プロローグ 忘れられない出会い
「先生ー、今ちょっといい?」
ドアをノックする音とともに、あどけなさの残る声が響く。少年はドアの前で返事を待つが、何も聞こえない。少年の髪で遊んでいた花妖精も、何かを察したのだろうか。おとなしく少年の肩に留まる。
「先生?」
再度挑戦するも、返答はない。少年は腕組みをする。花妖精は首を傾げ、少年の頭のまわりをくるりと一周した。
「チカ、なかにいる、しってる。イアン、はいらない、なんで?」
「先生から、勝手に入っちゃだめだって言われてるんだよ…」
「ふぅん?」
興味を失ったのか、花妖精は、またイアンの髪を編み始めた。その様子に苦笑しつつ、花妖精の頭を指で撫でる。部屋の中からは物音ひとつ聞こえてこない。ひょっとしたら寝ているのかもしれない。また後で来よう、とドアの前を離れる。時間が空いたので、魔法の練習でもしようかと思案していると、突然背後のドアが勢いよく開いた。肩が思い切り跳ねる。びっくりした。少しでも早かったら確実にぶつかっていただろう。部屋の主は、イアンの姿を目にとめるや否や、手をひいて走り出した。ひとつに結ばれたプラチナブロンドの髪が、目の前の背中で揺れている。イアンは何が何だかわからず、目を白黒させる。
「せ、先生?!」
「結界の所有権が一瞬奪われた」
走る速さを緩めることなく、前を向いたまま答える。事の重大さを察し、イアンはハッと息を呑んだ。ありえない。よくよく先生の様子をうかがうと、顔が青ざめているのがわかった。
そうこうしているうちに玄関扉の前に着く。先生はイアンの前に膝をつき、目線を合わせた。
「私が良いと言うまで、絶対に出てくるな。絶対に、だ。いいな」
いつになく低い声で念を押され、イアンは力強く、何度も頷く。それを見てほっと息を吐くと、立ち上がり、扉の向こうへ行ってしまった。
バタン、と扉の閉まる音は、こんなにも大きかっただろうか。しばし呆然と立ち尽くしていたが、冷たい空気が現実に引き戻す。花妖精はいつのまにかいなくなっていた。
何もできないのにここにいても仕方がない。部屋に戻ろう。家の奥につながる廊下は、昼間だというのに、薄暗く感じられる。
…………ひとりって、こんなに寒かったっけ。
いつもよりも長い廊下を、ゆっくりと歩く。
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「大変申し訳ございませんでした……」
目の前に、頭があった。
自室に戻り、寝台の上で毛布にくるまっているうちに眠ってしまったようだ。その人は、深く頭を下げているせいで、ブルーグレーの長い髪が床に着いてしまっている。せっかく綺麗な髪なのに。汚れてしまう。
寝起きで働かない頭では、状況の把握もまともにできない。先生とこの人、並んでいると髪色が対みたいになって綺麗なんだろうな、とイアンは現実逃避をすることに決めた。