ユリシアの現実−序
走れるのが面白くて、急に走りたくなった。
椅子から立ち上がって壁にかかっている絵を目指して全力疾走。勢いをつけ過ぎたのかな、壁に手をついたら額縁がゆらゆら揺れて落ちちゃった。
「お嬢様!お怪我はありませんか?」
「うん、大丈夫よ」
一緒にご飯を食べてたモネが慌てて駆け寄ってくる。皆も寄ってきて、あっという間に私は囲まれた。
「お嬢様が元気で走れるお姿を見られるなんて、本当に生きてて良かった!」
「眼福ですねえ」
「食べたばっかりに走って、気持ち悪くなったら大変ですわよ」
「水飲め水」
わいわい騒いでいると、お店の人がやってきた。
「ちょっ、おおい、あんたら何やって…なっ!?額縁が粉々に…!?」
「丁度良かった。この絵、随分と緩く固定されていたようですわね。もしお嬢様がお怪我でもされていたらどうするつもりですの?」
「賠償じゃあ済まねえかもなあ」
「は、はあ!?地震があったわけでもあるまいしそんな勝手に落ちるわけねえだろ、あんたらが落として割ったんじゃ…っておい!?」
皆の輪が崩れて囲いが解けたからまた走っていると、お店の人が大きな声を出した。
「他の客も飯食ってんだ、運動でもしてえなら外で…っ」
「怒鳴って威圧するなんてトラウマになったらどうするんですか!」
「お静かに、お願いしますねえ。お嬢様が不安になっちゃうでしょお」
「とりあえず場所を変えてお話いたしましょうか。そちらの方がよろしいでしょう?貴方にとっても、私共にとっても」
ひそひそとお話していたモネが、私のそばに来て「お気になさらず。お嬢様、お店の中で少しお待ちくださいね」と言ったので、私は「はあい」と返事をする。
大きな声でびっくりしたけど、モネが気にするなって言うなら何もないのだろう。
モネは先頭に立って、お店の人を連れて奥へと行ってしまった。
ちゃんとしたお店で、ご飯を食べるのなんて初めて。病気のせいで家にこもっていた時はもちろん、学校にいた頃は食堂だったし、旅に出てからはろくに食べられなかった。
全部、あの男が悪いのだと皆は言っていた。
病気が治って、学校に入って、聖女に選ばれて、私は事件に巻き込まれた。大きな事件だったけど、昔のことだしあんまりよく覚えていない。
でも、その事件で知り合った、アレクサンダーという男の人と、旅に出ることになった。
アレクサンダーは、嫌な人だった。ずっと私を睨んでくるし、ひどいことを言うし、優しくしてくれない。
お金もないから、ずっと大変な旅が続いていた。
そんな時に、皆が助けに来てくれた。
小さい時から私のお世話をしてくれた、お手伝いの皆。モネ、カリア、デージー、リリス、オレガノ。
皆は、アレクサンダーを追い払って、私を助けて、一緒に遠い国で暮らそうと言った。
お嬢様のために家を用意するから、そこで穏やかに、平和に皆で生活していこうって。
皆があんまり必死で面白かったから、私はいいよって言った。そうして、今は、皆が家を建てる予定の国に向かっている最中。
皆と一緒にいるのは楽しい。アレクサンダーと一緒だった時と違って、皆はお金があるから私が欲しいって言ったもの全部買ってくれるし、大きなお宿のふかふかのベッドで眠れるし、疲れたって言えばおんぶして運んでくれる。
お店の中を一周した私を、カリアとデージーが笑顔で迎えてくれる。モネとリリスとオレガノはまだ戻ってこない。
もう一周してもいいかな。
辺りを見回す。
不思議なことに、お店の中にいる人たちは皆楽しくなさそうだった。眉をギュッと寄せて、口をへの字にして私を見ている。
お腹が空いたのかな。
「ねえ。お金ってまだある?」
「勿論ありますよ」
「私たちの全財産はお嬢様のものですからあ」
「それなら、お金を分けて、ここにいる人たち皆に食べたいものをご馳走しましょう。皆で食べたらきっと美味しいわ」
「お嬢様!なんとお心優しい!」
「浄化されますう」
カリアとデージーが手分けしてお金を配る。楽しくなさそうな人たちは皆眉を下げて首を振っていたけど、カリアとデージーに何か言われてお金を受け取った。そうして、私を見て「ありがとうございますユリシア様」「このご恩は一生忘れません」と口々に言った。
感謝しているなら良かった。
満足していると、モネ達が帰ってきた。
お店の人も、私に「大変失礼いたしましたユリシア様。どうぞお許しください」って頭を下げた。どう答えたらいいのかモネに聞くと「お嬢様のお好きなように」と言うから、「許すわ」って言ったら、何度も頭を下げられた。
そのあとは、お店にいた皆でいっぱい好きなものを食べて騒いだ。
嫌な人いないかな、面白そうなことあるかなって見回したら、ほとんどは笑顔だったけど、あんまり楽しくなさそうな人もいて。でもそういう人には必ずモネ達が近づいて何かお話して、最後には皆笑顔になった。
お店の鏡に、皆の笑顔と、私の姿が映っている。
お母様譲りの金髪に、お父様譲りの青い目。病気が治ったから皆と同じように健康的な色になった肌と、お肉がついて骨が目立たなくなった体。
服はモネ達がプレゼントしてくれたドレス。
髪飾りは、青い蝶の形をしている。
これは、お父様とお母様が、私に残してくれたというもの。モネ達が預かっていた。
髪飾りは、とても綺麗で、まるで本物のちょうちょみたい。羽は青く光り輝いて、今にも動き出しそうなほど、よくできている。
壊れやすいって聞いたから、あんまり手で触らず大切にしているけど。
再会して、受け取って以来、寝る時もつけている。
お父様とお母様、早く帰ってくればいいのにな。
王様の命令で遠い国に働きに行っていると皆に教えてもらった。
お姉様も心配しているだろうし、早く家族皆揃って会えればいいのに。
お店を出て、また移動を始める。
皆が家を建てるのは、暖かい国で、あちこちにお花が咲いている場所なんだって。
すごく綺麗だっていうから、とても楽しみ。
今いる国は、商売が盛ん。色んな不思議なものを売っているお店が道に並んでいて、お店の人が声がけをしている。
「宝石に魔石、妖精の羽に魔物の角までなんでもあるよ!」
「魔法生物を意のままに操る香水どうですかー気迫を込めて叫んで瓶を割れば誰でもすぐ操れる!」
「魔導人形〜魔導人形はいらんかね〜従順なメイドから情に厚い親友までなんでも作り放題!」
「そこの兄ちゃん、惚れ薬なんて…そんな男前ならいらねえよなあ!媚薬各種勢揃い!」
「あなたの黒歴史、消してみせます。忘れババアのご利用お待ちしております」
魔法が使われている道具が売られているみたい。聞いているだけでわくわくする。
どこも活気に満ちていて、色んな会話が聞こえてくる。
「なによっあなたが悪いんでしょ!もう知らない!この浮気者!」
「ああっ待ってくれ、もう二度と他の女と口も効かない、望むなら去勢だってするから!」
「知らないの?男の人も孕むって」
「…なん、ですって…?」
「そう、この魔法薬を使えばね。王道な趣向も高度な性癖も全て取り揃えているから。なんなら本番もいけるよ」
「や、やめてちょうだい試してみたくなっちゃうから!」
「なんだい兄ちゃん芋虫苦手なのかい、こいつはマニア向けのアクセサリーだから仕方ねえけど、男なら虫くらい退治できるようになれよ?…おいおい相当重症だよ。顔真っ白だ大丈夫かい兄ちゃん」
「…すまんがそれを視界から避けてくれないか…」
「あいよ、見ただけで動けなくなるなんてどんな酷い目に遭ったんだか」
面白そうな話がいっぱいだ。
きょろきょろしながら歩いていたら、「はぐれたら危ないですよ」ってモネに手を繋がれちゃった。ずるいずるいと皆が寄ってくる。
「先輩ばっかりお嬢様に接触して!」
「不平等ですよお」
「交代制にした方がいいんじゃありませんの?」
「そうだぜ、偏りは無しだ!」
「うるさいですね…先着順です。あなた達がいち早く気づいて実行に移さないのが悪いのでしょう」
モネがうんざりした感じでそう答えると、皆が横暴だー!と手を振り上げる。
騒ぎを続ける囲いから一人抜け出して、面白そうなお店を見て回る。「占い屋」と看板にあるお店には人がたくさん集まっていた。どういうのだろうと人の間を通って前に進む。
「ちょっと割り込みしないでおくれよ」
急に腕を掴まれてびっくりする。見ると、お母様より年上のおばさんが私に怒った顔を向けていた。
「え?」
「こっちは朝から並んでるんだ。最後尾からちゃんと手順を踏みな」
「何が?」
「そりゃ気持ちは分かるさ。月一の開催日だからね。でも抜け駆けは良くないって言ってんだよ」
「…何で?」
聞くと、おばさんはムッとした顔を更にしかめて、「どうしたもこうしたも!あんたみたいなのがいるから毎回占い師様が苦労されるんじゃないか」とよく分からないことを大きな声で言ってくる。
私、何か悪いことをしたのかな。
思い当たらない。
「何も悪いことしていないのに怒られるのは嫌だわ」
「このっ…」
おばさんが私の腕を引っ張ろうとしたところで、何かが割って入ってきた。
腕だ。おばさんとはまた別の、力強そうな腕。
「…失礼、御婦人。どうかご容赦いただきたい」
「えっ…ああ…」
背の高い男の人だった。
黒い髪の毛は肩より長くて後ろで一つ結びにしてる。吊り目の黄色い瞳は緩やかに細められている。絵画みたいに綺麗な人。
服は旅人風で、腰に剣をつけていた。
「いや、別に割り込まないでくれるなら何もしないけどさ…」
「寛大なご対応に感謝申し上げる」
戸惑ったように元の位置に戻るおばさんに軽く礼をして、男の人は私を「こちらへ」と人の少ない静かな道に導く。ついていくと、男の人は振り返って私と目線を合わせるように膝を曲げた。
「君。何故彼女が怒っていたか、分かるか?」
「そんなの分からないわ」
答えると、男の人は両手両指をお店と人に見立てて説明し始めた。
「あの店は、月に一度しかやっていない占い屋で、よく当たるから皆楽しみにしている。お客さんは列に並んで待って、順番が来たら占ってもらう。だが、君はそれを知らず進んで、その列の前に割って入ったような形になってしまった。だから、彼女は自分より君が先に店に入って占われるかもしれないと焦って、怒ったんだ」
「ふうん…そういう意味だったの、もっと分かりやすく言ってくれればいいのに」
お店の前に並んで待つっていうのもよく分からないけど。
頬を膨らませる私を、黒髪の男の人は静かに、じっと見つめている。顔がカッコ良い。
「ねえ、そんなことより。あなたはだあれ?旅の人?」
「…騎士だ。名はクレア」
「クレア?よろしくね。私はユリシア・スワロウテイル。公爵の娘よ」
お父様とお母様は忙しいからなかなか会えないけど、れっきとしたお嬢様なのよ、と胸を張れば、短く「そうか」と頷く。公爵ってどういう人なのか知らないのかな。反応が薄い。
もっと説明しようとしたら、急にクレアが膝を伸ばして立ち上がった。
私を背後に庇い、剣を抜く。
「公爵の娘だって?なんでそんな奴がこんな場所にいるんだよおい」
「身代金でガッポガッポってやつッスかあ?」
「ご、ごろつきだった俺たちが公爵の娘を奪い取ったら一夜で成り上がり…!?」
「そこから始まる出世物語…!?」
よく分からないことを言いながら、誰かが近づいてくる足音が聞こえる。高い背中に阻まれて姿は見えないけど、大人数だ。
緊張してクレアの服の裾を握りしめる。
「お嬢様ー!」
「おおおお嬢様どこですかああああああ」
皆の声が遠くに聞こえた。
私の意識が逸れたのを感じてか、クレアが「帰りなさい」と左の後ろ手で私を押した。
右手でふらふらと剣を構えている。
でも。クレアは騎士で。きっと強い。私のことも守ってくれるはず。
離れずにいたら、クレアが黄色い目だけ振り向かせた。
煩わしそうな、眼。
それは一瞬で消えてしまったけど、再度クレアは「行け」と私を急かした。
今度は私も従った。
何であんな目をされなくちゃいけないのか分からない。
大通りに出て歩いていると、すぐに皆が「お嬢様あああああ」と見つけてくれた。
お一人で出歩いたら危険ですよ、寿命が縮みますよと口々に言ってくる。
クレアと、ごろつきのことを伝えると、皆は顔を合わせて現場に急行した。
私もついていく。その先で信じられないものを見た。
あんなにカッコ良かったクレアがボコボコにやられていた。
「この変態野郎が!」
「なあにが騎士と令嬢の擬似プレイだ期待させやがって!」
「ヒャハハハこいつめっちゃ弱えぜやっぱ騎士の振りだけだったんだな!」
皆で物陰からこっそり覗いていると、暴力に飽きたのかごろつきは「次の金ヅル探さなきゃ…」と消えていった。
建物の壁にもたれていたクレアは人がいなくなってから起き上がり、何事もなかったかのように服の汚れを払う。
「…ええっと…お嬢様を一度は助けてくれたとはいえ…あの人にお礼を…?」
「なんか怪しくないですかあ…?ひょっとしてあれが例の勢力なんじゃあ…」
「お嬢様の恩人には礼儀を尽くすべきですが…胡散臭いですわね…」
「やべえ雰囲気だけどお嬢様を助けてくれてんだもんな…」
密やかに会話をしている皆を、モネが「例外はありません」と叱った。
「どのような人間であれお嬢様を助けていただいた方には相応の礼を。でなければ道理に反します」
一人果敢にクレアに近づいていく。皆も顔を見合わせてから後に続いた。
「失礼致します。先程は我らがお嬢様を助けていただきどうも…っ!?」
モネが言葉を途切れさせた。なんだなんだと皆は周りに集まる。
でも、何がモネを驚かせたのか、分からず首を捻っている。
クレアは無言で私達を見つめている。アザだらけなのに澄まし顔で、馬鹿みたいでちょっと面白かった。
モネも面白かったのかな、と見上げて、息を飲む。
鬼のような形相をしていた。
「…貴様…よくも、お嬢様の前に…」
「…そうか。お前は俺を見たことがあるのか」
「髪と目の色を変えた程度で誤魔化せると?それほど我らを侮っているというわけですか、ああそうですか…失せろ!エリアナ様を傷つけるだけでなくお嬢様までも毒牙にかけ洗脳を目論む悪魔めが!」
「…どっちが」
鼻で笑って、最初に会った時の穏やかな雰囲気が嘘のように、クレアはモネを睨む。
でも、何も言うことなく、背中を向けた。そのまま去ろうとする。
激昂したモネが足元から石を拾う。勢いのままクレアに投げつけた。
あ、頭に当たりそうな位置。
死んじゃうかな。でも、別にいいかな。ごろつきがやったことにすれば大丈夫?
そんなことを考えていたら、急に視界の端を何かが掠めた。
パチン、と音がする。
私の髪飾りが、どういうわけか空中に飛び出して石に当たって、地面に落ちた。
…髪飾りが勝手に動いた?そんなまさか。
それより。あれはお父様とお母様がくれた大事なもの。壊れたら大変。
駆け寄って、悲鳴を上げる。
何故か、髪飾りが落ちた位置に、芋虫がいた。緑色の、丸々して大きな、気持ち悪い虫。
腰を抜かした私を皆が慌てて抱き寄せてくれる。
その正面で、クレアは呆然と立ち尽くし、芋虫を見下ろして。
くしゃりと顔を歪ませた。
「ユリシア」
名前を呼んで、もぞもぞ動く芋虫を両手で掬い上げる。
泣き笑いみたいな顔を手の上の虫に向けた。
「そこに、いたのか」
そうして、躊躇いもなく口付けた。
信じられない。背筋がゾッとする。震える私を皆が慰めてくれる。その後ろで。
芋虫が、光に包まれて形を変えていた。
金髪に、青い目。真っ白な肌と棒みたいな体に、私そっくりな顔をつけた女の子。
クレアの腕の中で、涙を滲ませて女の子は唇を尖らせた。
「もう…!遅いわ…バカ…」
「悪かった。お前を…あんな姿のまま待たせるなんて…節穴にも程があるな」
「もう…謝ってくれたから、許してあげる。…助けてくれてありがとう」
「助けられたのは俺だ。俺を庇って…なんて危険なことをした。石如き食らっても俺は致命傷にはなりえない、だがお前は…死んでいたかもしれないんだぞ」
「だって、危ないって、守りたいって思ったんだもの」
「お前…」
「仕方ないでしょう、そう思っちゃったんだから」
「…ありがとう…愛してる、ユリシア」
「うん。私も」
女の子は、涙でいっぱいの目を細めて、雫を溢れさせながら笑った。
「愛してるわ、アレクサンダー」