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校内の有名人とお話する

 水曜の放課後。

 いつもならば椎名莉里(しいなりさと)が剣道場に通う日だ。

 けれど彼にとっては残念なことに、道場は現在改築工事のため閉鎖されていた。二週間ほど前に来た台風が、道場の壁面と屋根を一部持ち去ってしまったのだ。

 道場は以前から雨漏りするなど、かなり老朽化が進んでいたため道場主も改築を考えてはいたらしい。けれど実行する前に台風にやられ、全面改築を余儀なくされてしまった。道場の再開予定は二ヶ月先だ。

 だがそんな長期間、竹刀を握らないでいるなんてリサトには耐えられない。彼は早朝の公園での素振りを日課とすることにした。竹刀袋を持って公園へ向かう道中で何度か警察官に職務質問をされることはあったが、事情を説明して手のひらの盛り上がったマメを見せれば彼らは一様に納得してくれた。リサトの通う道場が地域で有名であったことも、その一助となっていたようだった。

 八組の教室前では、帰り支度を済ませたアキラが待っていた。

「よっすー」

「おっす」

 二人はお決まりの挨拶を交わす。

「窓際の後ろから二番目が柳瀬の席だ」

 アキラがリサトの耳元で呟く。

「ありがとう。助かったよ」

「かまわねぇよ。こんくらい」

 リサトは柳瀬歌南(やなせかな)の顔を知らない。アキラはそれを察して待っていてくれたようだ。こういうとき、幼馴染の彼の心遣いは本当にありがたい。

「じゃあ、オレは道場があるから帰るわ」

 アキラは五歳の頃から空手の道場に通っている。彼はいま高校の男子寮で暮らしているが、学校の許可を取って隣駅の空手道場の門下生となっていた。

「うん。がんばって」

 リサトとアキラは互いに小さく手を挙げる。アキラの後姿を少しの間見送ってから、リサトは壁へと寄りかかった。

 八組の教室から出て行く生徒達の姿がまばらになると、リサトはこっそり教室を覗いてみる。

 中に残っているのは八人。グループを作ってお喋りをしている女子が五人と、スマホでゲームをしていると思しき男子が二人。

 アキラが教えてくれた窓際の後ろから二番目の席には、文庫の小説を読んでいる長い黒髪の少女が一人でいた。

 彼女が柳瀬歌南に違いないだろう。彼女は近くにいる女子グループへ混じることなく、黙々と小説を読み耽っていた。

 リサトは再び廊下の壁にもたれると、ブレザーのポケットからスマートフォンを取り出した。ニュースサイトを開き、トピックスに目を通す。トップの記事に目を引かれるものはない。『もっと見る』の項目をタップして、トピックス一覧を開いた。

 一覧を流し見るも、興味を持てる記事はなかった。

 他のサイトを見ようかと考えたタイミングで、教室から男子二人組が出てきた。

「あれ? 椎名じゃん。真江原ならとっくに帰ったぞ」

 リサトと顔馴染みの一人が声をかけてきた。

「知ってるよ。別の奴と待ち合わせしているんだ」

 咄嗟に嘘をつく。柳瀬歌南に用があるとは言い辛い。噂を聞いて告白しに来たとでも思われたら後々厄介なことになるかもしれない。

「そっか。じゃーな」

 疑うことなく男子生徒は片手を挙げて去っていく。リサトはなんとなく、ほっと息を吐いてからスマホの液晶へと視線を戻した。

 画面にはひとつの記事が開かれていた。どうやら指が当たって、意図せずに開いてしまったようだ。折角だから、というのも変だがその記事へ目を通す。

 記事の内容はあまり楽しいものではなかった。

 人気俳優がストーカー女性に刺されたというものだ。(くだん)の俳優は半年ほど加害者女性と交際していたが、その女性が断りなく俳優の収録現場へ入り込むようになったらしい。俳優が何度もそれを咎めたにも関わらず、女性が改めないために別れを切り出したのがきっかけでストーカー化したそうだ。俳優は腹部を刺されたが命に別状はないようだった。

 リサトの腹部にある古傷が、ちくりと痛んだ気がした。それはこの俳優のように交際していた女性につけられたものではなかったが、苦い記憶が刹那蘇る。

 いつの間にか人気の無くなった廊下に、教室内からの(かしま)しい声が響く。残っていた五人組の女子が教室から出てくる。莉里はスマホへ視線を落としたまま、微動だにせずにいた。一団からの視線を感じるが、知らん振りを決め込む。

 そのまま横目で五人の背中を見送り、彼女たちが廊下を曲がるところまで目視した。

 スマホをブレザーのポケットへ戻してから、足元へ置いておいた通学鞄を手に八組へと入る。

 教室内にいるのは女生徒が一人。窓際の後ろから二番目。さきほどと同じ席、同じ格好で本を読んでいる。

 リサトが教室内へ入っても、少女は見向きもしない。

 ただ声をかければ良いだけなのだが、どうしてか躊躇われた。一度だけでもこちらを見てくれれば声をかけやすいのだが、初対面の少女と二人きりのままそのタイミングを待ち続ける胆力をリサトは持ち合わせていなかった。

 ふーっと長く息を吐く。剣道と同じで、大事なのは間合いと気合だ。

「柳瀬さん、だよね? 俺は一組の椎名です」

 中途半端に敬語を使ってしまった。それが無性に気恥ずかしくなる。

「はい」

 少女は答えた。答えたが、視線をこちらへ向けてはくれない。

「えっと、突然で悪いんだけど――」

「下の名前は? シイナ、なにクン?」

 柳瀬歌南はリサトの言葉を遮って訊ねた。相変わらず、視線は小説へと向けられている。

 なぜ下の名前を聞かれたのだろう? 警戒されているのだろうか? 教室で二人きりなのだ。無理もない。やはりアキラに同席して貰えば良かったかなと、リサトは弱気なことを矢継ぎ早に考える。

「――莉里。莉は草冠(くさかんむり)に利用の利。里は里山の里で、リサトって読むんだ」

 聞かれたのだから答えた方がいいだろう。リサトはお決まりにしている名前の説明をした。

「そう。しいなりさとクンね。わたしは柳瀬歌南よ。カナは歌に東西南北の南」

 歌南は文庫本へと話しかけ続けている。

 アキラから聞いていた印象とは違って、なんだか陰気で感じが悪いなとリサトは思った。もっとも、初対面の相手に愛想を振りまくタイプではないだけかもしれないが。

 なんにせよ、さっさと用件を済ませてしまおう。リサトはそう決めた。

「ちょっと話があって――」

「いいわよ」

 歌南はまたリサトの言葉尻に被せてきた。

 なんか話しづらいなと思いつつも、了承してくれたのはありがたい。リサトは言葉を続ける。

「じゃあ、さっそくだけど――」

「待って」

 近寄ろうとするリサトを歌南が制する。言葉に従い足を止めた。

 歌南は小説へ向かって言葉を紡ぐ。

「しいなりさとクン。その前にあなたの私物を一つわたしにちょうだい。高価な物や、価値のある物でなくていいの。ただ、あなたがいつも身につけているものか、大切にしているものだと嬉しいのだけれど」

 いきなり物品を要求された。

 ――これはなんだろう、とリサトは考える。

 彼女とお話をするのには貢物が必要なのだろうか。王様と話をするには宝物を捧げなくてはいけない。ちいさい頃にそんな絵本を読んだことを思い出す。あの物語の主人公は、王様になにを捧げていただろうか。

 リサトは柳瀬歌南の渾名を思い出す。『黒』髪『ロ』ングの『ビ』ッチ。黒ロビ。

 黒ロビさんとお話をするのには、王様にするように贈り物が必要だというのだろうか。いやいやそんなわけないだろうと、リサトは自身に言い聞かせる。予期せぬ歌南の反応に戸惑ってしまっただけだ。

 とりあえずは確認だ。自分はなにか聞き間違えをしているのかもしれない。

「えっと……柳瀬さんと話をする前に、俺はなにをすれば?」

「ごめんなさい。聞き取り辛かったのね。あなたの私物を一つわたしにちょうだい。高価な物や、価値のある物でなくていいの。ただ、あなたがいつも身につけているものか、大切にしているものだと嬉しいのだけれど」

 聞き間違えではなかったようだ。柳瀬歌南という名の少女は、話をする対価に物品をこちらへ要求している。それは完全にリサトの常識を大きく逸脱するものだった。

 やばい。ビッチ怖い。いますぐ帰りたい。けれどここで帰ったらマイにいつまでもいつまでも文句を言われるのが目に見えている。どうしよう。リサトの思考がぐるぐると交錯する。

 優先すべきはなんであるか。リサトはそれを考える。

 マイを納得させること。そのためには柳瀬歌南と話をしなくてはいけない。

 結局は最初の目的に戻ってしまう。

 歌南と話をするには、なにか私物を渡さなくてはならない。彼女は『いつも身につけているものか、大切なものが欲しい』と言っていた。

 彼女と自分は、ここで話をするだけの関係で終わる。適当にいらないものを大切だとでっち上げて渡してしまえばいい。それはわかっているが、こちらには後ろ暗いことしかない。柳瀬歌南を『訳の分からない手紙を送った犯人』だと疑ってここへ来たのだ。正確に言うと疑っているのはマイだけだが。とはいえ一方的に疑いをかけたうえに、ゴミを渡すのはあまりにも不誠実ではないだろうか。

 なによりリサトが不安視しているのは、自分がアキラと友人であることを柳瀬歌南が後から知ることだった。良好であるらしいアキラと歌南の関係に、要らぬ亀裂を生じさせてしまうかもしれない。

「……竹刀の鍔でいいかな?」

 リサトが訊ねる。

「シナイのツバ?」

 歌南がリサトの問いを繰り返す。

 そして彼女の目線が小説から正面の黒板へと動く。

「――『シナイ』というのがどういう意味なのかわからないけれど、つまりシイナクンはわたしに『唾液』をくれるということね。けれど困ったわ。わたしはあなたの唾液をどうやって受け取ればいいのかわからないし、どうやって保管すればいいのかもわからないの」

 声にも顔にも表情はなく、歌南は黒板へ向けて首を傾げた。「教えてくれる?」

「えーっと……」

 リサトが口篭る。

 これはもしかしたら彼女なりの冗談なのかもしれない。正直なところ真意は計り知れないが、リサトにはそれ以外考えられなかった。

 いちおう鍔の説明をしておこうとリサトは補足する。

「剣道、は知ってるよね? 剣道、柔道とかの武道の剣道。竹刀っていうのは、その剣道で使う道具のこと。ツバは唾液じゃなくて、刀身と柄の間に挟んで拳を守るもの。それを鍔って言うんだ。――ここまではいい?」

 歌南は黒板に向かって頷いた。

「それで柳瀬さんに渡すつもりの『鍔』は、俺が小学校五年生のときに父親が面白がって買ってきた文様鍔なんだ。鍔の表面は黒地で、桃色の桜が描かれているデザインの。すこし色褪せてはいるけれど、いまも大切に使っているものだよ。どうかな?」

 柳瀬歌南の視線が黒板から、初めてリサトへと向けられた。

「――――――」

 歌南がなにかを言った。

 しかしリサトの耳には届かない。胸が、バクンと強く鼓動する。

 陰気だと感じた彼女への印象。それは風が強い日の、道へ落ちて乾燥した木の葉のように、どこかへと吹き飛んでいった。

 射抜くように向けられた黒目がちな瞳。それを縁取る睫毛は長く、僅かに上方へと反っていた。小ぶりな鼻は決して高くはないが、顔の中心で存在を主張するようにすっと線を引いている。唇はすこし薄めだが、不思議と艶やかで視線を惹かれた。

 身体つきは華奢でブレザーの上からでもわかるほどに腰は細く、胸の膨らみは乏しい。しかし陶器のように滑らかな白い肌と低い座高が、その控え目な胸をむしろ完璧なバランスで引き立てていた。

 そして何よりも目を引かれるのは、夕日を反射している黒い髪。赤い太陽の光を受けてなお黒いその髪は、烏の濡れ羽色という言葉を連想させる。湿り気を含んでいると錯覚させる長い髪は腰まで届き、さらりと肩から少女の腹部へと零れ落ちた。

「シイナクン?」

 名を呼ばれて、リサトは我に返る。

「あ、あー、ごめん。もう一回言って貰っていい?」

 見惚れてしまった。その事実に、リサトの頬が赤くなる。

 歌南が頷く。表情はないままだが、今度はしっかりとリサトを見ていた。

「ええ。あなたがくれるという鍔は、お父さんの形見かなにかだったりするのかしら? もしそうならば、さすがに受け取れないわ」

「まさか。親父は元気にしているよ。形見だなんて、そんな大層なものじゃない」

「そう。でも大切なものなのね?」

「うん」

「それをわたしにくれるのね?」

「家にあるから、渡すのは明日になるけどね。その後に話を聞いてくれる?」

「わかったわ。明日も今日のようにわたしは放課後の教室にいる。気が変わらなければ来て」

「了解。今日くらいの時間にまた行くよ。悪いけど待っていて」

 リサトは歌南に手を振ると、くるりと背中を向けて教室を出た。

 廊下を早足で歩きながら、文様鍔を渡すのはちょっと勿体なかったかなとリサトは考える。

 ――だがそれよりも。

 瞼に焼きついてしまった、歌南の姿が消えない。

 リサトは自身の厚い胸板を、戒めるように拳でドンと叩いた。

 危うく……危うく、一目で恋に落ちるところだった。

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