使いさんに頼めるような大金は持っていないわ」
「そうだね。だから交渉なのさ。依頼金はいらない、その代わり、君には使用人の彼らの願いを叶える協力をしていただきたいのです」
「ダメよ。だって、皆のお願い通りにしたら、私は忘れてしまうんでしょう」
「焦らないで。そうならないための作戦さ」
正直、こうして君と対面してみて更に確信したけど、やっぱり彼らは誤っていると思うんだよ、と魔法使いは水晶玉を撫でた。
懐かしい顔が水晶玉に映し出される。モネ。カリア。デージー。リリス。オレガノ。ずっと、私のお世話をしてくれていた人達。
モネは皆のリーダーで、一人でなんでもこなせるしっかり者。
カリアは明るい性格で体が大きくて、私を軽々と支えてくれる。
デージーは反対に体が小さくて、私の目線で動いてくれるのんびり屋さん。
リリスはいつも冷静で丁寧、お見舞いのお花を器用に綺麗に飾れる。
オレガノは熱血な唯一の男手で、力仕事はどれでも万能。
お父様とお母様が家を空けても寂しくないよう、私のそばにいてくれた人達。
私の病気が治って、いなくなってしまった人達。
「…彼らも一種の呪いにかかっている。君のことしか見えていない。ずっとそのためだけに頑張って働き続けていたから、視野が狭くなっているんだ。だから君の意思を無視してでも、君を幸せにしようとしている」
「私、今幸せよ」
「そうだね。それを彼らに言って、納得してくれたらそれでいいんだけど…その前に。思い知ってもらった方が早い。君がもう、彼らの知る君ではないと」
「皆の知る、私?」
「うん。随分と大変な目に遭ったようだからね。古代種の魔物に直接触れられて生き延びたのなんて君達くらいしかいないんじゃないかなあ」
魔法使いは優しい目で見透かすように私を眺めている。
人間は経験をすれば否応なしに変化するものだよ、と笑った。
「君には、姿を変えてもらう。そうして、彼らには、君の姿をした偽物を送り込む。この国を出立するまでの間。彼らがそれを偽物だと見抜いて、本物の君を見つけられたら、彼らの勝ち。僕は大人しく彼らの依頼に従う」
「ええっ」
「だから君は、彼らに見抜かれないようにじっとしていてほしい。もし彼らが偽物と見抜けず、君が隠し通せたら君の勝ち。僕は大人しく君の依頼に従う」
「魔法使いさんが勝つことはないの?」
「ないです。いずれにせよ僕は依頼をこなすだけなので」
真面目な顔で「依頼主には原則逆らえない存在なのです」と魔法使いは頷くと、両手を差し伸べた。
「さて。お話は終わり。あとは君が決めてほしい。このまま彼らの希望通り、僕に記憶を操られて幸せに生きるか。僕の提案に乗って、姿を変えて忍耐強く隠れるか。それとも全部無視してアレクサンダーと逃げ出して、僕という魔術師に一生狙われる生活を送るか」
「…アレクサンダーには、お話していい?」
「駄目。他の人に交渉内容を漏らしたら僕が死んでしまうので」
「それはダメね…」
「正直こうして君と交渉してるのもギリギリなんだよね。有無を言わず言わさず君の記憶を奪うのが正しい形だからさ。魔術師の規約に触れたら僕、契約違反で魔力失っちゃうから命の瀬戸際なんだよ」
「…どうして、そんなに大変なのにあなたはお話してくれたの?」
聞くと、魔法使いは「言ったでしょう。以前の依頼より、後悔と無念が残っている。君にこれ以上不義理は働きたくないのさ」とあっけらかんと答えた。
そうして静かに、私の答えを待っている。
アレクサンダーは、きっと心配する。
でも…アレクサンダーなら、見つけてくれる。
私の偽物が現れても、騙されたりしない。別のものに姿を変えられた私を、見抜いてくれる。
そうでしょう?
『さようなら。あなたとの辛い旅はこれでおしまいだわ。私は大好きな皆と一緒に行くことにしたから』
「……そうか」
どうしてそこで傷ついた顔をしちゃうの、私はそんなこと書かないでしょう!
私の偽物からの置き手紙を読んで、アレクサンダーは無表情で頷いた。私には分かる。目が細かく動いていて、唇が引き締められている。傷を庇っている時の顔。
アレクサンダーは手紙を大事そうに懐にしまって、ふらふらと消えてしまった。
私を両手で掲げていた魔法使いが「…じゃ、じゃあ皆のところに行こうか」と気まずそうに作戦に戻る。
私は、魔法使いに姿を変えられた。
どんなのになるのかしら、男の人とか、おばあさんとか、もしかしたら犬とか?と想像した。
全部違った。生き物でもなかった。
私は、青い蝶の髪飾りになっていた。
質量を含めた変身の魔法で何に変わるかは魔力の性質に由来して、指定できないみたい。魔法使いも驚いていた。
「正確には標本みたいなものかな。基本的に動けないけど、もし、君が心の底から動きたいと願ったら、動けるようになるよ。ただ、そうなったらまず間違いなく不正…違う、細工がバレるから、すぐに別の姿に変わります。今蝶の形だから次は青虫とかかなあ」と魔法使いは魔法をかけた後で説明していた。虫…きっとアレクサンダーが見たら悲鳴を上げるわね。
私の偽物は、魔法使いが作った泥人形に、モネ達から聞いた私の話を元にした人格を植え付けたもの。
魔導人形は大抵単純な思考回路で簡単な受け答えしかできないけど、僕のお手製はかなり精巧な出来だから、いつでもご利用お待ちしてます、と宣伝された。
顔は私そっくり。でも、血色の良さとか肉付きの良さとか、私と違うところもある。そこに気づかれたら使用人の彼らの勝利だね、と彼は言っていたけど。
二年ぶりに会った皆は、私の偽物に何の疑いも持たず受け入れた。
お久しぶりです、こうしてまた会えてよかった、専属医のニールは新天地に移住して不在ですがお嬢様をとても心配されてましたよ、あとは全て私達にお任せください、私達が一生貴女をお守りして、幸せにいたします…と涙を流して喜んでいた。
皆の格好は、昔毎日着ていた使用人服じゃなくて町人の服装で、新鮮だった。今までどんなことをしていたのか聞きたいけど、私の偽物はそれを聞く気がないし皆も話さなかった。
色んなことを聞きたいし、話したいのに、今はそれができない。
会えて嬉しい。けど、寂しい。
本当に、何の気兼ねもなく再会を喜び合えたら良かったのに。
偽物が皆と再会し。
皆に促されて置き手紙を残して。
アレクサンダーが反論もせず姿を消して。その様子を見終えた私は魔法使いから「かつて公爵から預かったもの」としてモネの手に渡り、偽物の頭に落ち着いて。
私の偽物と皆は早速「私達の家」がある国に向かおうという話になった。
このまま気づかず国を出てくれたら、私の勝ち。
私の依頼が優先されて、魔法使いが私の姿を戻しにきてくれる。
でも、皆はなかなか国から出ていこうとしなかった。
私の偽物が「あれを食べたい」「これがほしい」と次々目移りしていくから、どんどん荷物が増えて時間が過ぎていく。
じっとしているのには慣れているけど、精神的になんだか辛い。
皆には、私がこんなにワガママに見えていたのかしら。
周りの人達に迷惑をかけても気にしないような人に見えてたのかしら…。
…ううん…でも、昔の私もそうだった。
お姉様が辛い思いをしているなんて全く気づかず、自分のことばかり考えて。
学校にいた頃も。周りの同級生が「君はそのままでいいよ」としか言わないから、何も考えず自分のやりたいことだけやっていた。
自分のしたことの中には、常識的でなくて他の人から嫌がられることもあったって分かったのは、アレクサンダーと旅を始めてから。
ということは、この私の偽物は、魔法使いが言う通り「精巧」な「模造品」。
アレクサンダーが手紙を見抜いてくれなかったのも…仕方ない…。
いえやっぱりダメだわ。これはアレクサンダーが悪い。
全部解決したら、謝ってもらわなきゃ。
ある時、気づいた。
アレクサンダーがついてきている。
赤い髪と緑の目の色を変えて、私の偽物を尾行している。
追いかけてきてくれて嬉しいけど、話しかける勇気が出ないのかしら…。
見守っていると、アレクサンダーはやがて偽物に声をかけて引っ張り出した。
髪飾りの私と目が合ったような気がしてドキドキしたけど、気のせいだったみたい。
真面目な顔をして、列に並んでいた女の人に迷惑をかけた世間知らずの子に、何が悪いのか順を追って説明してくれる。
アレクサンダーも、この旅を始めてからちょっと変わった。頑張って、他の人とも普通の口調で話せるようになった。最初の頃に舌打ちばっかりしていたのが嘘みたい。
会話していたら、赤ら顔をした人達がやってきた。
こういう風に絡まれたことも、過去に何回かある。その時は私を抱っこして逃げたけど。今日は、私の偽物が動かずしがみついているから、そうもいかない。
すると、アレクサンダーは剣を抜いた。滅多に使わない、威嚇のための武器。
騎士に習っていたこともあったが、才能はなかったと昔ため息を吐いていた。
私の偽物を逃がそうとする。それでも偽物がくっついて逃げようとしないから、アレクサンダーは振り返った。
あ、と思った。
とてもいやそうな、冷たい目。
絶対に、私には向けない目。
途端に、奇妙にほっとしたような、安心した気持ちが広がった。
偽物が逃げ出して、アレクサンダーが視界から離れていく。
大丈夫かしら、ちゃんと逃げ切れるかしら。
そんな心配は、時間を置かずに答えが出る。
アレクサンダーは傷だらけだった。深い傷はなさそうだけど、あちこち痣が残っている。
逃げられなかったというより、逃げなかったみたい。「公爵の娘」っていうのが誤解だって思わせるために、わざと残ったのかもしれない。
早く治療しなきゃ。跡が残ったら大変だわ。
体がうずうずする。でも動いてはダメ。ここで動いたら、私は姿が変わって、皆に「何かおかしい」とバレてしまう。
私が負けたら、私の記憶は消されて、アレクサンダーのことを忘れてしまう。
それは絶対にダメ。
モネがアレクサンダーにお礼を言おうとして、固まった。
モネは、アレクサンダーの顔を知っていた。きっとお姉様を訪ねて家に来たアレクサンダーと顔を合わせたことでもあるのね。とってもまずい。
アレクサンダーは、久しぶりに見る顔をしていた。刺々しい敵意で固めた、人を拒絶する顔。
でも、ひどいことは言わずに、背を向けた。
モネは、私をずっとお世話してくれた人。優しくて頼りになる人だって、昔、話したことがあるから。
アレクサンダーは、敵意を引っ込めた。
でも、モネはそうならなかった。
石を拾った。拳くらいの石。昔のアレクサンダーみたいに、憎くてたまらないって顔で握りしめる。
ダメ、そんなの、絶対ダメ。
アレクサンダーは本当は優しいのに。
モネも本当は優しいのに。
どっちも、私を助けてくれた人なのに。
それを投げてしまった。
ダメ!
考える暇はなかった。
私は無我夢中で体を動かして、アレクサンダーに体当たりするように飛び出した。
アレクサンダーにぶつかる前に、石に当たった。
強い衝撃。でも、動いたことによる魔法の発動で、私の体に傷はつかなかった。
代わりに、変身していた。
視界が急に低くなっている。
手の感覚がない。二足歩行じゃない。丸々とした体格。
魔法使いが言っていた通り、芋虫になってしまった。
ああ…いけないわ。アレクサンダーは芋虫が大の苦手なの。
見るだけで固まってしまって、誰かに芋虫を退けてもらうか、顔を強制的に逸らしてもらわないと、そこから動けなくなってしまう。
ここにそれを知っている人はいない。モネ達は、偽物の私につきっきり。
じゃあ私が移動しないと…。私がいなくなれば、きっとアレクサンダーも元気を取り戻すでしょう。
ちゃんと治療してもらってね。もう危ないことしたらダメよ。
偽物の私を、モネ達が大事そうに取り囲んでいる。ごめんなさい、騙して。本物の私はここにいるのに。
でも、仕方ないわ。
だって…気づいてくれないんだもの。
それも仕方ない。私そっくりの女の子がいるから、私は虫の姿をしているから。
全部、仕方ないこと。
…芋虫になっちゃったから、もう偽物の私のそばにはいられない。
隠れて、皆が国から出ていくのを待つだけ。状況がどうなっているのか分からないのは大変だけど、それ以外ない。
大丈夫、待てばいいだけの話だもの。
じっとしているのには慣れてる。一人でいるのも、大丈夫。
今は昔と違って体が苦しくないから、全然、なんてことない。
お父様とお母様がいなくて。モネ達だって休息が必要だから、たまに私一人になる時間もあって。そういう時は夢を思い描いて、光り輝く未来を妄想して。
病気が治って、夢を叶えられると思ったら、お父様とお母様は遠くの地で死んでしまって。
死ぬのは絶対にダメって何度も言われたのに。
約束したのに、知らないうちに死んでしまって。
モネ達も、別れの挨拶をする間もなくいなくなってしまって。
学校に行って、一人きりのお部屋でどうすればいいのか考えて。周りの皆は笑顔で「君がしたいことをすればいい」としか言わなくて。
お姉様に「せめてこの学園からは出ないように」とお願いされたから、外に飛び出さないように戒めて。
私が何をしていても、皆は笑顔で見守っていて。何一つ口出しすることはなくて。
聖女に選ばれて。
皆から、死んでほしいんだって思われていたって、分かって。
別人に生まれ変わるのを望まれて。
私を望む人は誰もいなくて。
でも平気だった。生きてこられた。
辛いことがあっても、ここまで生きてきたんだもの。
私は大丈夫。
「ユリシア」
名前を呼ばれた。
人間じゃない、私に向けて。
「そこに、いたのか」
アレクサンダーが、私を両手で拾い上げた。そうして目線を合わせる。
普段とは違う色の目が、私を捉えていた。
壊れ物に触るように、キスをした。
どうしてかしら、涙が溢れる。
不思議なことに、私は人間の姿に戻っていた。
アレクサンダーに縋って、行き場のない感情に振り回されて、八つ当たりをぶつける。
「もう…!遅いわ…バカ…」
アレクサンダーは、私の背中に回した手に力を込めて引き寄せた。
「悪かった。お前を…あんな姿のまま待たせるなんて…節穴にも程があるな」
そうね。髪飾りの私を見ても、気づいてくれなかった。
でも、今、こうして見つけてくれた。
「もう…謝ってくれたから、許してあげる。…助けてくれてありがとう」
「助けられたのは俺だ。俺を庇って…なんて危険なことをした。石如き食らっても俺は致命傷にはなりえない、だがお前は…死んでいたかもしれないんだぞ」
黄色い目が私を睨んでいる。とても怒っている時の顔。
死ぬ…ああ、そうね。本当だわ。危なかった。今気づいた。
もしかしたら、死んでしまうかもしれなかった。
絶対、何があっても死ぬのはダメなのに。
約束したのに。
…でも。
だって。
「だって、危ないって、守りたいって思ったんだもの」
「お前…」
「仕方ないでしょう、そう思っちゃったんだから」
誰にも、思いは消せない。一度そうなってしまったのなら、心がそう命じたなら止められない。たとえその先が自分の長年の夢と異なっていても。
行く末が地獄でも、私を見つけてくれたあなたと共にありたい。
アレクサンダーは泣きそうに顔を歪めて、体を震わせて告げた。
「…ありがとう…愛してる、ユリシア」
「うん。私も」
私は、涙でいっぱいの目を細めて、雫を溢れさせながら笑った。
「愛してるわ、アレクサンダー」