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群狼の花  作者: 栗落花 一
1/3

序章


守りたい。たとえ、この身が汚れようとも。





* * *




「くそっ!」


荒い息のもと、男はみじかく吐き捨てた。

頭の中では様々な思いが交錯していたが、言葉にできたのはたったそれだけだ。

長いこと走り続けた足は、もうとっくに限界を超えている。

それでもまだ走らなければ、待っているのは死だ。

足を止めれば、すぐに追手に追いつかれてしまう。


(何故だ、どうしてこうなった!?)


今更考えても仕方のない疑問が、怒りと共に湧いて出る。

すべて上手くいっていたはずだった。

間者(かんじゃ)として敵の懐に潜り込んでから、ずいぶん長い時が過ぎたように思える。

その間、一度たりとも失敗をした記憶はなかった。

自分を間者と疑う者もいなかったはずだ。


(ーー(いな)。もしや、あの女)


たった一人だけ、自分に猜疑(さいぎ)の眼差しを向けた者がいたことを、彼は思い出した。

美しい女だった。が、その瞳は得体の知れない恐ろしさを宿しており、彼は本能的にその女を危険だと判断していた。


(あいつだ、あいつに決まっている!)


走りながら男は舌打ちした。

一つだけ、自分が大きな過ちを犯していたことに気づいたのだ。

それが今のこの窮状(きゅうじょう)を招いている。


(こうなる前に、あの女を始末しておくべきだったんだ!!)


男がそう考えた瞬間、ドン、とふいに背中を押された。


「ーーえ?」


一瞬地面が見え、驚いて振り返ろうとするとそのまま世界が反転し、どさりと地面に倒れ込んだ。


視界を占めるのは、空の青。


(なんだ?なん、で……)


起き上がろうにも、まったくと言っていいほど身体に力が入らなかった。

あまりに突然のことで、一体己の身に何が起こったのか理解が追いつかない。

少し遅れて、背中から臀部(でんぶ)にかけて火傷でもしたような熱を感じた。

そして、じっとりと濡れた感触。


(……斬られた、のか?おれ……)


先程の衝撃が「押された」のではなく「斬られた」ものであることに、ようやく思い至った。


いつの間に背後を取られたのか。

追手は余程の手練れなのだろう。

どこから斬りつけてきたのかわからず、今なおその姿はおろか気配すら覚らせない。

あの女の差し金だろうか。


(やっと……やっと、ここまできたのに……)


間者として長い任務を終え、後はもう本来の居場所へ帰るばかりだった。

自分の知り得たこの情報は、この乱世で築かれた勢力図を覆すほどの力を持っている。

なのに、誰にもそれを伝えられぬまま、こんな所でたった一人で死んでいかねばならないのか。

誰にも看取られることなく、この命はここで終わる。

そう思った途端、例えようのない寂しさが込み上げてきた。


ーー『馬鹿ねぇ。ほんと馬鹿』


目を閉じると、聞こえるはずのない懐かしい声が聞こえる。

呆れたように、でもどこか憎めない口調でそんな悪態をつくのは、故郷に残してきた愛しい人だ。

幼い頃からやんちゃだった自分が怪我をするたび、彼女はぶつぶつと文句を言いながらも手当てをしてくれた。

今回の任務を自ら買って出たときも、彼女は同じように『馬鹿ね』と呟いたのだった。

いつもと違ったのは、その言葉の響きがどこか少し悲しそうだったことだ。

寂しげに揺れる瞳が、鮮明に脳裏に焼きついている。

あのときはその理由を問うことができなかった。

ひょっとすると彼女は、こんな形で別れることを微かに予感していたのではないだろうか。


(せめて心だけでも、あいつの元に飛んでいけたら……)


遥か上空を飛ぶ(とび)の鳴き声に耳を傾けながら、男はゆっくりと瞼を下ろし、それきり二度と開けることはなかった。


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