オルゴールの中のちいさな手紙事件 推理編
翌日の放課後。
マイから例の手紙をふたつ封筒ごと預かって、柳瀬歌南の元へと向かう。
今日はあらかじめ一組で時間を潰し、廊下を歩く生徒達の姿が見えなくなる頃を見計らって歌南のいる八組を訪ねた。
こそこそと八組の教室を覗く。歌南以外に生徒の姿はなく、彼女は昨日と同様に窓際の後ろから二番目の席に座っていた。小説を読んでいた昨日とは違い、今日は窓の外を眺めている。校庭では運動部が部活をしているも、彼女が見ているのは空を流れる雲のようだった。
同級生の少女が放課後の教室で一人、空を眺めている。
それだけのことだが、リサトにはこの場景が一枚の絵画のように見えた。スマホで写真を撮って待ち受けにしようかと思うも、誰かに知られでもしたら言い訳できない。
さて困ったぞ、とリサトは考える。教室に入っては見たものの、歌南はこちらに気づいていないようだ。どうしてだか昨日と同じく歌南に声をかけるのがはばかられる。
しかしこのまま後姿を眺め続けるのは、それはそれでおかしな誤解をされかねない。
「……こんにちは」
驚かさないように声のトーンを抑えて、リサトが挨拶をする。
振り返った歌南が、今日は真っ直ぐにリサトを見た。
「こんにちは」
表情なく、歌南が挨拶を返す。
リサトの心臓は小さく波打つが、昨日ほどの衝撃はない。歌南は同級生の女子達とはまるっきり別次元の美しさだったが、リサトが容姿的な好みとしているのは音倉奈菜海だった。
今日は歌南への耐性をつけるために一日中、ナナミをじっとりねっとりと舐めるように眺めてからここへ来たのだ。
「じゃあ早速だけどこれを」
リサトは歌南の傍へ行き、鞄からハンカチに包まれた文様鍔を取り出した。ハンカチを解いて、歌南の前へと差し出す。
歌南が数度、瞬きをした。その長い睫毛と濡れたように光る瞳へリサトは釘付けになる。
「……思っていたより綺麗」
「大切に使っていたし、昨日も最後に磨いたんだ。けどこれよく見ると傷だらけでさ」
歌南は手に取り、文様鍔をまじまじと眺める。細い小さな手にまた視線を奪われた。
「本当ね。たくさんの傷があるわ」
「これでオッケー、かな?」
「ええ……いいわ」
歌南は少し間を開けてから答え、文様鍔を胸に抱いた。
彼女はきっと、それをすぐに捨ててしまうのだろう。歌南にとっては使い道のないものだ。自分の目の前で捨ててくれないかなとリサトは考える。そうすれば拾って取り戻すことが出来るのに。
鍔への未練は尽きないが、リサトは鞄から例の封筒をふたつ出して歌南に渡した。
「これ、見たことある?」
彼女の表情に変化がないか見逃さないよう注視する。万が一にも歌南が手紙をオルゴールへと入れた犯人ならば、表情になんらかの変化があるはずだ。
「可愛らしい封筒ね。なかを見ても?」
「どうぞ」
歌南は文様鍔を膝の上に置いて、封筒から手紙を出した。そしてリサトへと顔を向ける。
「椎名クン。そんなに見詰められると緊張してしまうのだけれど」
「え? ああ、ごめんなさい」
無表情のままでいる歌南の言葉に、どの辺りが緊張しているのかと問いたくなる。
歌南は中の黄色い手紙を開いて目を落とす。二通目も同じように開いて確認をした。
しばらく紙面を追ってから、歌南はようやくリサトへ表情らしいものを向ける。
その表情は、おそらく困り顔だったのだろうとリサトは推測した。
「これは……あなたからわたしへの要望なのかしら。もしそうだとしたらとても難解だわ。わたしは洗濯を毎日しているし、部屋もきれいに片づけているから」
一通目に書かれているのは『お部屋の片付けをしましょう』。
二通目に書かれているのは『こまめにお洗濯をしましょう』。
どちらの手紙も黄色地で縦長の紙に、黒字でそう縦書きされている。
それと、と歌南が手紙を指さす。
「このヒントもわたしには難しくてわからない」
主文の下、用紙の下部には『ヒント』の文字と横書きが二文。
一行目は『色を逆に』。
二行目は『文字数が残りの数』。
リサトは歌南の様子を窺い見ている。嘘をついたり、とぼけたりしているようには思えなかった。もしここまでのすべてが彼女の演技なのだとしたら、とても自分では見抜けない。この手紙に柳瀬歌南はかかわっていない。リサトはそう結論付けた。
「……なるほど」
歌南がそう言った。なにが「なるほど」なのかとリサトが問う前に、歌南が言葉を続ける。
「これを解くのがあなたからの条件ということね。確かにわたしだけが求めるのでは不公平だわ。すこし待って」
「え? あ、うん」
手紙を回収しようとしたリサトが手を止める。歌南の言わんとしたことはよくわからなかったが、待てと言われたので待つことにした。
「『色を逆に』というのは紙面の色かしら。黄色地に黒い文字で書かれているから、逆にして黒地に黄色」
「あ、正解」
この子、ヒントを解こうとしてくれているのだなとリサトは理解する。それならばと歌南の前の席に座った。
「一行目のヒントは『夜と星』を表わしているんだって。でも二行目がわからなくって」
「これはあなたが書いたものではないの?」
不思議そうに――無表情なのでわからないが、おそらく不思議そうに歌南が訊いた。
「違うよ。柳瀬さんは寮の隣部屋に住んでいる湖早川眞依を知っている?」
「知っているわ。挨拶をする程度だけれど」
「そのマイの部屋にオルゴールがあって、朝起きるとそこへこの手紙が入っているらしいんだ」
「まぁ……不思議な話ね。誰がなんのために入れているの?」
「俺は隣部屋の音倉奈菜海さんが犯人だと思うんだ。ナナミさんが夜中にベランダ伝いに防火扉を開けて、マイの部屋へ忍び込んでいるって。でもマイは『ナナミがそんなことするはずない』って聞かないんだよ」
「では誰がなんのためにやっているのかはわからないのね?」
「うんまあ一応はそういうことになるかな」
ナナミはほぼ自供しているが、その辺りを説明するのは大変そうなのでやめておく。マイが歌南を疑っていることも伏せておくことにした。
歌南は紙面にじっと視線を落とす。
「『文字数が残りの数』の『残りの数』というのは、残りの手紙枚数を意味しているのかしら」
「あ、それ良い線かも」
当初は二通目があるとリサトは考えていなかった。二通目があるのなら、三通目以降があっても不思議はない。その残りが『文字数』という部分にかかっているのかもしれない。
歌南が手紙の主文を指さす。
「この『お部屋の片付けをしましょう』と『こまめにお洗濯をしましょう』の文字数は両方とも十三文字だから、手元にある二通を引いて『残りは十一通』ということかもしれないわ」
「いや。この主文は文字数とは関係ないらしいんだ」
リサトの言葉に歌南が顔を上げる。
「……椎名クン。先ほども気になったのだけれど、手紙の差出人がわからないのに、ヒントの誤りをなぜあなたは知っているの?」
「えーっと」
やはり説明せずにおくのは無理のようだ。
「さっき話したナナミさんは、自分が犯人だって認めているんだ。ヒントの正解と間違いも教えてくれる。でも犯人捜しをしているマイだけが、なぜか頑なにナナミさんは違うってきかなくて」
「……あなたの話、わたしにはよくわからないわ」
「だろうねぇ。言ってる俺もわかってないからねぇ」
リサトは思わずため息をついてしまう。
「きっとなにか複雑な事情があるのね。もう少し考えてみる」
「ごめんね。ありがとうね。俺も考えてみるよ」
実際は複雑な事情などまるでない。マイがナナミを妄信しているだけだ。それよりも、とリサトは思う。どうして柳瀬歌南は一緒にヒントを解いてくれているのだろう。
「手紙はオルゴールに入っているのよね? そこに答えになりそうなものはない?」
「うーん」
唸ってからリサトは思い当たる。「そうだ。一行目の『色を逆に』。これがオルゴールに関係するのかも」
「どういうこと?」
「例えばオルゴールの箱にある模様とか、曲とか」
「心当たりがあるの?」
「うん。ちょっと電話してもいい?」
「ええ」
リサトはスマホを取り出すと、通話アプリを起動してマイの名前をタップした。
『もしもしリサト? どうしたの? 珍しいじゃない』
数回のコールの後、マイが出る。
「ちょっと聞きたいことがあって。いまどこに?」
『部屋よ。ナナミとお菓子食べてる』
『リサトくんから? お菓子はマイがほとんど一人で食べてるよー』
ナナミのくぐもった声が聞こえた。
「ああ、ちょうどいいや。通話をスピーカーにしてくれる?」
『おっけー』
リサトも通話をスピーカーに切り替えて机上に置いた。歌南がスマホへ耳を傾ける。
「手紙が入っていたオルゴールあるでしょ? それの曲、ちょっと歌ってみてくれる?」
リサトの言葉に、狼狽したようなマイの声が返ってくる。
『う、歌う? なんでそんなことしなくちゃいけないのよ』
「手紙の謎を解く鍵になるんだ。ほら早く」
『えぇ……歌苦手なんだけど』
「いいから早く歌って。早く早く」
にやにやしながらリサトがマイを煽る。
『う、うぅ……。ら、ららら~らららら~らら~』
スマホから調子の外れた鼻歌が聴こえてくる。リサトは噴き出しそうになるのを必死に耐えた。
『う、歌ったわよ。これでどう?』
おかしいわね、と歌南が真顔で呟く。
「こんなに音階のでたらめな曲が、この世に存在するとは思えないのだけれど……もしかしたら、地獄で作られた曲なのかしら」
堪えきれずにリサトが噴き出す。スピーカーからはナナミの笑い声が漏れ聞こえた。
『う、歌は苦手だって言ったでしょ!? ていうか誰よ今の!? なんか女の声にディスられたんだけど!?』
「柳瀬さんだよ。手紙の謎解きを一緒にやってくれてるんだ」
『は、はぁ!? なんでそんなことに?』
「それは明日話します」
椎名クン、と真顔のままで歌南が言った。
「いまのはいったいなんだったの?」
「マイはね。音程とか、リズム感とか、そういう音楽に関係するすべてのものを、お母さんのお腹の中に忘れてきてしまったんだ。それを柳瀬さんに教えたくて」
『なんでよっ!?』
マイの音割れした声が教室内に響いた。
「面倒くさいことさせられている、せめてもの仕返し」
勝ち誇ったように言うリサトへ、歌南は不思議そうに首を傾げた。
『リサトぉ……覚えてろよぉ……』
『リサトくん。オルゴールの曲、流そうか?』
ナナミの提案に、リサトが即座に答える。
「うん。お願い」
『最初からそうすればよかったじゃない!』
『流すよぉ』
スマホから聴こえる曲は、ドビュッシーの『月の光』だった。
「――そういうことね」
歌南が頷く。リサトもこれにはピンときた。
『聴こえたー?』
ナナミの問いに、リサトがありがとうと応える。
「おかげで謎が解けそうだよ」
『そっかー頑張ってねー』
まるで他人事のようなナナミの声音で、リサトの額に青筋が浮かぶ。もともとは彼女のせいで、こんなことになっているのだ。
それじゃあ、と言ってリサトは通話終了をタップした。罵声を浴びせてくるマイは無視しておく。
さて、とリサトが言う。
「オルゴールの曲目『月の光』が一行目のヒント『色を逆に』を指していたってことかな?」
「きっとそうね。黒地に黄色文字が『夜』と『月』――『月の光』を表していたみたい。これを二行目のヒント『文字数』に当てはめると『つきのひかり』だから六文字」
「六、六かぁ……全部で六回、手紙が届くってところかな?」
これが正解なら残り四通。ナナミからのダメ出しがあと四回マイへ届くということになる。
そのたびにマイは騒ぎ立てるのだろう。リサトは胃が痛くなった。
「わたしにも結果を教えて。もし間違っていたらまた一緒に考えましょう」
歌南の提案にリサトは驚く。
「いいの? ありがたいけど迷惑じゃない?」
歌南は無言で首を横に振った。
なんだか普通に良い子みたいだな、とリサトは思った。もっともこの時間が『文様鍔と引き換えにしたもの』ではなかったならばだが。物品を要求した以上、最後まで面倒を見るのが当然だと歌南は考えているのかもしれない。或いは別の意図があるのかもしれないが、自分ではきっと考えが及ばないだろうとリサトは結論を出す。そもそも最初から、柳瀬歌南の言動はリサトの常識の範疇外にあったのだから。
「今日はありがとう」
リサトは席を立つ。「明日、結果を知らせにくるよ」
「ええ。待っているわ。――ねぇ、椎名クン」
少し間を置いてから歌南は続けた。「本当に良いの? あなたは……なんと言うか、そういうことをすべきではない人のように思えるのだけれど」
「そういうこと?」
なんの話かと思うも、マイの我儘に付き合ってやっていること以外にないだろう。
まあ、とリサトは言った。
「自分で決めたことだから」
むしろこの方法は一番面倒が少ないのだ。
歌南は口を開いて、閉じる。そしてまた開く。
「そう。――さようなら。次は月曜日に来るのね?」
「うん。さようなら。ありがとう」
もう一度お礼を言うと、リサトは手を振って教室を出て行った。
柳瀬歌南は膝に乗せた文様鍔へ視線を落とすと、それをそっと撫でた。