ラブリーラブリー、シュガーリジー ~俺に復讐したい金髪碧眼の幼なじみ~
これは切ない恋のおわり
しゅがあ。
甘い。甘い声がする。
蘇る遠い日の記憶。金髪の草原。
ブロンドの女の子と草むらに寝そべって、転がりながら夕焼け空を指さした。
思い浮かぶまま、雲の形ををボクとキミにとって身近なあれこれに例えていく。
ほらあれ、ウサギに似ている。
あれはクリームを添えたレモンパイ。
トチノキの実だ。
それにほら、キャリーご自慢の、不細工なアイリッシュテリアが舌垂らしてるとこ。
あの雲を見て。この指先を見て。
ボクの言った通りに見上げたキミの、油断した脇腹をくすぐってやる。
キミは声を立てて笑う。
よほどおかしかったのか、目の端に涙が浮かんでいる。
笑いすぎておなかを抱えると、こぼれた涙はオレンジ色の空にふわっと舞い上がる。
ずっと幼い頃のこと。
知ってる。今のボクは――俺はもう、その国にはいない。
しゅがあ。
しゅがあ。しゅがあ。しゅがあ。
甘い声が耳にこだまする。
幼い夢の輪郭が、朝の気配に触れてパチッとはじけた。
重たいまぶたを開くと、リジーの姿がぼやけた視界ににじむ。
あの頃よりうんと大きくなった、けれど今でも十分小さな彼女。
リジーは馬乗りで俺の腰にまたがっていた。
俺のうつろな瞳が開いたのを確認するや、ロデオよろしく嬉しそうに飛び跳ねて、俺の名前を連呼する。
「シュガー♪ シュガー♪」
小さな指の丸めた第二関節が、俺のへその上に押し当てられる。
はねる腰に重点を乗せて尚、彼女の体躯のその軽さ。
シルクのようになめらかな、黄金色の髪も揺れる。
「Wake Up! うぇいかっ」
エリザベス・Ⅰ・ラヴレス。愛称リジー。
最近数年ぶりに再会した、俺の幼なじみ。
純白のナイトドレスはサイズが少し緩いらしく、彼女の小ぶりな胸元が見えそうで見えない。
さっきからリジーが飛び跳ねるたび股間に伝わる衝撃が、徐々に心地良い微細動に変わってきている。
くすぐったくて。こすれて。
あの。これ、正直ヤバいです。
起き抜けで色々と無防備な状態の俺は慌てて目を泳がせ、必死に股間に集中せんとする神経を散らしにかかる。
「うぇいかっ、マイシュガー♪」
「だからー、普通に起こせってリジー」
冷静には言ってみるけど、内心バックバクだから。
「っていうか、自力で目覚めさせてくれ。毎朝重くて苦し……」
そこまで言いかけた俺のくちびるを、「めっ」と、人差し指を突き出してリジーがふさぐ。
眉をキリっと中央に寄せて、テスト中のお喋りをしかりつける試験管みたいな顔。
部屋の空気が朝日に煌めいて、淡い金髪に天使の輪がにじむ。
ブロンドはふわふわのウェーブ。
リジーは時間や気持ちをもてあますと、その髪を指に巻き付けてくるくると回していじくる。
「リジー、重くないよ?」
空気に浸透する柔らかな声が、小鳥がさえずるように抗議する。
負けじと、俺なりに気を利かせた言葉で返す。
「……愛が重い」
いや、どうかな。利いてる? 気。そう褒められた答えではなかった。
けれどリジーは一瞬キョトンとした後、いかにも「照れました」とばかり、両手で頬をはさんで目を閉じる。
うーん、あざとい。
「まあ、リジーの愛は重いのね。仕方ないよね」
リジーが再びピョンピョンそのからだを弾ませる。
「じゃ、たまにはシュガーが先に起きて。だってね、リジーね」
安手のパジャマの布地がこすれて、下半身のあたりがどんどんこそばゆくなってくる。
あ。これ。あ。
「毎朝、今日こそはシュガーが起こしてくれるかなって思って目が覚めるのに、シュガーはいないの。ずっといなかった」
リジーもガウンのパンツは薄手の生地で、つまりもうほとんど肌と肌が接してるような触感が。
俺の股間の上で、リジーの太ももがぺちぺち跳ねている。
焦りとくすぐったさといけない快感が同時にこみ上げてくる。
これは早急にどうにかしなくてはならない。
「ちょ、これリジー」
乱暴にならないよう、その腰をそっと持ち上げて彼女の下から抜け出し、ようやく身体を起こした。
「本当は夜中もシュガーと一緒におねんねしたいんだよ。だけどね、シュガママがね、狙うならアサガケまでにしておきなさいって」
ババア。
アサガケって言葉はよくわからないが、妙にこなれた響きがしてそれを実の母が使ったのかと思うとイヤ。
俺は絡まってごわごわの髪をかきながら、話を聞いてもらおうと左手をそっとリジーの手の上に置く。
そのまま片手にすっぽり収まってしまいそうだ。
「いいか、リジー。言いたいことは沢山あるんだが、まず普通の日本人は高校生にもなって『おねんね』なんて言葉は使わない。それは外で人に聞かれたら恥ずかしい言葉なんだぞ?」
リジーはキョトンとまばたきして、ななめに首をかしげる。
「リジー、日本人じゃないよ? アイリッシュ」
「おお。そりゃ盲点だった」
「それに、シュガパパが教えてくれた日本語なんだよ」
ジジイ。
「リジー、教わった言葉は全部大切にしていきたい」
そう言い切ると、彼女を取り巻く空気が変わった。
リジーの瞳が、まっすぐに俺を捉える。
新緑の梢を宿したような翡翠色の瞳には、ウソやケガレの入り込む余地がない。
リジーの純朴の森の中に、迷い込んだ俺が映っている。
ウソは許されない。
「シュガーは、私に甘えられるの、嫌?」
リジーの声が凛として響く。
彼女の仕草から甘えが消えた。
緊張した俺の背筋がピンと張っているのがわかる。
これは、本気の問いだ。
――シュガーは、私に甘えられるの、嫌?
直球で返事を訊かれている。
同情で優しくするのでも、ただ幼なじみだから甘えさせてやるのでもなく、一人の男としてリジーを受け止める気持ちはあるのか? と。
そして、俺は答える。
「……いや、まあ。懐かしくて、嬉しいけどさ」
なんだそれ。答えにもなってない。
リジーの頭をぽん、ぽんと二度、はたくように撫でる。
すぐにリジーの緊張は解けて、またふにゃあっとほぐれた笑みに戻る。
そうして笑うと、彼女の整った眉毛はちょうど八の字を描く。
なんだか少し、困っているみたいだった。
× × ×
リジー。俺は、きみに言わなくてはいけない。
× × ×
自家焙煎した珈琲の湯気でようやく脳が覚醒していく。
自宅の一階は、母親が経営する小さな喫茶店となっている。
焙煎部屋と隣接する散らかった台所は避け、朝は可能な限り早起きして開店前のカウンターで朝食を摂ることにしていた。
中国やベトナムの豆を配合したアジアンブレンド。
母のオリジナル珈琲は、喉を通り抜けた後で口の中にわずかな甘みが残る。この贅沢な味が通の間で評判を呼び、近隣住民以外にも常連客は少なくない。
ただ自慢ではないがまだまだ舌がお子様な俺にとって、珈琲豆本来の甘さなんて甘さとは呼べたもんじゃない。
今日も銀のピッチャーで常備されたハチミツを熱々の珈琲に流し込む。喫茶店の息子にあるまじき味覚だとは思うが、苦手なもんはしょうがない。
ふわふわのスクランブルエッグとベーコン、それにジャムを塗りたくったスコーンを二人前、母がカウンターに用意する。
「うまそう」
「どういたしまして」
母は、最近メガネをかけ始めた。髪をつんと後ろに束ね、つるの細い縁なしメガネ。アラフォーにしては随分若々しく、スマートな体型はママさんモデル然としている。母がカウンターに立つと、これがなかなか絵になるのが悔しいやら頼もしいやら。
「リジーに優しくすんのよ」
「お前、リジー大事に思うんだったら年頃の息子の部屋に上がらせてんじゃねえよ」
「だーれが『お前』じゃ」
「いでっ」
母親のチョップが決まる。手癖の悪い人だ。元ヤンか? 元ヤンなのか?
「今、あの子が甘えられるの修也だけなんだからね」
「別に。友達沢山作ればいいだけじゃん」
「あら。やたらめったら可愛くて、絵に描いたような金髪碧眼の、少しおかしな日本語を話す転校生よ? そうカンタンに友達作れると思ってるの? 同じ日本人同士でも帰国子女ってだけでさんざんイジメられたアンタが」
「息子のトラウマぐりぐり抉ってんじゃねえよ」
「いいから。リジーに甘えさせてあげなさい」
そういうと、母親は一呼吸あけた。
「でもアンタは、リジーに甘えちゃダメよ」
母がカウンターの奥へ引っ込むと、俺は時計を見上げた。まだ七時ジャスト。
リジーが来てから一ヶ月。彼女のアサガケのためにすっかり早起きにも慣れ、いつも余裕をもって朝食にあたれている。それは素直に感謝したいところだ。
軽快に階段を降りる足音がして、制服のブレザーに着替えたリジーが嬉しそうに飛び込んでくる。
「グッモーニン♪ シュガー」
「それはさっき言え」
木製スプーンでハチミツをかきまぜる。
珈琲に合うよう店に常備したのは、実は俺もテイスティングに参加して選んだアカシアの花の蜂蜜。軽くて胃にもたれず、一年中とろみを保つ、珈琲にぴったりの逸品だ。
これが珈琲に溶け込むよう、丁寧にゆったりかき混ぜる。
〆に少量のミルクを足して、キャラメルみたいな色になったら頃合い。
リジーが隣りの席に座ると、カウンター奥から母の声がした。
「リジー、朝ごはん食べちゃいなさーい」
「はーい」
「ベーコン残しちゃダメよー」
「シュガママ、いっただっきまーす」
そう言うとためらいもなく、リジーは俺の頬にキスをした。
ちゅ。
「俺はブレックファーストじゃねえ」
キスされた頬を袖でごしごしこする。
向こうの挨拶の習慣だと幼い頃の経験で知っているが、七年ぶりとなるとやっぱり照れ臭い。
ほんの一瞬触れただけの、柔らかい唇の感触。これが丸一日は消えてくれないのだ。
毎朝、リジーにマーキングされてる気分。
「ハニーフレーバーだね」
「ハチミツ飲んでるからな」
「シュガー、甘いの」
リジーの頬が少し赤らむ。
自分でもやり過ぎた自覚はあるんだろうか。
勘弁しろよ、こっちまで余計照れてくる。
「いいから、さっさと食え」
「うん♪」
カウンターに向き直り、ふたり並んで朝食にとりかかる。
かき交ぜ続けたハチミツはいつのまにか重みを消して、珈琲を啜るとまろやかな舌触りが残った。口に入れた分を飲み込むと、豆のふくよかな薫りが鼻を抜けていく。
とても飲みやすい。ハズなのに。
隣りでせっせと小さな口元に卵を運ぶリジーを見ていると、舌がピリピリ痺れてきた。腹の中に落ちた珈琲の熱が、もどかしさをかきたてる。
つい彼女の横顔をジッと見つめてしまう。
俺の視線に気づいたリジーが、素で照れて目を逸らした。
「食べてるとこ見ちゃ、ヤ」
「あ、ごめん」
俺も妙に照れてしまって、カリカリのベーコンにとりかかる。
× × ×
俺たちが暮らす六丁目は一軒家立ち並ぶ住宅街を成す。毎朝、その通りをリジーと並んで登校する。とは言っても、住宅街を抜ければ、俺はリジーと距離を開けることになるのだが。
余計な騒ぎは起こしたくない。
学校側には伝えてあるが、他の生徒たちに同居していることが知られるのは憚られた。
「やだやだ。クラス、バラバラなんだよ。学校までは一緒がいい。一緒に行こうシュガー」
そう言って最初は寂しがったリジーも、俺が折れないと知って納得してくれた。
歩道のない通りで、正面からゴミ回収車がのらくらと走り来る。
リジーを肩で押すようにして道端に避ける。
回収車が通るのをやり過ごしていると、リジーが嬉しそうに腕を絡ませてきた。
「バカ、そうじゃねえ。離れろって」
「シュガー、まだ五丁目だよ? 六丁目出て、五丁目通って、あの小さな公園抜けるまでは、イチャイチャしてていいってシュガー言った」
「イチャイチャしていいとまでは言ってねえだろ」
「言ったっ」
「……まあ、いいけど」
と、そんな煮え切らない俺の背後からぶしつけな大声。
「あらー?」
振り返れば近所のおばさん。両手にゴミ袋が一つずつ、そのお腹と同様にずいぶんパンパンに膨らんでいる。
「かわいらしい彼女さん」
「あ、おはようございます」
リジーの同居を知らないということは、母が特に説明する必要もないと判断している相手なのだろう。適当な笑顔であいさつをかわす。
続けてリジーも、愛想たっぷりにおばさんにあいさつ。
「おはよーございます、リジーはシュガーの彼女のリジーです、よろしくお願いします♪」
リジーはますます嬉しそうに腕を絡め、その身をすり寄せてくる。
どうでもいいけどリジー、ここまでひっついてて全然胸の感触ないな。
しょうのない煩悩を振り払いつつ、ついでにおばさんも払いのける。
「あ、ゴミ収集車行っちゃいますよ」
「あら、そうだったわ。ごめんねー」
おばさんのサンダルが早朝の空気に音を響かせて遠ざかる。ホッと一息。
リジーが嬉しそうに俺の腕をぶらぶら揺さぶる。
「彼女だってー。フフ」
「はいはい」
「お嫁さんだってー」
「言ってねえよ」
そりゃ、こんな風に密着していたら彼女に見えるだろうな。
でもそれも、公園を抜けるまでの話。
京葉線の海浜幕張駅に近い海浜高校まで、徒歩で三十分かそこらの距離に我が家はある。
それなりに遠方から通ってくる生徒も多い進学校で、地元の、同じ住宅街から通っている同級生は、一応知る限りではいないハズだ。少し離れた近所に一人いるくらい。
だからここまでは油断していいだろうという判断。
家を出て、六丁目、五丁目と進み、通り道である小さな公園を抜けるまで、俺とリジーは仲良しの幼なじみとして歩く。
そして小さな公園の中、ほんのわずかな小道を歩いている間に、暗黙のうちに少しずつ距離を開ける。
そこから先は、赤の他人としての通学を開始するのだ。
冷たい手口と思われるかも知れないが、誤った目立ち方をしたばかりに学校という閉鎖コミュニティでどのような目で見られるものか。
わけてもリジーのように見るからに特異でひ弱な美少女が、どのような仕打ちを受けるものか。
母親に言われるまでもなく、俺は最悪の事態を想定した上で今の行動様式を選んでいる。
(――まさか、このやりとりをアイツに見られていたとはな)
今日も住宅街を抜けて小さな公園にさしかかると、俺の腕をつかむリジーの手から静かに力が抜けていくのがわかる。
小さな公園の、小さな道を歩きながら、小さな彼女の手が離れる。
前を歩くリジーの歩調が、少しずつ速くなっていく様を見守る。
俺は歩幅を狭めて、リジーとの距離を開けていく。
ただでさえ小さなリジーの背中が、もっと小さくなっていく。
公園を出た先の舗道で、リジーが立ち止まって振り返る。
一度開いた距離は開けたまま、俺も立ち止まる。
これでいい。この一ヶ月、毎朝繰り返していることだ。
いつものように声をかけて、俺は朝の儀式を終える。
「じゃあな。行ってらっしゃい」
「うん。Bye バーイ」
リジーは素直にうなずいて、俺の先をひとり歩いていく。
少しして、またチラとこちらに振り向く。
一緒に来て欲しそうに、口元をもごもごさせている。
いいや、俺は一緒には行けない。
でも意地悪でそうする訳じゃないんだからな?
俺はいつも言って聞かせる言葉を含んだ笑顔を浮かべて、黙って見送る。
リジーの顔に、ちょうど朝の舗道を染めるそれと同じような、蒼い翳りが差した。
彼女の眉が八の字を描く。
それからクルッとひるがえり、リジーは俺に背を向けた。
× × ×
遠くから震動が木霊する。
ぁぁぁぁぁ
誰かが廊下を全力疾走する音だ。
ぁぁぁぁぁあああああ
その誰かが獣のような唸り声を上げている。
シュウヤぁぁぁぁぁあああああ
二年E組の教室に入るなり、俺は背中に鈍い衝撃を受けてひっくり返った。
慌てて肩から受け身を取る。が間に合わず、リノリウムの床にしこたま脇腹を叩きつける。
床にぶつけた肘の先からキーンとした痛みが頭にまで伝う。
俺の背中に突進してきたバカはもっとひどく、勢いあまって自らも転倒。哀れいきなり事故に巻き込まれた沢井くんの机ごとひっくり返った。大きな音がクラス中に響き渡り、沢井くんの机の中身があたりに散らばる。もう大惨事だ。主に沢井くんが。
穏やかな朝の教室に似つかわしくない騒々しい出来事。にも関わらず、その音に驚いて振り返ったクラスメイトの反応は鈍い。
「まーたリョーマか」
誰かがそんな一言で状況説明を片づけて、それでおしまい。泣きそうな沢井くんは別として。
クラスの誰もが知っている。今、俺の背中にぶつかってきたバカ野郎、赤坂竜馬とはこういう男なのだ。見た目は小柄なメガネでオカッパに近い黒髪。外見のイメージ通りクラスでも屈指のオタクなのだが、一方でひどく傍迷惑なバイタリティに溢れている。
お喋りで、キレやすく、恥を知らない。自分の好きなものについて徹底して周囲にふれて回り、少しでも忌避的な素振りを見せた相手に対しては容赦なくその価値観を否定する。ただただあまり関わりたくない厄介なタイプの、俺の親友だった。
「痛ってえな。リョーマてめえ、何してくれてんだっ」
痛めた肘をさすりながら、こちらも負けじとブチ切れてリョーマに振り返る。
リョーマは茫然自失状態の沢井くんの肩を同情するようにポンポンと叩くと、こちらに振り返り、メガネのブリッジをクイと持ち上げる。
そして今度はいきなりドーン! 人差し指を俺に突き出した。
「ふっ、ざっ、けっ、誰だ、あの金髪碧眼美少女はっ」
「――は?」
「『――は?』じゃねえよ、さっき街でイチャイチャしてた、お前の彼女の話だよっ」
教室の空気がざわっと泡立つ。
いきなり奇声を発して机ごとひっくり返る同級生にも動じなかったクラスメイト達が、今度は瞬時にして好奇のまなざしを俺へ寄せてくる。茫然自失としていた沢井くんまで下世話な興味にらんらんと瞳を輝かせて。
「いや、お前それ誰かと勘違いしてるって。俺じゃねえよ」
「どこでどう知り合ったんですか? 金髪碧眼美少女とどうすればお近づきになれるんですか?」
リョーマが訳のわからないテンションで詰め寄ってくる。
すっとぼけは通じない。
「それからっ」
朝日を反射してきらりと光るメガネのレンズの奥で、リョーマの目が暗く据わっている。怖い。
「金髪碧眼美少女に、自分のことシュガーって呼ばせてたよな。なんで?」
やたら芝居がかったテンションが、「なんで?」のとこだけ幼い調子で訊ねてくる。精神的には幼稚園児並みの男だからこちらの方が素のトーンなのだろうが、逆にあざとい。
「うっ。いや……別に」
恥ずかしさで顔が火照る。頬が熱い。未だ残るリジーのキスの感触が、熱でくっきりと浮かび上がってくる。
「なあなあ、なんでっ?」
リョーマは別に騒ぎを広げたくて声を大きくしているのではない。ただ常に周囲との距離感がバグってるだけだ。それでもコイツの声に触発されてクラスのざわめきが一層大きくなっていく。
「ちょっと聞いてよ、佐藤くんってば彼女に金髪のウィッグ被せて自分のこと『シュガー』って呼ばせてるんだって」
「ええーっ? 何それ、気持ち悪い」
何それ本当に気持ち悪いわ。デマの拡散やめて。
俺は慌てて周囲に聞こえるよう大声で説明する。
「違うんだって。シュガーってのはホラ、佐藤を砂糖とかけて英語で説明したんだよ、昔。その時の呼び名、リジーが今でも覚えてて」
「だからリジーって誰なのよ」
今の声は、冴木だな。
またもリョーマが興奮して叫ぶ。
「は? 苗字が佐藤だからシュガーって呼んでくれってか? お前の体どんだけ糖分詰まってんだよちょっと舐めさせろよ」
「リョーマ黙れ。リジーってのは、ホラ知ってる奴いない? 今年から国際科のA組に転入してきた子。エリザベス・ラヴレスっていうんだけど」
「エ、エ、エリザベス・ラブレスっ?!」
「リョーマ黙れ」
今度注意したのは俺ではなく、少し目つきの鋭い冴木瑞葉だ。肩口まで控えめに伸ばした髪先で僅かに青のメッシュを入れ、スマートで身軽な体躯。本人不在の場で陰口を叩いてもすぐ様飛んできそうな剣呑さをまとった女子。暴走モードのリョーマに対して怯まず接することのできる、稀有な存在でもある。
冴木がリョーマの頭頂部を片手でぎゅっと押さえつけ、俺にうながす。
「佐藤。ちゃっちゃと説明しな」
冴木に首肯で感謝を示し、やっとこさ俺は立ち上がる。
「俺、子供の頃イギリスにいてさ、アイルランド。その時ずっと一緒だった子。話の流れで『サトウ』は『シュガー』って意味だよって言ったら定着しちゃって。……別にそんなおかしくないだろ? 子供だったんだ」
「うん。それで?」
「それで、っていうか……」
しかし、困ったな。これ以上言えることが無い。
俺こと佐藤修也がリジーことエリザベス・I・ラブレスと過ごしたのは、父親の仕事の都合でアイルランドに引っ越していた幼少期の六年間だけ。緑豊かな丘陵地の中腹に我が家はあり、小路を挟んでラブレス家はあった。
俺のオヤジも、リジーの母親も、共に作家だった。
「それで?」
冴木がまた訊ねてくる。
「いや別に? 俺は帰国してそれっきり。今年七年ぶりに会ったんだ」
「うん。それで?」
今度は誰の声だ?
見回すと、大体みんなが同じこと訊きたそうな顔をしてた。
「だから、それだけだって!」
こんな野次馬共にリジーと同居してるなんてことがバレたらどうなるよ。
「みんなも、よければ仲良くしてやってよ。すごくいい子なんだ。そしたら俺とリジーはなんでもないってわかると思うしさ」
それからもしばらく、クラスメイトのニヤついた視線にさらされて時間は過ぎた。
そしてどういう訳か、俺は内心ずっとムカついていた。
最初は、とは言え金髪碧眼の幼なじみがいるってみんなに知られる事、ちょっと誇らしくもあったんだ。いや、そう思おうとしていた。けれど違う。どうもこの胸の疼きは、照れくさいとか鼻が高いとか、そうしたポジティブな要因からくるものではない気がした。
もちろん、クラスメイトのちょっとしたスキャンダルでヒマを潰そうとした同級生達や、興味のおもむくままに全力で好奇心を示せるリョーマにムカついてるわけでもない。実際のところ、面白い連中だと思っているし、良いクラスだ。最悪のクラスを幾度か経験しているからこそ、余計に今この学園生活を共に過ごせるE組のみんなを悪しからず思っている。
じゃあ、いったい何をこんなにムカついてるんだ、俺は?
リジーの為に黙っていることだって、当然のことだ、苦でもなんでもない。
あるいは……俺は、その人に知られたくなかったのだろうか。
× × ×
昼休みが来て、購買で焼きそばパンとオレンジジュースを買った帰り。
廊下の壁に寄りかかった女子が手招きしてくる。冴木瑞葉だ。
同級生で唯一、同じ住宅街ではないにしろ少し離れた近所に住んでいる生徒であり、知らない仲ではない。
ではないが、俺は少し緊張して冴木のそばに近づく。
冴木はあまり女子同士で徒党を組んだり近寄れない空気を発するタイプではないが、それでも鋭い目つきが放つ凜とした空気に、二人きりだとついたじろいでしまう。
「おう。な、なに?」
「さっき、A組の友達んとこ遊びに行ったんだけどさ」
「A組? ……ああ、リジーか」
「他に何の話だと思ったのよ」
「別に?」
「アンタね……まあいいや。それでね、ちょっと知らせたほうがいいかと思って」
そう言って手招きする冴木に先導されるまま、廊下を曲がった先にあるA組の教室の前へと向かった。
A組の開いたドアの前で冴木が立ち止まり、室内を覗くよう手のひらでうながしてくる。
うながされるまま、そっと室内を眺めた。
そうして俺は目にする。
――――――。
そんな光景を、俺は漠然と予感していた気がする。
だから俺にばかり甘えて欲しくなかったんだ。
そんなリジーの姿を見るのは不安でたまらなかったから。家での甘えた態度は、どこか学校での境遇と裏腹である気がして。
教室の真ん中。そこでリジーは自分の机に座り、何も食べずただまっすぐ前を見ていた。
ひとりぼっちで。
周囲のクラスメイトは、まるで彼女など眼中にないかのようにそれぞれ群れを作り、昼食を囲んでいる。その喧噪がより一層リジーの孤独を引き立てている。
あーあ。知りたくなかったな。なんてひどい事を思う。
母親に言われるまでもなく、リジーが今のクラスでそう上手くやっていけてるとは思っていなかった。
俺だって帰国してから最初のクラスは、まさしく地獄だったから。
まるでリジーの席は四角く切り取られた別次元にあるみたいに、周囲のざわめきから隔絶されている。
時間すら停まっているかのようだ。
お喋りに花咲かせるクラスメイトたちとの違いは、ただ喧噪と静謐の差異だけではない。リジーの机の上には、何も置かれていなかった。
「毎日、お昼何も食べてないんだって」
憐れむでも蔑むでもなく、冴木が落ち着いた声で解説をくれた。
A組の友人に何気なく今朝の話をしてリジーの様子を伺ったところ、リジーは孤立していると教えてもらったそうだ。
「え? いや、アイツ昼食代は持ってるはずだけど」
リジーの家からうちに振り込みがあって、そこからまた母が適宜小遣いをリジーに渡している。
正直、電車賃ひとつビクビクしながら確認する俺よりは遥かにリッチではあるだろう。
「知らないよ、うちに言われたって」
冴木は少し声のトーンを落とすと、あくまで可能性の話として最悪の状況を俺に問う。
「陰湿なイジメにでも遭って、誰かに指示されてるとか?」
「……ああ、もう」
俺は激しく頭をかきむしる。
きっと面倒くさいことがリジーを待っているだろう。まだまだ俺の助けだっているだろう。
そうわかっていたクセに、リジーには一人でがんばる強さを持っていて欲しい。俺の知らないところでたくましく生きていって欲しい。そんな都合の良い理想を勝手に押しつけていた。
その結果がこの状況だろうか。俺は間違っていたのだろうか。
新学期にリジーがこちらに越してきて一ヶ月が経つ。
一体いつからこうだった? もしかすると、最初からずっと?
「ちょっ、何?」
髪をかき乱しすぎたか、俺を見て引いた冴木の声で我に返り、髪型を整える。
「いや……知らせてくれてありがとうな」
「礼を言われる理由はよくわからないけど」
髪は整っていなかったらしく、冴木の指先が俺の髪を軽く手入れして仕上げる。
「それとも、うちに気にかけていてほしかった? 佐藤」
冴木が意地悪にほくそ笑む。
「は? ナメんな」
ともかくリジーのあんな姿を見せられて、そのままにはしておけない。
声をかけなきゃ。A組の教室に一歩踏み込む。
と、冴木に腕を掴まれ、すぐさま強引に引き戻された。
さすがはバレー部レギュラーだけあって、その腕力にはなかなかどうして抗えないたいイタい痛い。
「痛てえ痛いって、なんだよ」
冴木は抵抗する俺の手を乱暴に振りほどく。
「バカなの? 佐藤。アンタ何する気」
ただでさえ鋭い冴木のまなざしが、ナイフのように尖って刺してくる。
「何って、リジーぼっち飯じゃ可哀想だろ。昼飯に誘おうかと」
「状況がわからないのに? 孤立した女子の前に馴れ馴れしく男子が現れたら、クラスの女子がどう思うかくらい察しなさいよ」
そう言われても。
「どうなるかって、どうなるんだ?」
「……気に食わないの」
「女子こえーな、おい」
「男子だって大差ないでしょ。待ってて、もっと自然に呼べる子使うから」
そういうと、冴木はA組室内の大半からは死角になるよう身体を引っ込めて、教室の隅にいる誰かを手招いた。
「つゆり」
冴木がそう小声で呼びかけると、やがて目の前に現れたのは宙に浮かぶ大きなマシュマロだった。
いや本当にマシュマロだった。
「瑞葉、やだどうしたの?」
彼女はふわふわのショートボブ。そんなに太っているわけでもないのにほっぺたはふくよかに膨らんでつやつや輝いている。薄い垂れ目ははんなりとして、顔だけ切り取るとまるでマシュマロ。それでまんまのあだ名が定着している。
マシュマロちゃん。本名は琴原つゆり。癒し系って言うんだろうか。よくうちのクラスまで冴木に声をかけにくるので、E組の男子の間ではなかなかの人気者だ。A組だったのか。
「やだ一緒にお昼食べようよ、最近あんまりじゃない」
「うん、そう。一緒に食べよ。それでね、つゆり。誘って欲しい子がいるんだけど」
マシュマロちゃんの目がようやくこちらを向いて、俺に気付く。
「やだ」
その「やだ」は否定形ではなく、単なる口癖らしい。
「瑞葉の彼氏?」
「バカ言わないで」冴木は即答した。
「そっか、彼が気になる子を誘えばいいのね?」
「お願い出来る?」
冴木の頼みに、マシュマロちゃんは二つ返事で答える。
「やだ、いいよー」
やだなの? いいの? どっち?
× × ×
マシュマロちゃんがリジーを誘っている間、俺は「念のため」と冴木に言われるまま、二人して屋上の給水タンク脇に腰かけて待つことにした。
もしA組の人間関係が想定しうる最悪の状態だった場合、廊下ですらリジーが男子と仲良くしている姿を見られないほうがいいだろう、との判断からくる指示。
タンクを支える鉄骨の塗装は経年劣化で剥げて、焦げ付いたような錆が伝っている。それを指でなぞっていると、「やめなよ、汚い」冴木が注意してくれた。
「可愛い子じゃん」
冴木は青空を見るでもなく見上げ、そのまま俺に話しかける。
「大事にしてあげなよ」
「言っただろ」
俺は念を押す。
「彼女じゃねえよ」
「あっそ」
そして冴木は言い捨てるように付け加える。
「うちには関係ないけど」
何か言い返してやろうと口を開いた瞬間、
「あ。来た」
冴木が声を発し、俺もその声が向く方――屋上の入り口に振り返る。
マシュマロちゃんが校舎から出てきて、後ろに振り返ると手招きをする。
もじもじとした様子で、リジーが陽の下に出てきた。
今朝がた俺に対してあんな大胆に絡んできた少女の面影はそこにはなく。
彼女は顔を真っ赤にして下を向き、上目でマシュマロちゃんの様子を窺っている。
リジー、照れてやんの。
下唇を軽く噛んだ口元。よく見れば紅潮した首元。
同性の友達に誘われて照れちゃって、必死に喜びを隠している様がありありと伝わってくる。
学校には、俺の知らないリジーが沢山いるらしい。
冴木は待つ時間が惜しいとばかり、タンクを降りて二人の方へと近づいていった。
マシュマロちゃんの紹介でリジーが振り返り、冴木と対面する。
それからリジーは緊張と昂揚で口元をキリっと結び、まっすぐに冴木を見つめる。
「こんにちは、リジーちゃん」
もしもその瞳が獲物をとらえたサーベルタイガーのように凄んでいない時であれば、誰だって好感を抱かずにはいられないだろう、快活によく通る冴木の声がする。
「うち、冴木瑞葉。つゆりの友達。一緒にお昼食べたいなと思って。いい?」
「あ、はい。よろしくお願いください。ドーゾ」
いつも以上に日本語もぎこちなく、ペコッと、その小さな体がお辞儀する。
距離を置いて眺めることしばし。改めて、いやいつも以上に実感した。
リジー。俺のリジー。
なんっっって――可愛い生き物なんだ!
今すぐ飛んで行って抱きしめたい。
よく出来ましたって頭をかいぐりかいぐりしてやりたい。
それで、その、一緒に登校するのをいやがってゴメンって謝ろう。
そうすることで誰かに誤解が生まれたら、そのたびに俺が誤解を解けば良かったんだ。誰かにからかわれたら、そのたびにからかった奴を俺が怒れば良かったんだ。それだけのことだ。それだけのことをただ、俺は面倒くさがった。当事者なのに、他人のフリをしようだなんて。
タンクを飛び降りて、俺はリジーの元へと向かっていく。
満面の笑みを浮かべて。あくまで爽やかに、出来る限りの気安さを演出して、軽く片手を挙げながら。
「よっ、リジー」
いや、さすがにわざとらしかったか。
ただでさえ緊張と昂揚ではち切れそうだったリジーの表情が、俺に気付いた途端。
俺に気付いた途端……?
「……しゅがぁ」
そっと息を吐き出すように俺の名を呼び、リジーの眉はまた八の字を描いた。
ヒビ割れたタイルの隙間から頼りない芽を出した青葉が、誇らしげに風にそよぐ。流れる雲の巨大な影が、オオトカゲのように足元を通り過ぎていった。
「なーんだ。イジメじゃなかったのか、つまんないの」
冴木は態度で悪ぶって、けれどその声は優しく安堵している。
まだ肌寒い青空の下、四人で昼食を囲むことにした。
俺とリジーは購買のパン。マシュマロちゃんの弁当箱は、当番制の手作りだという家族の愛情でボリュームたっぷり。冴木は大きなにぎり飯二個という豪快な手弁当で、一切の遠慮なくマシュマロちゃんの弁当からオカズをつまんでいる。
「てへへへ。心配おかけしてゴメンナサイでした」
申し訳なさそうに指先でくるくる髪の毛をいじりながら、リジー自ら説明してくれた。
誰の力も借りず、自分から声をかけて周囲と友達になろうとした結果、そのタイミングをつかみ損ねてどうしていいかわからなくなり、どんどん孤立が深まってしまったそうだ。
マシュマロちゃんから見ても、確かにリジーは周囲に誰も近づけさせないオーラを発していたという。
それでいてこの見た目だ。
絵に描いたように美しい人や光景。それは眺める分には目に優しくても、踏み込もうとすれば時に距離感を狂わせる。声をかけるにかけられなかったクラスメイトたちの気持ちもわからないでもない。
「リジーね、リジーだけで友達作りたかったの」
リジーが気まずそうに、上目遣いで俺を見やる。
「シュガーに心配かけるの、やだなって」
「結果的に、俺は超心配した訳だけどな」
意地悪でそう言うと、困り眉のリジーが殊勝にコクリとうなずく。
「ごめんなさい」
今朝俺を起こしに来た大胆なリジーと、今の控えめなリジー。どっちが本当のリジーなんだろう。
ぼんやりと考えに浸る暇もなく、冴木の足が俺の腕を蹴り飛ばした。
「あっぶねっ」
あやうく落としそうになった焼きそばパンをなんとか死守する。
「何すんだよ」
「なんかムカついたのよ。今、リジーちゃんが謝る必要あった?」
「それ人を蹴っとばしていい理由にならないから」
獣のような鋭い視線で俺を威嚇してから、冴木はリジーに優しい笑みを向ける。
「リジーちゃん。ううん、リジーって呼ぶね。いい?」
小さな口でサンドウィッチをハムッとくわえていたリジーが、コクコクと焦ってうなずく。
「結果として。リジーは一人で頑張って、その方法はちょっと失敗だったかも知れないけど、その姿にうちらが気づけたから、ホラ、今こうして一緒にお昼囲んでるんだよね」
リジーは小さな口をポカンと開け、冴木の言葉の先をうかがう。
「それで、合ってるよね?」
そう問われて、小さな口を開けたままコクリとうなずいた。
ちょっとアレだ、ニンジンかじる最中に警戒して固まったウサギっぽい。
「だったらさ、リジーはちゃんと、リジーだけの力で友達作れたじゃない。バカ佐藤なんか関係ないわ」
そう言われても、意味がわからない様子でリジーは固まっている。
「リジー、わかる?」
通じているかどうか心配になったのか、改めて冴木が訊ねる。
リジーはまず自分を指さす。
「リジー」冴木がうなずく。「うん」
リジーは次いで、冴木を指さす。
「ミズハ」冴木がうなずく。「うん」
リジーは次の単語を少し言い淀んでから、その響きをいつくしむように口にする。
「ともだち?」
冴木はリジーから目を逸らさず、コクリとうなずいた。
「リジーと、うちと、それから」
冴木がリジーの人差し指を優しくつまんで、マシュマロちゃんに向ける。
「つゆり。こんな五月の晴れた空の下で、いっしょにお昼食べてるんだよ。それはもう友達って言うの」
リジーの顔がぱあっと輝いて、二人の姿を交互に見る。翡翠色の瞳がビー玉のように太陽のきらめきを照り返していた。
「良かったな、リジー」
そう口にした途端、冴木の鋭い視線ににらみ付けられた。それから冴木は俺を威嚇したまま、小柄なリジーを覆い隠すように抱きしめる。
「リジーはもう、うちらの友達だからね。佐藤に偉そうな保護者ヅラさせないから」
「はあ? してねえよ、そんなツラ」
「してたでしょ今。『良かったな、リジー』。腹立つわー、うちが教えるまでずっと学校じゃリジーのこと突き放してたって言うじゃない、よくそんな上から目線で物言えるよね」
「うっ……」
痛い痛い、コイツの言葉は全部痛い。ついでに手を出されても痛いし足を出されても痛い。全身凶器か。
「アンタが、本当はリジーの恋人だってんなら話は別よ?」
だから。お前の言葉は痛いから。
「シュガーはっ、」
と、リジーが大声で口を挟んできた。
「シュガーはリジーのマイシュガーだよ」
ほお、と、冴木が楽しげにリジーを見やり、それから俺に振り向く。
「やっぱり、陰ではそういう事なの?」
「やだ。まあ一緒に暮らしてるって、そういう事だよねえ」
マシュマロちゃんが嬉しそうに冴木の援護射撃に入る。
うっかり同居の件までふたりにバラしてしまったのは俺の失態だった。
正直なところ、リジー以外の女子と話すのに間がもたなかったのだ。
しかしどう答えよう。今不用意なことを口にしたら、せっかく機嫌のよくなったリジーを傷つけることになりかねない。だからと言って事実、恋人ではないし。
返答に迷う俺を見つめ、リジーは口に残ったサンドウィッチをパックの紅茶で一気に流し込む。ふくらんだ頬をもぐもぐさせて、俺の隣りまで近づいて来た。
ウサギっていうかハムスター。
「なんだ? 行儀悪いぞ、リジー」
咀嚼した食べ物を飲み込む音がして、リジーが俺の頬にキスをした。
ちゅ。
「ホラ」
何度しても仄かに顔を赤くしたまま、リジーが冴木に証明してみせた。
冴木とマシュマロちゃんが顔を見合わせる。
「バカお前っ、人前で……」
「人前で?」
冴木に訊き返される。しまった、言葉のチョイスを間違えた。鬼の首でも取ったかのように、冴木は意地悪な笑みを浮かべた。
「って事は。って事はそういう事でしょうが。普段はチュッチュしまくりでしょうがっ」
まあ、しまくりっていうか、されまくりなんだよな。一方的に。
「リジーおめでとう、なんだそういう事だったのね。だったらうちが余計な事したわ。ごめんあそばせ」
「や、ちげえってっ」
慌てふためく俺の横で、キスしたはいいものの照れてしまったリジーがうつむき、冴木とマシュマロちゃんはきゃっきゃと騒ぐ。
一時間前には思いもしなかった平和な光景に、昼休みの終了を告げるチャイムが鳴り響いた。
「やば。うちトイレ。リジー行く?」
「行く」
バタバタとみんなで昼食を片付けて、冴木とリジーが先に階段へと駆けていく。
「あー、なんかすげえ疲れた」
俺もグチグチ言いながら後に続こうと立ち上がる。
と、背後からマシュマロちゃんがぽそりと漏らす声がした。
「シュガー君」
この人とは今まで特に接点は無かったけど、今日はちょっと距離を縮められた気がしたので少しの気安さを持って振り向く。
「なんだよ、マシュマロちゃん」
彼女は、笑っていなかった。
リジーといいマシュマロちゃんといい、いつも笑顔を振りまいている人の真顔は心臓に悪い。どうせならずっと笑っていてくれよ。
「えっと、あれ? 俺もマシュマロちゃんて呼んじゃダメだった?」
マシュマロちゃんはかまわず続ける。
「でも、本当にそうだったのかな」
「え? ……なにが?」
「本当はね。普段の教室でのあの子の態度。私には、逆に見えたよ?」
「……逆、って?」
「だって、あんなにあいくるしい人だもの。みんなリジーに声をかけたがってた。私のクラスってね、瑞葉が想像するような繊細な雰囲気じゃないんだ。リジー以外にも海外から来た子も少なくないし、むしろ他のクラスよりオープンだって誇りがある」
あたりには弁当の残り香が漂う。お米と海苔とお総菜。昼休みの匂い。遠足の匂い。誰かが手間暇かけてこしらえた、人の気配が詰まった匂い。
「あの子がちょっとでもガードを緩めたら、きっと簡単に友達は出来たと思うの。クラスメイトに声をかけるチャンスくらい、きっと両手で数えるより多くあった。けど、リジーは絶対にその一線を越えようとしなかった。怯えてのことじゃない。固く、自分の中でそう決めていたみたいに」
「……訳わかんねえよ。そんなの、誰も得しねーじゃん」
「そう、得しない。だから私には、リジーは自分を傷つけようとしている風に見えていたの」
強い潮風が吹いて、弁当の残り香を冷えた鉄錆の匂いがさらった。
「シュガー君」
「いや、その呼び方やめて」
「シュガー君には、リジーがそんなことする心当たりある?」
マシュマロちゃん、基本聞いてないよね俺の話。
「リジーって、どうして日本来たのかな?」
そう質問を残したきり、こちらの返事を待つ訳でもなく。マシュマロちゃんもこの場を去って、俺が最後にひとり残された。
空を見上げ彼女の質問を反芻しながら、ぼんやりと正解を探る。
リジーがしたかった事。
この一ヶ月を彼女が孤独に過ごした意味。
俺が触れずに過ごしていることの罪。
答えにたどり着くよりわずかな手前で、午後の授業を言い訳に俺は校舎に戻った。
× × ×
放課後。正門の前でリジーと一緒に帰るため待ち合わせをした。
もう幼なじみバレはしたんだ。それと、リジーに友達も出来た。これからはもう気にせず、表だって一緒に過ごしていいだろう。
誰に決められた訳でなく、自分で勝手に課して勝手に縛られていたルールを、自分で解除した。そんな自作自演で楽になることが結構稀によくある。
バブル期はハイカラだったのだろう海浜高校のパッと見モダンな建築は、しかしよく見れば潮風と経年劣化からくる錆だらけで、きっとまだ日本の未来に期待を抱けていたバブリーな時代の、理想の残滓が未練がましくこびり付いている。
「なんかキタナイ。アニメで見た日本のハイスクールとちがーう」
入学したての頃、リジーがそうボヤいてたっけか。
下校する生徒たちの向こうにリジーの姿を認めた。リジーも俺に気づいたようで、手鏡を取り出してあせあせと髪をいじくる。うーん、さすがにこれは狙ってますね。あざとい。あざとくて本人の狙い通りにかわいい。
「今日はシュガーとリジーずっと一緒だね。学校の外でも、学校の中でも」
近づくとそう口にしたリジーの笑顔は、自然な感情が溢れているようにも見えた。
リジーから何をどう聞き出したいのか。うまく考えを整理出来ないままでいた俺の足は、自然と横断歩道を渡り、横幅の太い高層マンションの建つ方へと歩き出していた。
「シュガー? おうち、そっちじゃないよ?」
とてとてと後を付いてきていたリジーが戸惑ったように訊ねる。
「えっと、そうなんだけどさ。もうコソコソする必要なくなったんだし。リジーに海側の街を案内するよ。まあ、言ってもすぐに海だけど」
とたん、リジーの顔がパッと花開き、「えいっ」と素早く手を繋いできた。
相変わらず小さくて、やわらかくて、俺はその手を強く握り返せない。
「いや。さすがにそれはちょっと、高校の近くじゃまずいんじゃねえか?」
傷つけないよう、頬をかいて照れながら手を離すよう伝えると、
「今日だけだからー」
リジーは手に力を込め、俺の体を自分のもとに引き寄せた。
「わかったわかった。行こう」
そうして、つないだ手を他の生徒に見られないよう少し焦る気持ちを抑えながら、俺とリジーは海に向かって歩き出す。
海浜高校から新興の高層マンションを抜けて海浜幕張駅の反対側へ出ると、そこから先はデザイナーズマンションの多いベイタウンが広がっている。ベイタウンをひとしきり散歩してリジーを案内すると、あらかじめ立ち寄ったアウトレットで買っておいたクレープを手に、海辺の道路をまたぐ陸橋へと上がった。
足下を快適に車が走り抜けていく。
橋の向こう。防砂林の奥から濃い潮の香りが鼻を突く。あの先に海がある。
近所にスタジアムや大型イベントホールもある為、フェスでも開催された日にはパニック映画もかくやの人混みと化すあたりだが、今はただ穏やかに、動く人影もまばらな黄昏の海岸線が伸びていた。
歴史の浅い、コンクリートの埋め立て地。俺は未だにこの土地を故郷とは思えない。
故郷と聞いていつも思い出すのは、あのアイルランドで過ごした幼い頃の記憶。
あらゆる自意識が目覚めた土地。青々とした平原で、リジーや友達と遊び回った。
あの土地からこの土地へ。幼かった俺の場合は引っ越しの決定権のある訳もなかった。
けど、リジーは?
こいつは、何が楽しくてあの美しい故郷を離れ、この空疎なジオラマの上を孤独に耐えて歩くことを選んだんだろう。
昔俺と仲良かったから日本文化に興味があって、だから留学を決めたとリジーは語っていた。
「半分はビックリするくらいビューティフル。半分はビックリするくらいアグリー」
それがリジーの日本評。その時は異文化への興味があれば案外決めてしまえるものかなと思っていたけれど、リジーのマザコンぶりを覚えている身としては、それでも少し意外に感じた。
いつまでも子供のままではいられないだろうけれど。
それに、俺の家を頼りにしてくるというのも、普通に考えれば少し異様ではないだろうか。母の懐が広すぎるというか。俺の価値観が硬直してしまっているのだろうか。
複数の階段から繋がった陸橋は、幅広で少し距離も長い。
すっかり見飽きて今さら感慨も何もない光景を、リジーと並んで歩いている。
そうだ。いつか――まだ帰国して間もない頃、この埋め立て地の、いたって味気ない殺風景を見て、不意に思ったんだ。
〈この道を、リジーと一緒に歩けたらいいな〉 なんて。
すっかり忘れていた。あの頃、俺はリジーが恋しくてたまらなかったはずだ。
こんな幸せな時が訪れることを、ずっと夢見ていたはずだ。
「しゅがあ」
甘い声に振り向くと、俺に向けてアヒル顔がくちびるを持ち上げていた。
「うおっ」
びっくり。つま先立ちをしたリジーのキス顔が近づいている。
リジーは思わず引き下がろうとした俺の気配を察知。次の瞬間、舌をぺろりと突き出して、にしてもほんとに小さな小さなそのベロで、俺のほっぺをレロってなめた。
ほんの一瞬。生暖かい異物感が頬を撫でる。
リジーの舌が口の中に引っ込む瞬間、白い泡状のものが飲まれるのが見えた。
俺の頬に付いてたクレープのクリームを舐め取ったらしい。
「シュガー、甘いの」
「はいはい。それ今朝もやったから」
思考が途切れてホッとした俺が前を向くと、すぐに背後からわざとらしい声。
「ア。つまづいちゃったア」
振り向くと、リジーが自分の鼻の頭にクレープの残りをくっつけていた。
リジーがこちらを向いて、あざとく訊ねる。
「リジーの顔、変なとこない?」
「無い。完璧なピエロだ」
リジーはひるまず、目をつむってかかとを持ち上げると、ぐぐいっとクリームのついた鼻先を俺に近づけてくる。
「リジー、鼻がむずむずする」
「気のせいじゃね?」
リジーのほっぺは桃の皮みたいな仄白いピンク色で、赤ん坊のようだった。
ちょうど髪が風にあおられて、つるつるっとした綺麗なおでこがコンニチワしている。
俺はこらえてた笑いをため息ではき出し、頭をかく。
「鼻、クリーム付いてんぞ?」
「かゆいの。シュガー取って」
まだ粘るか。
リジーは早くも疲れたらしく、足下をプルプル震わせている。
「しゅがあ?」
「バカ」
彼女のおでこを軽く小突くと、その鼻先のクリームをハンカチで拭ってやる。
「もおー、キスして欲しかったのに」
「欲望をバラすな」
「イシシシシシ」
リジーは笑った。真っ白な歯をむき出しにして、いずれにせよ小動物ぽい。
ああ、これだ。断片的で抽象的な記憶の中で、幼いリジーはこんな風にやんちゃな笑い方をしていた。
いかにも女の子らしさで武装した今のリジーに俺が苦手意識を抱いたのも、要はそのギャップからくる違和感だったのだろうか。
わっかんね。どうだっていいや、もう。
「えいっ」
リジーはやけになったように、クレープの残りを俺に突きだしてくる。
「なんだよ」
「シュガー、食べて」
「俺のまだ残ってるから」
「それはリジーが食べる」
リジーが押しつけてくるクレープで、結局クリームが俺の鼻にくっつく。
「このっ」
負けじと俺もクレープをリジーの顔に押し当てて、二人してクリームまみれになる。
「最悪」
「サイアクゥ」
すっかり構えをほどいたリジーが、きゃはははと高らかに笑う。
この国で再会してから、今度こそ初めて、本当のリジーを見つけた気がした。
リジーが俺の制服に顔を埋め、ごしごしとクリームを拭き始める。
「やめろ、コラッ」
本気でムカついたけど、くすぐったいったらなくて、どうもスイッチ入ったらしいリジーもよくわからないテンションで笑っている。
そうしてクリームまみれの顔を見合わせた俺たちは、声を震わせ笑い続けた。
× × ×
もちろん、つぶれたクレープの残りは美味しくいただきました。
浜辺の東屋の流し場で、使えるかもわからない硬い蛇口をひねるとチョロチョロ水が流れ出てきた。
手と顔を洗って、二人して海辺の砂浜に出る。
砂地のところどころから芝が生えているあたりに腰を落とし、しばし潮風に吹かれて夕暮れの海を眺めた。
幕張の浜から目を凝らせば、対岸に川崎あたりのコンビナートが微かに見える程度に東京湾は狭い。当然この海の向こうにアイルランドがあるねなんてロマンも抱けないし、海面は濁っている。
わたあめを薄く引き延ばしたように広がる雲を、残照が薄い桃色に染め上げる。
その下で思い思いに過ごすまばらな人たちが――ランニングする人、犬と散歩する人、釣りをする人、何やらゴス衣装を着た女の子をモード系の女の子がカメラに収めていたりもすれば、流石に五月はまだ寒いだろうに日焼けした上半身を晒し砂浜に寝転がってるドレッドヘアーの男の人もいる――みんな、淡い景色の一部みたいに薄桃色の空気に溶け込んでいる。
妥協すれば美しいと言えなくもない夕景。思い出の中で美化されたアイルランドと同じくらい、いつか振り返ればこの景色も俺にとって、故郷の記憶と呼べるようになるんだろうか。
今、隣りでリジーはどんな顔をしているんだろう。
わからないけど、俺は今しか訊ねるチャンスは無いと思った。
今まで何をどう訊ねていいのかすらわからなかった。
でもやけに長い気がした今日を経て、せめて質問の内容くらいは、自分の中でまとまっていた。
「なあ、リジー」
そのまま振り返らずに、そのことを、そっと切り出す。
「俺と母さんに、復讐したかったのか?」
風に舞い上がる砂利が目尻に触れて、慌てて瞼を閉じる。
風はリジーのブロンドの髪を軽くなびかせ、仄かに甘い香りごと鼻先をかすめていく。
返事はなかった。
勇気を振り絞って振り返ると、微笑みを浮かべて俺を見るリジーは、いつもより大人びて見えた。
ずっとずっと大人びて見えた。
ホラみたことか。やっぱり全部演技だったんだ。
幼さを消して、年相応の、女子高生らしい、何も知らないくせにすべてわかったような、相手を小馬鹿にしたような表情。
本物の、等身大の女の子がそこにいた。
本物のリジーが、俺のすぐ肩先で微笑んでいる。
翡翠色の瞳に宿る彼女の森の中は、思っていたよりずっと鬱蒼と生い茂っている。
「オヤジ……いや。リジーの両親、うまくいってないのか?」
「シュガパパはシュガパパだよ?」
リジーの声音はかすかに低い。
「私のパパは、死んじゃったパパ一人だけだから」
声が詰まった。
けど、なるべく動揺を打ち消して質問を続ける。
「あれから、ずっと?」
「当たり前だよ。リジー、シュガパパのこと自分のパパだと思ったこと、一度もないよ」
「……それで、家を逃げ出したかったのか」
今度はリジーが海に視線をくれた。
まるで自分の心の故郷に逃げ込むように。けど、その湾の先にはアイルランドなんかないんだ。濁った海と、対岸のコンビナートがあるだけなんだ。
「あんまり幸せそうじゃないといいなーと思ってたけど、シュガーもシュガママも楽しそうだったね」
リジーの言葉は、少し棘を含んでいる。
「おふくろはどうだか知らないけど。俺は、日本帰って来てから大変だったから、さっさと切り替えて前を向くしかなかったんだよ」
俺はついムキになって、言い訳じみた反論をしてから、過ちに気づいて目を閉じる。
「……そっか。切り替えることも出来なかったよな、リジーは」
佐藤家がラヴレス家の近所に引っ越したのは、一つには若くして旦那を亡くしたリジーの母親を支えたいというオヤジの願いがあった。
おふくろも理解を示したからには、それなりに夫婦ぐるみで親しい関係だったのだろう。
そして、俺のオヤジとリジーの母親は、その関係を壊した。
子供だった俺たちは訳もわからないまま受け入れるしかなく、離ればなれになった。
俺はおふくろとこの話を避けたまま暮らしてきたけど、リジーは家に自分の母親と、新しい父親ヅラした俺のオヤジとが暮らし続けていたのだ。
「リジーね。家ではいい子にしていたの。可愛いリジーのまま。そしたら、シュガーのいるところなら、留学してもいいよって許してくれた」
「どういう神経してんだろうな。俺たちの親は」
「……私が、シュガーと結婚するっていいだしたら」
リジーが何人もいて同時に喋っているみたいに、その声が重層的に聞こえた。
「きっと困っちゃうよね。リジーのママも、シュガパパも、シュガママも」
「復讐としては完璧だろうな」
それは痛快だなと思ってリジーを見ると、その瞳は俺に何かを訴えかけていた。
なんだろう。ここまできてまだ、俺はリジーの何かを見落としているんだろうか。
「シュガー。訊いていい?」
「うん?」
「リジーがこっち来るってわかった時、シュガーとシュガママ、困った?」
「おう。すげえ困ったよ」
「リジーがこっち来てから、リジーに毎朝アプローチされて、シュガー困った?」
「お前にはあれが困ってないように見えたか」
「見えたよ? シュガー、デレデレしてた」
「お。おう……でも、まぁ、困ったよ」
「今日、リジーがお昼休み、ひとりぼっちになっているところ見て、シュガー、こう、ギルテ
ィ? なんていうの?」
「罪悪感か?」
「それ。思った?」
「おう……すっげえ、胸が痛かった」
「そう。だったら……」
リジーが何やら俺の腕をこじ開けて、体を潜り込ませる。
今くらいいいだろう。ちょっとだけ周りに同級生がいないか気をつけて見回して、改めてリジーの肩に手を回し、ささやかな力で、こわさないように胸元に抱き寄せる。
そうしてリジーは俺の胸元で、心底寂しそうに漏らす。
「リジーの復讐。もう、終わっちゃった」
「……俺と結婚して、親たちに復讐するんじゃなかったのか?」
リジーの眉は、八の字を描いてはいなかった。
「復讐、なのかな」
リジーの視線が、誘うように上空へ上がる。
俺も空を見上げた。
ピンク色した空に浮かぶちぎれ雲。
「約束。忘れちゃった?」
忘れた訳がなかった。
蘇る遠い日の記憶。金髪の草原。
ブロンドの女の子と草むらに寝そべって、転がりながら夕焼け空を指さした。
思い浮かぶまま、雲の形ををボクとキミにとって身近なあれこれに例えていく。
ほらあれ、ウサギに似ている。
あれはクリームを添えたレモンパイ。
トチノキの実だ。
それにほら、キャリーご自慢の、不細工なアイリッシュテリアが舌垂らしてるとこ。
あの雲を見て。この指先を見て。
ボクの言った通りに見上げたキミの、油断した脇腹をくすぐってやる。
キミは声を立てて笑う。
よほどおかしかったのか、目の端に涙が浮かんでいる。
笑いすぎておなかを抱えると、こぼれた涙はオレンジ色の空にふわっと舞い上がる。
ずっと幼い頃のこと。
そして、俺たちの子供時代が終わった日のこと。
俺のオヤジとリジーのママがくっつくと知らされて、俺たちふたり、家を飛び出してあの草原へ逃げ込んだ。
あの時の俺が、どんな気持ちでその約束をしたのかは覚えていない。
復讐心からくるものなんかではなかったと思う。
ただ俺は、くすぐりあって泣きそうに笑うリジーに、たしかにこう告げたんだ。
結婚して、と。
Would you marry me?
ボクと結婚しよう。
まさか、その言葉を今もリジーが信じてるなんて思っていない。
思いたくなかった。
あれからずっと。リジーは一体どんな気持ちで。
「リジーね。家にいてもずっと寂しくて、シュガーの約束、ずっと忘れたこと無かったよ」
「嘘だ」
「ウソじゃないよ」
「復讐したいんだろ。俺を困らせたくて言ってるんだろ?」
「……You Hope So. シュガーは、そうであってほしいんだね」
逃げ場はなかった。
リジーが俺の目を覗き込んでくる。
その瞳には甘えもない。媚びもない。怒りもない。
すべての「キャラ」をほどいて、ありのままのリジーがそこにいる。
リジー。俺は、きみに言わなくてはいけない。
「リジーね。気づいたよ、今日」
リジーはただ、俺の言葉を待っている。
そうか。
オヤジに続いて、俺もまた、この子を傷つけるんだな。
「リジー、俺は」
リジーの瞳に映る空の中。小さく明滅を繰り返す飛行機が飛び去って見えなくなる。
俺は、せめて逃げずにその言葉を伝える。
「今、きみよりも好きな人が他にいるんだ」
リジーの翡翠色の瞳には、ただ俺だけが映っていた。
「……ミズハ、だね?」
俺は、冴木以外の誰かの前で初めて、冴木瑞葉が好きなのだと認めた。
× × ×
帰り道。
六丁目の手前の、五丁目の手前の、小さな公園に差し掛かる。
あれから会話は無かったけれど、リジーは俺の手を強く握って離してくれなかった。
今朝、小さな罪悪感と共にリジーの手を離した公園で、今は強く手を繋ぎながら、この胸は遙かに重量を増した罪の意識ではち切れそうに痛い。
リジーを傷つける覚悟を決めたはずなのに。
俺だってクソ親の被害者なんだ。今日まで大変だったんだ。そんな言い訳と行き場のない憤りが何度もぶり返しては必死に振り払う。
「ありがとう、シュガー」
俺の痛みを察したようにリジーの手から力が抜けて、ついに俺の手から離れた。
今、リジーはどんな顔しているんだろう。
確認するのが怖くて、振り向かずにそのまま少し先を行く。
あんまりシリアスな顔は見せたくない。
気を引きしめて気のゆるんだ表情を作り、ようやく立ち止まって振り返る。
「どうしたリジー。今日くらい、ずっと手を繋いでたいんじゃなかった?」
リジーの小さな両手は、それぞれギュッと強く閉じられていた。
幼い子供のようになにかを堪え、リジーが顔を上げる。
口端を上げ、奥歯を噛みしめたように強ばった表情で、不敵な笑みを浮かべていた。
それは作ったような甘ったるいリジーでも、年頃の自然体なリジーでもない。
強気で自分を武装した、新しいリジーだった。
「ミズハが好きな人、シュガーは知ってるの?」
中学の卒業式。俺は冴木に告白し、そしてフラれた。
そのことは砂浜でリジーに伝えていた。
「さあ? いるのかな。正直わかんね。少なくとも俺の知ってる人じゃないと思う」
冴木の交友関係なんて知らないし、クラスで冴木が特に親しくしてる男子も思い当たらない。
「シュガーも、ミズハに同じこと言われたんだね」
「は?」
「きみよりも、他に……」
そこでリジーは口ごもる。
俺はちょっとうろたえる。
「え、なんでわかった?」
図星だったから。
あの時、冴木は俺の気持ちに気づいていたと笑い、きみよりも他に好きな人がいると教えてくれた。
なんだ、どれだけ引きずってるんだ俺は。まったく同じ言葉を口にしていたんじゃないか。
「リジーね、もっと困るシュガーが見たかったの。でもカッコつけて言うんだもん」
するとリジーは下唇を前につきだし目を細めると、心底バカにした口真似で俺の言葉を繰り返す。
「今、きみよりも好きな人が他にいるんだ」
「そんな変な言い方してねえだろ、俺」
「シュガー、かっこつけてた」
やーい、とリジーは笑う。
それから、その目に涙が溜まり、
「あれ?」
ぽろぽろとこぼれ落ちる。
「おかしいよ、シュガー……ナミダ、止まらないの」
そんなリジーを見つめる俺の視界も、涙でにじんでいた。
「やめろよ、リジー。思い出しちゃうだろ……その言葉がどんなに痛かったか」
「えへへ。おそろい」
「嬉しくないわ」
俺にその言葉を告げた冴木も、痛んでくれたんだろうか。
あれから高校でも顔を合わせて、当たり前のように普段通り接し続けてくれるその時もずっと、アイツは痛み続けてくれているのだろうか。
涙は流れるままにしておいた。
そして俺の真似をするリジーの真似をして、少し強気に唇を尖らせる。
「でも俺はまだ、諦めてないからな。いつか絶対に冴木を振り向かせてやる」
リジーも涙は拭かずに、強気な笑みを浮かべ続けている。
「じゃ、リジーも諦めない。だって同じ家に住んでるんだもん。ヨルガケもアサガケもいっぱいして、シュガーとラブラブし続けるの。それが、リジーの復讐だから」
「復讐って認めてるじゃねーか。おう。かかってこいよ。何度だってフッてやる。でも俺は、もう二度とリジーを一人にはしないからな」
またリジーは眉を八の字にして、それでももう困った様子ではなかった。
その瞳は攻撃的な、獣の挑発を漲らせている。
涙で売るんだ瞳が、いつもより少し大きく、たくましく見えた。
と、そのままリジーがダッシュで近寄ってきた。
待って、殴られる? 噛まれる? なに?
リジーは俺の手を強引に引き寄せると、そのまま公園脇の茂みの中へと連れ込んだ。いや、かかってこいとは言ったけど、乱暴はやめてほしい。
目も泳いでドギマギしている俺の頭を、意外と重たいリジーの腕力がグッと押さえつけ、ついでにグリッと首ごと向きを変えさせられる。暗殺される瞬間ってこんな感じなんだろうな。
リジーが囁くように声のトーンを落とす。
「しゅがぁ。どういうこと……?」
「は?」
リジーに促されるまま、視線を前方へ送る。小さな公園を抜けた先、五丁目の舗道で、同い年くらいの男女が言い争っている。
「どういうこと……だろうな」
今朝の疑問と違和感が、ふと脳裏を過ぎっていった。
(――まさか、このやりとりをアイツに見られていたとはな)
どうして地元の違うリョーマが、俺とリジーを目にしていたんだ?
そこにいるのは、冴木とリョーマだった。
クラスでそうしていたように、冴木は親密な距離でリョーマを何やら罵っている。
リョーマは冴木を邪険そうに手で払うジェスチャーを見せて、背を向けて去っていった。
去り際に、不穏な一言を叫んで残して。
「悪いけど瑞葉にはなびかんので。俺の真のヒロインは、リジーちゃんだっ」
不穏っていうか頭がおかしいテンションで。
俺はリジーと顔を見合わせる。
見送る冴木の背中が全て物語っていた。
俺は冴木が好きで。リジーは俺が好きで。リョーマは金髪碧眼美少女に憧れていて。そして冴木はの好きな人は……。
俺たちは今日やっと、過去ではない、今ここにある青春をスタートさせようとしていた。
おわり
そして騒がしい恋のはじまり