序章
守りたい。たとえ、この身が汚れようとも。
* * *
「くそっ!」
荒い息のもと、男はみじかく吐き捨てた。
頭の中では様々な思いが交錯していたが、言葉にできたのはたったそれだけだ。
長いこと走り続けた足は、もうとっくに限界を超えている。
それでもまだ走らなければ、待っているのは死だ。
足を止めれば、すぐに追手に追いつかれてしまう。
(何故だ、どうしてこうなった!?)
今更考えても仕方のない疑問が、怒りと共に湧いて出る。
すべて上手くいっていたはずだった。
間者として敵の懐に潜り込んでから、ずいぶん長い時が過ぎたように思える。
その間、一度たりとも失敗をした記憶はなかった。
自分を間者と疑う者もいなかったはずだ。
(ーー否。もしや、あの女)
たった一人だけ、自分に猜疑の眼差しを向けた者がいたことを、彼は思い出した。
美しい女だった。が、その瞳は得体の知れない恐ろしさを宿しており、彼は本能的にその女を危険だと判断していた。
(あいつだ、あいつに決まっている!)
走りながら男は舌打ちした。
一つだけ、自分が大きな過ちを犯していたことに気づいたのだ。
それが今のこの窮状を招いている。
(こうなる前に、あの女を始末しておくべきだったんだ!!)
男がそう考えた瞬間、ドン、とふいに背中を押された。
「ーーえ?」
一瞬地面が見え、驚いて振り返ろうとするとそのまま世界が反転し、どさりと地面に倒れ込んだ。
視界を占めるのは、空の青。
(なんだ?なん、で……)
起き上がろうにも、まったくと言っていいほど身体に力が入らなかった。
あまりに突然のことで、一体己の身に何が起こったのか理解が追いつかない。
少し遅れて、背中から臀部にかけて火傷でもしたような熱を感じた。
そして、じっとりと濡れた感触。
(……斬られた、のか?おれ……)
先程の衝撃が「押された」のではなく「斬られた」ものであることに、ようやく思い至った。
いつの間に背後を取られたのか。
追手は余程の手練れなのだろう。
どこから斬りつけてきたのかわからず、今なおその姿はおろか気配すら覚らせない。
あの女の差し金だろうか。
(やっと……やっと、ここまできたのに……)
間者として長い任務を終え、後はもう本来の居場所へ帰るばかりだった。
自分の知り得たこの情報は、この乱世で築かれた勢力図を覆すほどの力を持っている。
なのに、誰にもそれを伝えられぬまま、こんな所でたった一人で死んでいかねばならないのか。
誰にも看取られることなく、この命はここで終わる。
そう思った途端、例えようのない寂しさが込み上げてきた。
ーー『馬鹿ねぇ。ほんと馬鹿』
目を閉じると、聞こえるはずのない懐かしい声が聞こえる。
呆れたように、でもどこか憎めない口調でそんな悪態をつくのは、故郷に残してきた愛しい人だ。
幼い頃からやんちゃだった自分が怪我をするたび、彼女はぶつぶつと文句を言いながらも手当てをしてくれた。
今回の任務を自ら買って出たときも、彼女は同じように『馬鹿ね』と呟いたのだった。
いつもと違ったのは、その言葉の響きがどこか少し悲しそうだったことだ。
寂しげに揺れる瞳が、鮮明に脳裏に焼きついている。
あのときはその理由を問うことができなかった。
ひょっとすると彼女は、こんな形で別れることを微かに予感していたのではないだろうか。
(せめて心だけでも、あいつの元に飛んでいけたら……)
遥か上空を飛ぶ鳶の鳴き声に耳を傾けながら、男はゆっくりと瞼を下ろし、それきり二度と開けることはなかった。